物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

単位導入の4段階

2012-11-03 13:55:15 | 数学

単位導入の4段階とは例えば、長さについていえば、いまはmが国際単位となっているが、その長さをどういう風に意識化してきたかということに対する認識である。

はじめはものをそこに並べて直接どちらが長いかを比較しただろうという。これを直接比較の段階という。

ところが動かせるものならそれも可能だが、そうできないものが普通である。それで何か動かせるもの(例えば縄とか紐)で一つのものの長さを測り、それで間接に長さを比べる段階がある。これを間接比較の段階という。

その後、手の長さとかを単位として長さを測定した段階がある。これを個別単位の段階という。そのうちに中央集権国家ができたりして、例えば王様が両手を広げてその右手の先から、左手の先までを長さの単位としたという段階に至る。この段階を普遍単位の段階という。

この単位導入の4段階を誰がいい出したのかは知らないが、私は数学者の遠山啓が言い出したことだろうと思っている。そういういえば、そういうことを彼の「数学入門」(岩波新書)に書いていたと思う。ところが遠山の処女作ともいうべき「無限と連続」」(岩波新書)にその萌芽とも言える、記述があることに最近気がついた。

最近ではこういう測定される量の単位は国際的な取り決めで決められる。西條敏美先生の著書「単位の成り立ち」(恒星社厚生閣)などはこの普遍単位の事典とでもいうべきものである。

(2012.11.7付記) 鶴見俊輔著作集の月報でこの著作集の編集者だかが書いていた。あるとき鶴見宅を訪れたら、突然そこにあった、座卓の長さを手のひらを拡げて測るということを実演されて、プラグマティズムとはこんなことだと言われたとか。

それを読んで思ったのは単位導入の段階でいえば、上に述べたことで言えば、第三段階の個別単位で測定をするということである。それを指摘しておきたいと前々から思っていた。

ただ、個別単位による測定であろうとなかろうと鶴見さんのプラグマティズムの説明は編集者に十分伝わったであろうと思われる。その鶴見さんからの直接指導に感銘を受けてある編集者がその経験を月報に書かれた。


テーブルクロスと法律的

2012-11-03 13:02:20 | 外国語

先月のドイツ語のクラスだったと思うが、「もじゃもじゃペーター(Der Sturwwelpeter)」の話が出た。

そのときにテーブルの上に普通何があるかとR氏に聞かれて、それはテーブルクロスだなとわかったが、それをドイツ語でどういうかというかはわからなかった。

それで「テーブルクロスね」と呟いたら、TischdeckeというとR氏にフォローしてもらった。だが、そのときにTischdeckeという語はまったく思いつかなかった。

もっとも、後でこのもじゃもじゃペーターの原文を調べたら、Tischdeckeではなく、Tischtuchが使われていた。

何年ドイツ語をやっているのだろう、私は。今週の木曜日にもちょっと違った語であるが、新聞記事でeinige rechtliche "Anderungenとあった。

このrechtliche "Anderungenとは法律的な変更だとすぐにわかったが、それでもそれを表すドイツ語が出てこない。

「法律的にですね」と日本語でこのときも呟いたら、R氏からgesetzlichとフォローがあった。だが、gesetzlichという語を知っているのにもかかわらず、まったく出てこなかった。

年が年だから仕方がないのかもしれないが、情けない話である。


岩波新書

2012-11-03 12:01:50 | 本と雑誌

もう50年以上昔のことだが、当時大学の4年生だった次兄が卒業までに岩波新書を100冊読むのだと頑張っていた。当時は青版の頃で、いまみたいに月に5冊も同時に発行されるという時代ではなかった。

そのとき私は大学に入学した年であり、その次兄の意気込みに刺激されて私も大学の卒業までに岩波新書を100冊読もうと思ったものであった。実際には100冊の読破なんて遠く及ばなかったと思う。

これはもちろん私の関心が主に理系の書にあったこともあり、新書を100冊を読めるほど私の頭の働きは鋭くなかったためである。しかし、それにしても1冊でも多く岩波新書を読みたいという気持ちをもっていた。

昨日書いた松田道雄の岩波新書は10冊くらいをすべてもっており、初期の「療養の設計」だとかは通読したことはないが、他の松田道雄の新書は大抵通読したと思う。岩波新書が黄版となり、だんだん新書から遠ざかってしまった。

新赤版の志賀浩二著「無限の中の数学」はしかし確かに通読した数少ない新赤版の新書である。そしてその中のsin xのテイラー展開については志賀さんの構想にしたがってニュートンの行った計算を推測する、エッセイまで書いた(数学・物理通信1巻7号掲載)。

遠山 啓著「数学入門」下の中に出てくる連続的複利法の説明から自然対数の底eの導入を遠山さんの構想を敷衍した、エッセイをこれは愛数協の機関誌「研究と実践」に書いたこともある。

武谷三男の「物理学入門」上はもう岩波新書としては絶版だが、これからは自然認識の一番根本のところの考え方を教わった。これは弁当箱の中からたまごが出てくるという手品で、ではこういう方法でたまごが生産できるかと武谷は問う。

もちろんこの方法でたまごをつくることはできない。だから、ものごとが本当であるかどうかは生産的な観点から見なければならないということを知った。理工系の大学学部で何年間か学んだが、そこでは教わらなかった考えであった。

超能力が本当にあるか。それは生産的な観点から見れば、自ずから明らかである。超能力でモーターが動くのなら、それは生産に役立つことになるが、そういう風に超能力が使えるという話は世界どこにもないのである。もしあるなら、その超能力で一週間でも一ヶ月でもモーターを動かして原発を動かすことを止めるべきであろう。

比較的最近の新赤版岩波新書を通読したのは、鶴見俊輔さんの「思い出袋」である。いまこれを取り出してちょっとみたら、その中に当時の韓国で死刑を宣告されていた詩人の金芝河(キム ジハ)を訪ねたときのことが出ている。

鶴見さんが金に英語でたくさんの国の詩人や学者があなたが死刑にならないようにという署名をした、それをここにもってきたと言った。彼は少し考えた後に

Your movement cannot help me. But  I will add my name to it to help your movement. (あなた方の運動は私を助けることはできない。しかし、あなた方の運動を助けるために私の名をそこに付け加えよう)

と言った。

その後の事情は詳しくは知らないが、金芝河は死刑を免れて現在ではまた詩を書いていると思う。だが、時の政府に反抗した故をもって死刑を宣告されながらも、上に述べたような気高いとも言える言葉を述べることができた、金芝河をもった韓国はいま彼を誇りにしてもいいだろう。