昨日、テニス仲間のSさんのご主人が急死された。これは多分死亡された、ご本人も奥様であるSさんもまったく予期をしていなかったことであったろう。
実際にご主人に会ったことはなかったのだが、先日Sさん宅に電話したときにSさんは不在でこのご主人が出てこられたので、二言三言だが、お話をした。また、一昨日は私の妻が電話したときもこのご主人が電話に出られたということで、昨日の知らせに妻ももちろんショックを受けていた。
人間は死に方を自分で選ぶことはできない。また、こういう実例を見せられて自分に残された時間もそう多くはないのだといまさらながら心に刻み込まれた。
妻もそう遠くない将来に自分も同じようなことを経験するのだろうと予想と覚悟をしたようである。遠くの方の死を聞いてもなかなかぴんと来ないのだが、やはり身近なつきあいのある方に関係しているとなると感じ方はまるで違ってくる。
何の用かは知らないが、この知人は愛媛大学に用があって出かけて居られたが、トイレに行かれてなかなか帰ってこられないので、友人が行ってみたら、トイレの中で倒れていたらしい。それで近くの松山赤十字病院に担ぎ込んだのだが、4時間後に亡くなられたという。
友人から連絡を受けた後で妻がSさんに夜遅く電話したら、いつも明るいSさんの落ち込みようはひどかった。私も一言Sさんとお話をしたが、その狼狽振りや後悔振りはチラッとだが伺うことができてお気の毒としかいいようがない。
つれあいというのは空気みたいなもので、居てもどうということはないのだが、急に死亡するというようなことがあると残されたものに深い心の傷を残す。これは生前につれあいとしての努力が足らないということではない。どれだけ努力をしていても予想をしないことだといろいろと悔いが残るものである。