物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

問題の解決

2008-09-12 11:23:04 | 物理学

これは科学技術に限ったことではないが、問題の解決に至るまでには大きくいって3つの段階がある。

第一は問題を設定して方程式を立てるという段階である。これが本当は一番難しい。現実の現象は複雑多岐にわたっているので、それを単純化して方程式にまとめる。これが第一にするべきことである。

第二にその方程式を解くことである。方程式を解くというと2次方程式の解の公式で解を求めるというような響きがあるが、方程式によって解を求める手法はいろいろであって、ここもかなり面倒である。それに多大の時間がかかることも決して珍しくない。だが、大学院で学んだことはこの部分はあまり評価がされないということであった。

いや評価はされているのだろうが、計算手法が新しく開発されたというのでなければ、前面にその苦労を取り出して述べるということはしない。計算自身が面倒であるということは誰でも知っているにもかかわらず。それはできて当然という感じがある。

それで、なんとか解が求まったとしよう。その解をどう解釈するのかということがまだ残っている。この第三段階は第一段階の方程式を立てるところと同じくらいの比重があって、これはきわめて重要視される。

私の長男がある計算をしてその結果について共同研究者のY先生にこんな結果が出たのですが、どうしてかわからないと言ったところ、それはこういう原因でこういう結果になったのだろうと言われたといっていた。共同研究者のY先生は数学がわかっておられるわけではないのだろうが、経済を実感としてつかんでおられて数学的な方程式を解いて得られた結果を解釈できるという優れた方だったらしい。

それで思い出すのは物理学者のボーアのことである。彼は方程式を解くのではなく、直観的に推測をして物理の研究を進めていたらしい。もちろん、そのときの直観のもとには多くの経験とか考察があったと思われる。もちろん、ボーア先生も間違えたこともあったし、変なことを主張したこともあった。しかし、量子論における彼の直観が大きく量子力学の創設に貢献したことは間違いがない。

そういえば、ファインマンの本に引用されている言葉にディラックの「方程式を解かないで理解するときにのみ、その方程式を理解する」とかいうのがあった。いくつもの優れた方程式を立てたり、独創的なアイディアで知られる物理学者ディラックならではの言葉かと思われる。


運動会の思い出

2008-09-11 12:13:44 | 日記・エッセイ・コラム

私の運動会の思い出はあまりいいものではない。運動能力が優れていないものには酷なのが運動会であるが、それよりも9月の暑い日の下で何回も練習するということをやったといういやな思い出しかない。

日に照らされて、暑かったというか日焼けしたというかそういう思い出である。運動会それ自身はあまり覚えていない。友人のH君が理由はなんだったかわからないが、体操の先生にひどく殴られたことを覚えているが、それでH君の親が学校に怒鳴り込んだということも聞いていないから、いい時代だった。

その後このH君はS高校に進み、何回も甲子園出場をした。S高校が全国制覇をしたのはその1年か2年後だった。そのときの優勝投手K君は私の中学校の一年後輩だったと思う。50年以上はるか昔のことである。


いつも泣き言

2008-09-10 11:28:07 | 日記・エッセイ・コラム

いつも泣き言をいっていて、「頼りないやつ」と思われている方も多いと思いますが、その通りで「頼りない」者です。

いま校正を読んでいるのだが、読み始めた最初の一日は書くのに比べて「なんと楽なんだろう」と思ったが、二日目からは泣き言の連発である。翻訳というのは私たちの場合には英語の文を読んで日本文に直す。さらにその日本文を読んで通りのいい日本文に直す。はじめに英文があるので、その一つ一つの単語にひきづられて翻訳口調の日本語とは思えないような日本文ができている。それを英語の文からはずれて見直す。さらにもう一度英語と対照させて訳を見直す。

そういう作業の連続である。それに自分のあまり得意でない分野で予備知識がない場合もある。そういうところでも何とか訳さなくてはならない。いくつかの本を読んである分野の常識を仕入れた後にもう一度訳を見直すということもする。3人で訳をしているのでお互いに自分の長所を生かして訳をしたが、それは逆に校正の段階でも意見が違う場合もある。

それらのことを調整してなんとか最終の訳にこぎつける。校正の段階でもことが終わった訳ではない。計算したら、原本が間違っているという報告も出てくる。もちろん、これは訳の途中で初訳者の責任でやっているのだが、ここは大丈夫だろうと計算をチェックしなかったところにそういうのがあったりする。

