物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ヴァーチャル(virtual)

2012-11-10 16:39:43 | 外国語

ヴァーチャル(virtual)とは何か。前にも書いたことがあるような気がするが、再度気になったので書く。

岩波書店発行の「図書」11月号に見田宗介さんと安田常雄さんとかが対談している中で、見田さんが1975年から1990年までが日本史における虚構の時代だと定義されており、1990年以降はヴァーチャルな時代だと言ってもいいが、ヴァチャルとは虚構のことですよねと言っている。

ここでは、この見田さんの見解ウンウンを議論したい訳ではない。そうではなくて、英語としてのヴァーチャルとは一体なんだろうということである。

以前、この語について書いたときの驚きはヴァーチャリーが実質的にという訳語がついていたので私の認識が改まったということだった。

いま、手元のProgressive 英和辞典(小学館)を開いてみると、実質上の、事実上のという訳が最初に来ている。光学用語の「虚像の」という意味が2番目にあり、3番目にようやく理系の用語としての「仮の、仮想の」ができて、4番目に「ヴァーチャルな、ネットワーク上の」という訳語が出てくる。

実は日本の現在ではこの4番目の使い方が一番普及しているのではなかろうか。私自身は3番目の訳語でvirtualという語に学生時代から親しんでおり、このvirtualはrealに対する語であった(と思う)。

そして私の理解が正しければ、realということはエネルギーが保存していることを示しており、virtualということは必ずしもエネルギーが保存されていることではない。しかし、エネルギーが保存される現象だけがあるという訳ではないと理解している。

もちろん、私たちの現実の日常生活の世界ではエネルギーや運動量が保存していなくては困るのだが、エネルギー保存を確かめるだけの測定時間がとれない、きわめて短時間の過程ではいろいろの可能性がありうる。

こういう風に理解をしてきたように思う。そうだとすると私の理解してきた、「仮想的な」という3番目の訳語の分野でもひょっとして「実質的な、に」と書き換えることが可能なのだろうか。


Aller Anfang ist schwer

2012-11-10 12:00:34 | 外国語

Aller Anfang ist schwer(アッラー アンファンク イスト シュウェア: なんでもはじめが難しい)とはドイツ語のことわざSprichwortだが、大抵のものは確かにはじめがいつでも難しい。

学問でもなんでもある程度初期の段階をなんとか困難なしに切り抜ければ、あとはつぎの困難がでてくるまでにはかなり進んでいる。

ところが、最初が困難なものに、物理学とドイツ語の学習がある。もちろんドイツ語の学習というのはドイツ語を母語にしない人にとってという意味である。ドイツ語を母語とする人にはドイツ語に困難はない。

難かしいものには数学とかあり、数学は難しいものの代表だが、それでもまたその故にかもしれないが、逆に熱狂的なファンがいたりする。

ところが、もちろん、物理学にもファンはいるのだが、そのはじめが難しい。これは私にとってだけではなく、私は直接に教わったことがないのだが、愛媛県高校の理科教育で有名だったK先生からも物理学ははじめが難しかったという述懐を高校生のころに伺ったことがある。

このK先生は今治西高校の物理の先生をしながら、瀬戸内海の島の微細気象の研究を行って、京都大学から理学博士の学位を受けた方であった。

だから普通の意味では物理の理解にそんなに苦労をされたとは思えないくらい優秀な方であるが、高校生のころにそういう話を伺った。

もっとも私が高校生のころはK先生はまだ学位をとられていなかった、学位をとられたのは私が大学の1年か2年のころである。当時はまだコンピュータもなく、データ処理を多くのボランティアの学生を動員されて、今治市のある旅館の大広間でされていたのを見かけた。

なぜ、私が物理の勉学のはじめに困難を感じたかということもいまではもう定かではない。

物理学では初歩の段階で用語の定義があっても、少し考えると論理的な循環論みたいでどうも基礎がぐらぐらしていて、どうもしっかりしないのではないかという感じもったのが、その一因だった。

質量などという力学のはじめに出てくる概念などもちょっと考えると循環論に陥りそうで、どうもしっくりこなかった。そういうところが物理にはあるなどと開き直ることができるようになったのは、これも何年も大学で物理の講義をし、定年まじかなころであったのはなんとしても遅すぎた。

しかし、物理は私の場合にはまだよかった。もっと悪かったのはドイツ語の方であった。これは50年以上も前のドイツ語の教育があまりよくなかったということを今では示すものだと思っている。

私はヨーロッパ系の外国語がその外国語によって独特の語順をとるのだなどとは想像だにしていなかった。英語と同じ語順をとるものとばかり思い込んでいた。

ドイツ語での語順を50年以上も昔の大学のドイツ語教育では特に強調しては教えられなかった。

ドイツ語文法として教えてくれるのは不定冠詞、定冠詞、名詞の格変化、単数、複数形等々語形の変化のみであった。さすがに今ではそんな教え方はされていない。

ドイツ語の先生の弁護をしておくと、動詞を中心とした、ドイツ語の語順についてのちゃんとした教育は昔でもされていたのであろう。

人によっては経験深くおもしろい講義をなさる先生も少なくはなかったに違いない。しかし、そういう先生に私はなかなか出会うことがなかった。

このことは前にも書いたことがあるが、「ドイツ語を理解できる人とはなんと頭のいい人たちなんだろう」と何年も思っていた。

(2013.7.8付記) ドイツ語に関心のある方でドイツ語学習に困っておられる方はこのブログの「ドイツ語の特徴」を参照してほしい。そこにドイツ語の特徴の一つである枠構造について説明をしている。

(2021.4.12付記)ドイツ語を読んだり、話したりできるようになった今では、じゃあ自分の頭がよくなったように感じているかと聞かれれば、別に頭がよくなったなどとはまったく思えないから不思議なものである。うまく教えてもらえれば、誰だってドイツ語くらいマスターできるという気がする。