イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

愛の会話!

2007-09-25 | 第九章「愛」

家にいる親子のマルチーズ、ノコ(父親)とコナツ(娘)を観ていると、人間と違っていつもは本当に静かに一緒にいる。ボディーランゲージや耳がよいので微かな音に対する感受性は強いと思うが、会話はない。

ヒトが他の動物や生き物と違うのは、言葉を基にした会話があるということだろう。

これを、単なるヒトとヒトの間の音波を通じたその場限りのコミュニケーションと考えるか、魂と魂の愛の会話といった永遠性を持ったコミュニケーションと観るかは人それぞれである。

私は時折、会話を単なるその場限りのコミューにケージョンと思えず、永遠に通じる何かをもっているように感じることがある。

日常に営まれる様々な会話。そして、それが永遠性を持った魂の会話としたらどうだろうか。傾聴は、日常の会話を魂の会話と捉えることが原点かもしれない。

秋の七草、萩の花、葛の花、おみなえし、なでしこ、尾花、藤袴、桔梗。名月を見ながら、七草を愛でながら愛の会話をしたい。

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愛とルーツ!

2007-09-24 | 第九章「愛」

昨日はお彼岸ということもあり、母方の祖父母の墓参りをした。父と父方の祖父母の墓は遠方でお盆の時に行ったきりである。

自分の命のことを考える時、自分のルーツを思索することほど大切なことはないように思う。第二次世界大戦の中を生き抜いた父母。激動の明治を生き抜いた祖父母の代。さらに江戸時代に遡る代。

江戸時代から、戦国時代、平安時代・奈良時代、日本が成立した頃・・・

命の連鎖を果てしなく、モンゴロイドが日本に到達する時代、どこかシベリアの果てか、ベーリング海を渡りアメリカ大陸へ移動する祖先と別れた時代。ポリネシアに向かう海に向かう祖先と別れた時代。

そして、アフリカからユーラシア大陸に渡り、死海の周辺を通り抜けた時代。アフリカでホモサピエンス・サピエンスとして産声を上げた時代へと行き着くだろう。

さらに、40億年前の地球生命が誕生した時代へ。今でも人類は生命を自ら作ることはできないでいる、謎の生命誕生。さらに、137億年前のビックバン。

墓参りで手を合わすとき、自分を形成してきた無数といっていい祖先と対峙する感覚を持つ。

生かされているのだと暖かい気持ちになる。

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池を観て魂を想う・・・

2007-09-23 | 第八章「魂と聖霊」

昨日は天気が良く、近くの公園でのんびりした。庭園の池の側にじっとしていると、水面に何匹かの水澄ましがいて、水面に波紋を残して動き回っていた。

そんな水面を見ながら、自分の成育史と個性の美、そしてその背後にあると信じる、魂を想った。

刻々と変化するこの世、本当の実態は見えず、映る景色を間接的に捉える自分。身体と成育史としてのこころ、そして魂。

魂に関しては、カトリックの神学の中で、死ぬときに魂は純霊となって身体から分離されるなどいろいろ考察されている。わたしも素人ながら少し勉強した。素人の私には学説は難しいが、自分で魂はどんなものだろうかと考えたり、体感を思ったりすることは楽しい。魂も自分の一部と考えればである。

先日行った比叡山。五感と体感を研ぎ澄ましながら、素晴らしい自然の中で修行する人々がいた。そして1,000年以上の年月を、この日本で見えない何かについて真剣に対峙している。

見えるものを大事にすることもある意味で大事であるが、日本人が永い伝統の中で大事にしてきた、見えないものを大事にすることは忘れてはならないと思う。

信仰を持つ人は、その経緯やその宗教の様々な特色はあるにしろ、共通に平安感や幸福感といったもの感じることが多い。比叡山で出会った方もそうであった。

池の水面を自由に走る水澄まし。今日は何をしようか・・・

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石垣と個性の美・・・

2007-09-22 | 第八章「魂と聖霊」

日本の城郭の石垣作りで有名な、近江の穴太(あのう)衆積を、延暦寺に向かう道で何回も見た。

構造的に安定しているものは、本当に美しい。

そんなことを思いながら、自分の土台はどうなのか、つらつら考えてみた。

本当は父、母が祖先から引き継いで与えてくれたしつけの部分(石)もあるだろう。浅薄な知識からくる浮石のような石もあるかもしれない。50代になって、自分で作った石もあるだろう。

学校で学びながら作られた石。会社でいろいろ教えられた企業文化の石。生まれ育った地域。人との出会い。さまざまな石があるのだろう。

そんなさまざまな、いわく付きの石の集合としての自分のこころ。自分にとって受け入れにくい石、好ましい石、いろいろな石が組み合わされて石垣となる。個性の美とはなにかを考えさせられる。

そして個性の美を生み出す力である何か、に思いを寄せる。

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霧の中で何かを知覚する・・・

2007-09-21 | 第八章「魂と聖霊」

先日、比叡山延暦寺に訪れた。朝から琵琶湖方面の坂本地区から登り、延暦寺の東塔地区、西塔地区を観光させていただいた。

琵琶湖の影響だろうか、延暦寺は霧に包まれていることが多いようである。私の訪問した時も朝早かったこともあり、乳白色の霧に包まれていた。

霧というのは不思議である。視界が霧で遮られるばかりでなく、ちょっとした時に、怖れる感情と、何か暖かい感情が沸いてくるようでようである。

私が3歳のころ、両親や祖父母につれられて日光の東照宮に行ったことを微かに記憶している。その中で、仁王様の怖い像を見て怖くて泣いた。後で何回か日光に行った経験があるが、いつも霧に覆われていた為か、その3歳の時の怖さも霧と関係しているようにも思える。

7歳のころ、父の運転するトラックでアラスカの海岸沿いの道を夜移動したことを思い出す。その時も、断崖の道でヘッドライトで見える前方が霧で覆われ怖かった。そして、怖い記憶とともに、父と共にいる暖かい安心感も抱くかもしれない。

霧の向こうに、怖い何かを感じる。そして、何処かほっとするような気分も混じる。そんなとき、私は神秘的ななにかを知覚しているようだ。

眼に見えないものを信じるときの体感。それは霧とどこかで繋がっているように思う。そして、人間が太古の昔から、眼に見えない何かを知覚・体感することができることをありがたく思う。

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