まだ、原著があってそれを日本語に訳するのだから、助かるところもあるが、原著の著者は大変だろうなと感じてもいる。だからといって原著の変なところをそのままにしておくわけにもいかない。なんとか意味の通ったものとして提供しなければならない。もうしばらく私の泣き言が続く。大部な本を書く人は気苦労が絶えないだろうな思う今日この頃である。


夏が終わる

2008-09-09 12:26:58 | 日記・エッセイ・コラム

まだこれからも暑い日が続くだろうが、昨日から乾燥した気候になった。夏が終わるという感じがしている。やっとエアコンなしで眠ることができるようになった。

夏が終わっても秋が来るだけでどうってことはないが、やはり夏の暑さに馴染んでいたものとしてはほっとする。それも夏が暑いだけならいいが、湿度が高いということがある。これが日本の夏の暑さをいっそう耐え難くしている。

つくつくぼうしが鳴くとやっと夏が終わるという感じが実感として感じられる。それにそろそろ虫の声もし始めるだろう。もっとも夏が終わっても秋の終わりとは違ってあまり感傷的にはならない。秋の終わりは何か物悲しい。それはどうしてなのか。


局地集中豪雨

2008-09-08 13:20:20 | 日記・エッセイ・コラム

今年は局地集中豪雨が多かった。これからもあるかもしれないが、台風が来ない代わりに集中豪雨があったという感じである。四国地方のNHKの特集番組でもこれを取り上げていたが、自分の住んでいるところがどういう地形のところなのかということは知っている人は少ないだろう。少なくとも私はそうだ。

数年前に読んだところでは技術評論家の星野芳郎が自分の住んでいるところが多分台風の水害にも比較的安全だということを確かめて住居を決めたというようなことを書いているのを読んだ。これは国土地理院の5万分の1の縮尺の地図を買ってきて、調べればいいことだが、そいうことをする人は少ない。

学生の頃には一人でそんなに高くない山に登っていたから地図は欠かせなかった。それで何枚か地図をもっていたが、現在ではこのような地図を持っていない。この頃にはマップセンターというような地図の専門店があってそこへ行けばいろいろな地図を買うことができるらしい。外国の都市の地図でも今では買うことができるという。

どこかへ遠出するならばロードマップが役に立つ。今年の1月にも妻が運転をして京都まで何人かで京都南座で前進座の歌舞伎を見た。そのときには私がナビゲーターを勤めたが、帰ってきてひどくくたびれた。これは高速道路で分岐点でのサインを見落とさないように気を配っていたからである。

それと何キロ行ったら、レストランがあり、休めるとかのドライブの計画を運転者の妻に言うことが必要だからである。それでも淡路島のドライブインの位置を間違えて一般道に下りるというミスをしてしまった。


仕事の計画

2008-09-07 11:44:09 | 日記・エッセイ・コラム

私の仕事の計画だが、これは単に自分の備忘録です。

ゴールドスタイン他「古典力学」下の校正を読んで校正をすることこれがまず最初にしなければならないことである。

つぎに、出来上がっている「武谷三男業績リスト」第2版のチェックと投稿、同じく「武谷三男著作目録」第2版のチェックと投稿、愛数協の「研究と実践」100号の原稿、徳島科学史研究会の発表、「対数とはなにか」の原稿と投稿、それらがすめばe-Learningの数学(高校、大学編)の作成をすること、武谷三男年譜の作成、さらに武谷三男の伝記の作成等である。また忘れていけないのは小著「数学散歩」続編の刊行である。しかし、これは現在行っている愛数協の機関誌「研究と実践」への投稿を続けることでしか達成できない。すでに発表されている分のあと3倍くらいの原稿が集まらないと発行はできない。

これらの計画は計画なので計画が十分に実現するかどうかは疑わしい。自分の生きれる寿命とも関係する。特に病気をしないで後まだ何年仕事が続けられるかにかかわってくる。


9月の話題

2008-09-06 12:30:21 | 日記・エッセイ・コラム

9月といえばSeptember 11だろうか。911ともいうようだが、この日から世界が変わった。もっとも世界の貧困や抑圧された人々の暮らしの戦いはこのSeptember 11以降も続いており、そちらで地道に励んでいる人のいる。そういう人の中にアフガニスタンで亡くなった伊藤和也さんもいたのだろう。

