若い学生の頃に兄の友人のYさんから、指揮者は音楽を自分なりの解釈をして、それを楽団の演奏者に説明して自分のイメージの音楽を演奏するのだと聞いて指揮者の存在意義がやっとわかったということがあった。
音楽を解釈する余地があるなどということは音楽に疎い私には想像を遥かに越えることであった。話は音楽からはずれるが、私の長男が大学受験に失敗して予備校に通っていたころ、彼がFeynmanの物理学の本を受験勉強の暇々に読んでいて、「物理学は思想だ」とつぶやいたときもびっくりした。
残念ながら、私は物理学は思想だとは思っていなかった。もっとも単なる知識の寄せ集めかと問われれば、そうとも言いかねるとは答えただろう。
いまでも物理学は思想かと尋ねられたら、ううんと考え込んでしまうだろう。しかし、物理学者には思想家的な人もいる。物理学者の中でもとりわけ湯川とハイゼンベルクは思想家としての色彩が強い。また、ハイゼンベルクの先生だったボーアとか、アインシュタインもそうだろう。
ガリレイだとか、ケプラーとかはたまたニュートンも思想家なのだろうが、彼らのことはよくはわからない。30年以上前に留学していたマインツ大学で、数学教室の図書室に行ったら、ケプラーの全集もあってそれが大部のものであることはそのときに知ったが、多分ラテン語で読めなかったと思う。
思想が一番大事なものかどうかはわからないが、何ごとかをする人にはかならず思想があるように思う。その思想は簡単なものからもっと多重なものまでいろいろだろう。しかし、ともかくなにか思想とでも呼べるべきものがあるのは確かなようである。