入試の不正は結構早く決着しそうな様子であるが、その結末はまだ予想されない。
そういう話とはまったく別の考えを今朝妻が呟いていた。それは大学に限らず学校は入りたい学生を拒まず、入学させてそして一人前にして卒業させてこそ、学校だというのである。大学についてはその辺は収容可能な人数に限りがあるので、簡単ではないが。
妻が呟いていたのは私の子どもたちが入学しようとしていた、中高一貫の進学校の校長先生の「優秀な生徒を受験させてほしい」という発言に対する反応であった。それでそういう考えでは教育者としての了見が狭いというのが妻の意見である。
どういう生徒が入学してもそれ相応に教育して、卒業させることができなければ、教育ではないのではないかという。まことにごもっともである。
数学者の小倉金之助がどこかで優秀な学生を育てたというのは教育が無力だったということの証にすぎないと書いていたと思う。
どういう意味だったかははっきりしないが、優秀な学生はどういう教育をしてもその才能を発揮するので、優秀な学生を育てたというのは本当の教育の意味をなしていないという趣旨であったろうか。
東京理科大学の前身の東京物理学校では入学を希望する学生は全員入れたが、そこを卒業するのは難しかった。野球のインニングの裏表のように、たとえば3年の表と次の年の裏とか言われていたそうである。3学年をすべて裏表をやって6年で卒業した学生も多かった。
学年の表、裏をやってもなかなか学生は卒業できなかったのだと聞く。そういう学校はいまではなくなり、入学させた学生はよほどのことがないと卒業させている。これは日本の社会が再挑戦をあまり認めない社会だからである。
いつかアメリカ人の英語の教師から聞いたことだが、アメリカでは評価は厳しいが再挑戦の機会はふんだんに与えられるのだという。そこら辺が国民性の違いかもしれないが、根本的にちがう。日本社会としては再挑戦を許すようにならないといけない。
最近では一度非正規雇用者が一度解雇されると再挑戦して再雇用される可能性が事実上なくなってしまっていると憂いている識者は多い。