テレビで見た衝撃的な事件といえば、ケネディ暗殺とか、オウム真理教の地下鉄サリン事件とか、このWTCへの2機の飛行機のつこっみ事件とかある。どれも衝撃的であるが、世界を変えたという意味ではSeptember 11は大きかった。

しかし、今はちょっと違ったことを述べよう。昔、ソーヤーの「数学へのプレリュード」(みすず)を読んだときにSeptemberという語が好きだという子ともがいるという話が出ていたと思う。

Septemberは3つあるeの位置が左右対称的だということであったろうか。詳しくは覚えていないのだが、いつも思うのはこのSeptemberには7という数が隠れているということである。

septはフランス語でセットと発音して、7を意味する。多分ラテン語系統の言葉なのだろう。9月、10月、11月、12月はヨーロッパ語ではそれぞれ7,8,9,10という語を含んでいるのは誰でも知っている。OctoberにはoctがNovemberにはnonoがDecemberにはdecaが含まれているというわけである。

残念ながらラテン語は一度も勉強したことがないので、知識もこの程度の浅薄なものだが、Septemberと聞くといつも7を思う。フランス語ではseptのpは発音しない。


原稿の完成

2008-09-05 12:21:47 | 本と雑誌

私的なことであるが、ようやくGoldsteinのClassical  Mechanicsの訳稿の最後まで残っていた11章が完成して、出版社に送った。あとは校正を見て本がきちんと出来上がるのを見守るだけである。

とはいっても校正を見るというのも一苦労だが、それでも訳を仕上げているときほどの苦労はないと思う。昨日一人で缶ビールを一本開けて自分ひとりのお祝いをした。妻が「よく生き延びたね」といったが、それは大げさとしても高血圧になっても、病院へ行くこともはばかられた。もっとも今高血圧かどうかはわからないが。

上巻は2006年6月に発行されているから、それから考えても2年近くが経ってしまった。旧国立大学が法人化されてから、どの教員も忙しくなってしまった。そのあおりを受けて訳業が遅れた。

いくつかの大学で旧版は教科書として採用されていたが、下巻が出ないために教科書として採用されなくなった。そのためかどうかは知らないが、印税をまったくもらっていない。いままでのところは単に労働奉仕をしただけとなっている。この訳に使った時間というのは膨大なものでいわゆる労働対報酬で考えるとまったく引き合わないだろう。これは一つの奉仕というか社会に対するサービスだと思わないと腹が立つだろう。

それは私自身については我慢するとしても、しかし共訳者の人に我慢してくれとはいえない。これからはそういうせめぎあいが出版社との間であるかもしれない。


火星移住計画

2008-09-04 13:59:38 | 科学・技術

これはSFの話ではなく大真面目な話としてもう20年以上も前にある地球・惑星学者から聞いた話である。

火星は炭酸ガスが多いので今すぐに人間が移住することはできない。それでまずロケットで植物を送り込む。多分コケの類を火星に送り込むといいだろう。

動物は酸素を吸って炭酸ガスを吐くが植物は炭酸同化作用で炭酸ガスを植物体内に取り込み酸素を出すからである。

また、火星の気温がもし人類が生存するにはまだかなり低いとしてもコケならこの低温にもたえられるであろう。そしてコケを火星で増やしていく。そうすれば、酸素がだんだん増えていく。

火星の大気の組成がだんだん変えられていくが、続いてもっとそのときの温度や大気組成にあう植物をまた送り込んでいく。そうして地球に似た大気に変えていく。

水があるかどうかはそのときに聞かなかったが、現在火星の地下に氷があるらしいといわれているので、火星の気温が上がってくると氷がとけて水を得ることが可能になってくる。

そういう風にして火星の大気の組成や気温を私たちの地球の気候に似てくれば、人間を火星に送り込んで移住することが可能になるという。

これは一つのシナリオにしか過ぎないが、地球、惑星・物理学者が大真面目に考えた火星への人類移住計画のあらすじである。

お金がかかってこんなことが実現することは実際にはできないと思うが、できそうな気がするところがみそであろうか。

火星移住計画が実現できそうだからといって、地球環境をどうでもいいと考えるのはもちろん間違っており、そういうことを考える人に地球の未来をまかせることはもちろんすべきではない。

宇宙船地球号といわれる、この地球の環境はきわめて人間の生活に適したものであり、これは実は何ものにも変えがたい貴重なものであるというのが現在の人類の共通の認識であろう。

