今の日本は八方塞がりだと私などもこのブログで書いたが、その一方では日本は非常な不思議さをもっている。
私は「演習形式で学ぶリー群・リー環」(サイエンス社)という題の書に触発されて、キーポイントシリーズ「行列と変換群」(岩波書店)を読んでいる。
しかし、このような二つの書が英語ではなく日本語で出されるような日本社会というのは不思議な活性のある、社会であると思える。英語でならいろいろなテーマの本が出てもそれを関心をもって読んでくれる読者は多いと思う。
私なども英語で読むのは嫌いだというが、それでもほどほどには英語を読む。だから、ぺーパーバックでかつての名著の復刻版を出す、Dover社のような出版社が成り立つ理由はわかる。ところが世界では日本語を解する人は多分1億5千万人よりは少ないであろう。
だが、そこで上の2書のようなある種の啓蒙書が出版されるというか、出版できるというのは本当は大きな驚きである。そして、上のような書は広い意味の数学書である。
もちろん専門書ではないであろうが、そのような需要が日本の社会にあるというのは日本という社会の不思議さといってよいであろう。
まことにいろいろな数学書や物理書も出されている。それだけではない、大抵の世界的に有名な本ならば、しばらく待っていれば、その翻訳が手に入ることはほとんど間違いがない。そういう国が世界中を探してそこいらにごろごろ転がっているとは思えない。
日本のマンガやアニメが世界を席巻しているらしいことはときどき耳にするところである。日本に留学する中国の若者まで日本のマンガの影響を受けていると聞く。もちろんこの分野では韓国の追撃を受けて最近は苦戦しているとか聞くが、そのもとはやはり日本であろう。
スミルノフ「高等数学教程」(日本語訳)のシリーズを韓国人の物理学者がもっていたのを知っている。
彼は日本語は話さなかったが、数学を学ぶためだけに日本語の数学書を読むことだけはできるようになったと言っていた。それはドイツの大学で私と同室だったK. J. Kimさんだった。
もちろん、社会の将来の展望が難しく、希望が持てなくなっているのは事実である。だが、これは世界中のことであって、日本だけのことではない。別に日本は自分の国のことを世界に威張り散らす必要はないが、むやみに悲観的になることもない。
それくらい特異な文化なり、学問的な雰囲気をもった日本である。これは世界の中でエリート意識をもつことではなくて、自分たちの文化の特性を見極めるということだと思う。