先日、ドイツ語のクラスで
Wenn wir doch nicht gefragt h"atten, h"atte keiner etwas gemerkt ?
(それを私たちが尋ねなかったら、だれかがそれに気付いただろうか: 反語的表現で、「尋ねなかったら、よかったのに」という後悔の念を表している)
というような後悔の念を表す例文をつくれといわれた。それでうまくつくれないので、
Wenn ich nicht Physiker w"are, w"are ich noch langweiliger.
(もし私が物理学者でなかったら、もっと退屈だったろうに)
といったような文章を苦し紛れにつくったら、そのような、いいことにはこの文章は使わないと言われた。
その指摘はもとのドイツ語の表現に対してはあたっているのであろうが、だが私は自分を不幸に感じたことがないと言ってしまった。どうも少々強がりだったようでもあるが、確かに自分を不幸だと思ったことがない。
では私には苦しいことがなかったかといえば、やはり苦しかったことは何回かある。
だが、それでもそれを自分の不幸だとは思わなかったことは事実である。自分の子どものことで苦しんだことがなかったかといえば、それはうそになるだろうが、それでもそれを自分と自分の家族にとっての不幸だとは感じなかった。
などというと、私はとても強靭な精神の持ち主であるか、おめでたい奴なのであろうと思われるかもしれない。が、そういうことはなく、ごく普通の人間である。
自分にあれもできない、これもできないと、できないことを嘆くよりもできることだけでもやってみようとする、そういうchallengingな生き方が好きである。実際にはあまり言葉でいうほどchallengingではないのが残念だけれど。
先日、ラジオのドイツ語講座で、ドイツ人のゲストに「恋愛小説(-r Liebesroman)を読むか」と講師の先生が聞いていたが、男性と女性のゲストの両方とも恋愛小説を読まないという答えだったらしい。実は私はそこのところがよく聞き取れず、講師の先生の説明を聞いて彼らの言ったことがようやくわかった。
女性のゲストが「恋愛は小説で読むものではなくて、実際に自分たちがするものだ」と答えていたらしい。それを聞いて、「うーん、なるほど」と思ってしまった。人生を十分に楽しむという視点が私たちには欠けている。