上の火星への人類移住計画は単に一つのお話としてだけ聞いて欲しい。だが、そういう想像を働かせるのはまあ許されるだろうか。


人類の滅亡

2008-09-03 12:30:12 | 社会・経済

世の中は首相の辞任のニュースでもちきりだが、時間を長く取って考えると人類の滅亡は避けられない。これは10年や20年はたまた数百年のオーダーの話ではないが、100億年のオーダーだと確実にいえることである。

ではお前はデカダンスにならないのかといえば、ならない。それを知った上で、すなわち、すべてが長時間的に見れば無為なことを知った上で、今自分にできることをするのが人間だと思うからである。これは宗教的信念でもなんでもない。そういうものだという悟りはもうすでに若いときにもった。多分十代の終わり頃のことだろう。それ以来その信念はまったく変わらない。

H. G. ウエルズ「世界史概説」(岩波新書)には世界史は地球の歴史から始まっているので、少し自然科学的視点が入っている。そこが他の歴史書と比べて優れているところであろう。ただ、そのウエルズも太陽系の創生とかについては書いていなかったと思う。

なぜこういうことをいい出したかといえば、先日書いたmarginal stabilityのことを調べているからである。太陽系の惑星の軌道は安定であって、太陽が新星爆発するまでそのままでありそうに思える。もちろんそうかもしれないのだが、最近の研究ではそうともいえないという結果が出ているのである。しかし、その惑星の軌道安定性は100億年のオーダーであって、太陽の寿命が尽きるのとどちらが早いかはいまのところははっきりしないらしい。

もっとも人類の滅亡というシナリオについても大学の頃に友人と議論したところではそういうことも将来のことであるので、いくつかの可能性があるという。いま、大きなタンカーで原油を運んでいるように大きなロケットを製造してそこに人類の子孫の幾人かが乗り込んで地球に似た惑星を銀河の中で探すだろうというのが友人の見解であった。私はそこまで楽観的ではなかったが、その可能性はなくはないので、完全に人類の滅亡を信じているわけではない。

話は少しみみっちくなるがいつか、人類の火星移住計画について昔聞いた話を述べてみたい。


精神的な疲れ

2008-09-02 13:20:07 | 日記・エッセイ・コラム

世界的に有名なGoldsteinのClassical Mechnicsの翻訳の最終段階に入っている。8章から13章で残っているのはあと11章だけである。その章をあらかた訳し終えたのだが、肉体的疲れと精神的疲れを感じている。特に精神的な疲れが大きい。

私一人が訳をしているわけではないが、いろいろな細々としたことを一手に引き受けているからだ。3人で手分けしてやった初訳をまとめて読めるようにし、索引の語を昨日入力をやっとすませた。それで一応は終わったのだが、むしろこれからが難しいのだ。式のチェックや訳語のチェック、図の配置やcaptionのチェック等これからやることの方が多い。

この章の分量はA4で34ページとなるが、なんでも訳者が知っているわけではないので、よくわからないところもある。また、適当な訳語が思いつかない場合もある。でもこの本を訳してみると改めてこの本が世界で標準的な力学の本となっている理由がわかる気がする。日本語の本でも優れた力学の本は何冊かあるのだが、それらにはない特徴をもっているからである。

ここ数年、訳業は進まなかったが、ここに来てようやく数年来の宿題を果たそうとしている。出版社の吉岡書店にも迷惑をかけたが、後もう少しである。この仕事を果たしたら、自分本来のライフワークに取り掛かることができる。


防災の日

2008-09-01 12:12:55 | 社会・経済

9月1日は防災の日である。85年前の今日関東大震災が起こった。9月1日というと昔から二百十日といわれて台風の多くやってくるシーズンでもある。今年は天候の影響か今のところ台風にはあまり襲われていない。

ところが局地的な豪雨で被害が続出している。しかし、松山では雨があまり降らず、水不足である。日本全体が豪雨のときに少しだけ雨が降ったが、ダムを一杯満たすには程遠かった。いまちょうど小さなダムの半分くらいしか水がない。例年と比べて30%足らずの水不足である。

「災害は忘れた頃にやってくる」は寺田寅彦の名言だったが、このころは「災害は覚えているうちにやってくる」と変えたほうがいいともいう。60年、70年ここに住んでいてはじめての経験だとテレビのインタビューに答えている人が多い。災害はない方がいいが、自然相手だとできることが限られてくる。せめて、人災がでないように注意できればいいが。