物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳

2011-05-27 13:01:18 | 物理学

マトリックス力学とは今では量子力学といわれている、20世紀前半に展開された原子中の電子の力学である。もちろん量子力学は原子中の電子だけを対象にする力学ではないが、誤解を恐れずこう言っておく。

マトリックス力学はもちろんHeisenbergの卓抜なアイディアから始ったが、しかしその数学的な展開にはBornとJordanの貢献が大きかった。BornとJordanとのHeisenbergの論文の数学展開とその後のHeisenbergも含めた有名な三者論文で彼らはマトリックス力学を完成させた。

BornはHeisenbergの先生の一人である。

ところが、1932年にノーベル賞を受賞したのはHeisenberg一人で、BornとJordanははずれていた。そのことについてのBornの苦悩は大きかったことが彼の告白によってわかるのだが、BornはHeisenbergが優秀であることを自分で言い聞かせて自分を納得させたとどこかで読んだ。

その後、1956年にBornは単独で量子力学の確率解釈で、ノーベル賞を受賞するのだが、ここでも政治的な意図が働いていたと、ごく最近の研究でわかったらしい。

これら事情にはJordanがからんでいる。Jordanはナチドイツ下で、ナチの思想に共鳴していたのみならず、その重要な活動の一翼を担っていたらしい。

それで、Heisenbergのノーベル賞受賞のときにノーベル賞の委員会はBornとの同時受賞も考えたらしいのだが、Bornにノーベル賞を与えるとJordanにもノーベル賞を与えない訳には行かなくことになるとの理由で、それを阻止するためにHeisenberg一人の受賞と決定したらしい。

その後、第2次世界大戦後の1956年のBornの受賞のときにもJordanの関係しない業績に対してノーベル賞を授与することにしたらしいと、ごく最近にインターネットのサイトで読んだ。

1976年にアーヘンであったニュートリノ国際会議の際にはまだJordanは存命であったが、そのときに1976年2月1日に亡くなったHeisenbergの追悼講演をJordanがした。もっともこのときの講演はドイツ語でされたので、私にはほとんどわからなかった。

その後まもなくしてJordanは亡くなってしまって、もう歴史上の人物になってしまっている。

ノーベル賞とナチとは受賞者において関係がある。光電効果の実験で有名なLenardもそういう学者の一人であり、賞金を投資とかに使ってはいけないとかの賞金の規約があるらしいが、それに違反して物議を醸したことがあると昔読んだ記憶がある。

また、Stark効果で有名なStarkもノーベル賞の受賞者だが、彼もナチの思想の信奉者でドイツ主義運動とかに関与したとか言われる。そういうことがあったので、ノベール賞選考委員会としては慎重であったのかもしれない。


ブログが1400回を越す

2011-05-27 12:53:09 | 日記・エッセイ・コラム

このブログは一日1回を基本にしている。その辺はこのごろはやりのTwitterとは異なる。

だから、これが1400回を越したということは密かに誇っていいことかと思う。ブログを始めたのは2005年4月の終わりかと思うので、これまで続けられるとはまったく思わなかった。

一年は365日または366日であって、日曜日は仕事場に原則として来ないので、50回は日曜があるから、一年に書ける回数は基本的には300回をちょっと越えるくらいである。それで、1000回を越えたときには少し感慨があったが、もう感慨などはない。それくらい日常化・ルーチン化しているということである。

書く話題がなくなるのではないかと一番恐れていたが、そういうことはないらしいということがわかった。それが人間が生きているということなのであろう。

このブログは一年金生活者がとりとめなく書いているブログだし、もし読者がいるとしても面白くなければ読まなければいいだけの話である。それに世の中の多くの方は文系の方なので私のブログなど面白くないであろう。

それはそれでいいのである。何も押し付けているわけではないし、世間の人としては勝手に老人に独り言を言わせておけばいいであろう。

しかし、世の中には理系の方も居られるし、知的な好奇心に富んだ方も居られるであろう。そういう方に100回に一回くらい常識をこわすような話題を提供できればいいと思っている。

これは基本的に私が大学に勤めていた当時に講義で行っていた意図と同じである。だが、残念ながら、私の学生だった方々にそのことがどれくらい理解されていたかはわからない。なにか面倒なことだけをいう、「いけ好かない先生だ」と思われていた可能性が大きい。


津波の高さ

2011-05-27 11:04:19 | 科学・技術

これは日本の津波のことではないが、最近聞いた話である。

ドイツのチュービンゲンで、北海からの津波が来た痕跡があることがわかったと先週のドイツ語のクラスの後にR氏が言っていた。私の聞き違いかと思ったが、ドイツ語のよくできるOさんが日本語でそのことをやはり通訳してくれていたので間違いがないだろう。

R氏のニュースソースがどこからかわからないが、津波の高さが100m規模の津波ではないかと言っていた。チュービンゲンは現在では海から何百キロも離れている。昔のことであるので津波が来たときが海からの距離がどれくらいであったかとか、その当時の現在のチュビンゲンの海抜の高さも問題になるだろうと思う。

だから、100m規模の津波が歴史的に本当に生じたのかはわからないが、自然界の災害の規模は私たちの想像を越えていることはありうるので、これをむげに否定することもできないだろう。

チュービンゲンは大学町で、このチュービンゲン大学は歴史の古い大学の一つである。1997年にはじめてここを訪れたが、さすがに学生が多いという印象をもった。私はここにほんの数時間滞在しただけだが、このとき有名なヘルダーリンTurmを見に行った。

友人夫妻の案内でここを訪れたのだが、川の橋の上ですれ違った学生にヘルダーリンTurmはどこですかと聞いたら、橋を渡りきった左にあるデパートかスーパーかのところを左に曲がって数百メートル行った先にあるとのことだった。実はこの橋からもこの塔が見えたのだった。

ヘルダーリンTurmは円筒形の塔で、窓の数もそれほど多くなく、詩人のヘルダーリンが狂気を発してからは、知人か誰かに保護されてか、または監禁されてかは覚えていないが、ここに住んだといわれている塔である。

またこの川では学生たちが夏の季節だったかにいくつかのグループに分かれて、船やいかだの競争をするとは何年か前のドイツ語講座で紹介があった。

Khanという語は有名なHeineのLoreleiの詩の文句ぐらいしか出てこないが、船底の浅い、小船とかボートの意味であるとそのときに聞いた。もっとも市内を流れているところではゆるやかな流れでこれはライン (der Rhein) なんかとはまったく違っていた。