物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

吉田調書

2014-06-05 12:33:51 | 国際・政治

福島第一原発の所長であった、吉田氏の政府事故調査委員会での聞き取りした、吉田調書の文書が朝日新聞社の手に入り、それが少しづつ新聞紙上に出て来ている。

最近では細川豪志氏のインタビュー記事が出て、その吉田調書の内容がほぼ細川氏の記憶と同じであることが報道された。

それだのに政府はその吉田調書は公開しないという。これは聞き取りをしたときに公開をしないことを条件に聞き取りをしているからだという。

ところで、実際に大きな事故を福島第一原発が起こしたことはまぎれもない事実である。それだのにそれを公表しないなどというのはありえない。

そういうことがまかり通るとは中国政府の閉鎖性とか非民主性を唱える日本政府としてはおかしいであろう。

もっとも現在に公表すると社会を混乱するというのなら、その時期をはずして2~3年が経てば公表するという手もある。そこら辺りを隠してまた新たな原発の運転再開に走るとは言語同断である。

細川氏が「政治家は歴史の審判を受けるべきだから、自分の証言は公開してもいい」と朝日新聞に語っているのは覚悟をもった政治家としてその姿勢は大いに評価できる。


天安門事件20年

2014-06-05 12:02:49 | 国際・政治

6月5日は天安門事件が1989年に起きてから20年だという。

中国の内政に関することではあるが、ちょっと言及してみたい。

多分、当時中国の政治の自由であることよりも経済的に裕福になることを政策として選択した鐙小平の決断はその当時としてはしかたがなかったのかもしれいないが、それを軍事力によって抑圧までしたことがいい選択であったのか。

これは歴史はもう一度その時点まで時間を戻して再度ちがう選択をしてみるなどということは実際上は行えないので、いまのところはなんともいえない。

しかし、現在の習近平政権がとっている取り締まり政策はあまり賢明な政策ではなさそうである。ではどうしたらいいかとなるとなかなか代替案はない。

それでも共産党の一党独裁でその要職になる方の親戚が私腹を肥やしていたり、腐敗していたりすることはもうどれだけ自粛を徹底していくことをスローガンとして取り上げてもなくならないだろうと思う。

そうだとすれば、共産党批判を力で抑圧することはかえってその腐敗を容認することになりはしないか。やはりマスコミや市民の批判を自由に受けることは必要なのではないかと思われてくる。

私などが死んだ後の世代でソフトランディングの決着がつくのだとは思うが、どのような決着をつけるのか。知恵のある人が中国にいつかは出てくるのであろう。

そのときに習近平はどういう歴史的評価を受けるのだろうか。


but

2014-06-05 11:30:18 | 外国語

車の短い乗車時間の中でFMラジオで今さっき聞いたフランス語である。

そろそろ1週間後にワールドカップが開幕なので、それに便乗してフランス語とかドイツ語、イタリア語等の言語を学ぶ人を増やしたいという意図だろうか、音楽番組とタイアップした放送である。

今日はフランス語編だったらしい。その放送の終り近くに聞いたフランス語がこのbutであった。英語ならこれはバットと発音するが、フランス語ではブットであり、サッカーのゴールの意味である。

それとかcarton jauneとかも聞いた。これはフランス語を少しかじったことのある人なら、ああイエローカードだとわかるだろう。

Allez,allezとかもあるといっていた。「いけ、いけ」とでもなろうか。

さて、こんな放送を聞いてこれらの外国語を学ぶようになる人はどれくらいいるのだろうか。


36kg は何トンか

2014-06-04 12:00:43 | 日記・エッセイ・コラム

あるところで36 kgは何 t かと聞かれた。急に聞かれたので、36を1000で割って、0.036 t と答えた。

しかし、普通に36kgくらいなら、それをトンに直せなどと聞かれることはないだろう。これは公文書に必要だったらしいので、それならしかたがないけれども。

冗談だが、お上には逆らえないから。

トン t で表す必要があるのはやはり1 t =1000 kgに近い質量とか重量が問題になるときであろう。

いまの質問に返ると、500kgが0.5 t であるから、36 kgは0.5 t よりも一桁小さい0.036 t であることは自明であり、計算が必要なことではなかった。このあたりに私のセンスのなさが現れている。

また、物理などの科学技術の計算では36 kgを表すには、1000 kg/tであることから、36 *10^{-3} t =3.6*10{-2} t と答えるのが推奨されるであろう。

しかし、私にこのことを尋ねた方はそういう知識まではもっていなかったらしい。もっともそういう知識をもっているくらいなら私に尋ねたりはしないだろう。

人はすべてのことを自分がよく知っているということはないから、わからないことがあれば、知っている人に尋ねるというのはいいと思う。


Balla e ronda

2014-06-03 10:26:59 | 日記・エッセイ・コラム

たまたま車に乗っていて、FMラジオをつけたら、ワールドカップを記念した音楽番組がはじまった。

その冒頭の歌がBalla e rondaというのはイタリア語で「ボールは丸い」という意味だという。

丸くないボールは私はラグビーのボールくらいしか知らない。サッカーボールでもハンドボールでも、はたまたバレーのボールでも丸い。

野球のボールも丸い。バトミントンなどは羽根であるから、ボールではない。

丸いボールはどこにでも転げて行く。そういう普遍性が歌のテーマだったのかもしれない。

このラジオ音楽番組の担当は鈴木マリアさんとマッテオさんであり、テレビのイタリア語の放送でよく知られた方々であった。もっとも私は顔を思い出すことができるくらいで、イタリア語はからきしである。


wieder was gelernt

2014-06-02 12:27:15 | インポート

wieder was gelerntととは「また勉強になった」という意味である。しかし、今日の内容はドイツ語に関することではない。

ちょっとだけ説明をしておくと、この場合のwasはetwas(somethingにあたる)の意味で、英語のwhatにあたる、wasではない。

今朝、新聞を読んでいるときに短歌の投稿欄をちらっと見たら、知らない言葉が出ていた。それが「木通」であった。

知らない言葉であったので、妻にこれは何と読むのかと助けを求めた。妻はすぐにスマホで検索をしてくれて、これはアケビと読むとわかった。

アケビは蔦式の低木であり、春に花を咲かせ、秋には実がなるという。花の写真とその実の写真も見せてくれた。

しかし、こういう写真を見せてもらってもすぐに忘れてしまう方である。花は白に縁が赤かったように思う。

それにしても「短歌とか俳句をする人は私たちの知らない言葉を知っているね」というのが夫婦の結論であった。

短歌は、空き家に今年もアケビの花が咲いたが、空き家は空き家のままである、というような内容であった。