物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

2014-06-18 12:05:42 | 日記・エッセイ・コラム

雨の季節である。

先刻も車で仕事場までやって来る途中でFMの放送を聞いていたら、雨に関する音楽を放送していた。

その中に雨と題する曲があったが、それはピアノ曲であったが、なんのことはない、童謡の「雨、雨ふれふれ、かあさんが・・・」という曲であった。もっとも歌はついていなかった。

「蛇の目でお迎えうれしいな」という歌詞が続くはずである。そういえば、蛇の目などという傘をトンと最近では見かけない。

コウモリ傘と言われた種類の傘の全盛である。温泉宿などでも蛇の目とか番傘は見かけないのではないだろうか。

もっとも子どもにとって蛇の目傘がうれしいのではなく、お母さんが迎えに来てくれるのがうれしいのであろう。そんなことにもこの年になるまで気がつかなかった。


2600回達成

2014-06-17 12:02:07 | 日記・エッセイ・コラム

このブログもこの回でようやく2600回に達した。いつも言うように1年に300回くらいが人間がブログを書くことができる限界であるので、平均すれば8.7年かかるはずである。

このブログは2005年にはじめたので、大体その予測とあっている。

それにはじめのころは1週間に1回くらいの頻度であったが、そのうちにほぼ毎日何かを書くといういまのスタイルが定着した。

今回みたいな記念の回は経緯の反省とか回顧になるが、大体は私自身の気がついたこととか思ったこととかを述べている。

できるだけ新しい視点だと思ったことを書いている。実際にはなかなか使い物にはならないが、子どもたちの生きる参考になればと願っている。

それと私がそのときどきで携わっていることで、苦労していることとか気にかかったこととかを書く。

これは自己満足で書いているブログなので、別に誰かに感心してもらうために書いているわけではない。

それでも誰かが読んで感心してくれることはその人の問題であり、その人の自身の向上とつながっていれば、それをいけないということもない。


しらいの滝

2014-06-17 11:32:38 | 日記・エッセイ・コラム

東温市のしらいの滝を先週の土曜日にはじめて訪れた。

これは妻がお隣の生き物好きのJ君にカニがいたよといったら、そこへ行きたいということで一緒にいったのである。

J君は小学校の3年生である。たびたびこのブログで話題にしている子である。そのときには妹のChiちゃんも連れて行った。

二人とも身が軽くて、ひょいひょいと坂道を上がっていく。階段があってもちっとも苦にしない。

体重のある私は妻におくれること10mでようやくついて行った。ところが途中で探したのだが、カニがいない。これでは誘っただけで空振りだなと思った。

滝つぼのところまで上がってしばらく滝を見た後、ちょっと横にそれた道端で妻と二人の子どもが石をひっくり返してカニを探し始めたが、なかなかカニがいなかった。

ところが、J君が1匹カニを見つけたら、あちこちにカニがいた。大きなカニは3匹ぐらいだったが、小さいものもあわせて10匹も捕まえてもって行った水槽に入れた。

J君は鼻高々である。もっとも今朝隣から聞こえてきた声を妻が私に伝えてくれたところではカニが死んでしまって、5匹ぐらいになっているようだ。


ホタル狩り

2014-06-16 10:22:34 | 日記・エッセイ・コラム

ホタル狩りなどというとホタルを捕まえに行ったようだが、そうではなくてホタルが飛んでいるのを観賞に行ったのである。

昨日、午後8時ごろから小野川上流のところへホタルを鑑賞しに子ども連れで出かけた。

もっとも小学生のお隣のお子さん3人とである。8時ごろにならないと暗くならないのでホタルが光っていてもわからないからである。

なんとか10匹ほどのホタルが光ながら、飛んでいて、面目を施したが、お子様たちにとってはよく見えなかったらしい。もっとも全く見えなかった訳ではないと思うけれども。

帰りの車の中で子どさんたちは眠り込んでいたのか静かだった。一番下のチィちゃんは眠り込んでしまっていた。

9時過ぎには帰宅をしていたから、1時間ほどのホタル観賞であった。


生命の起源は宇宙に?

2014-06-14 11:15:14 | 科学・技術

生命は地球で発生したという説が普通かと思っていたが、生命の起源は宇宙にあるというのが通説になっているという。

これはハヤブサ2号を率いる、国中教授の朝日新聞のインタビューで彼が言っていることである。

実はもう40年近くも昔にドイツのマインツという町に家族で滞在していたが、そこで知り合った化学者のS夫妻がそういう隕石の分析からアミノ酸の痕跡を調べる研究をなさっていた。

その後、E大学の大学生協の私の前任の理事長だったT教授の奥様がS大学の理学部の教授であり、そのころに島根県に大きな隕石が落ちたとか新聞で話題になった。

そのことを聞いて、T教授に私も知り合いの方に隕石の分析をしている方がおられるといったら、実はSさんに隕石情報を知らせたのは当時島根大学に勤めておられた奥様の方のT教授であることがわかった。

それで、多分Sさんは島根に飛んで行かれたことであろう。その後、この奥様の方のT教授は金沢大学に移られたと伺っているが、もうずっと以前に退職をされているでろう。

私の知り合いだったT教授も持病のせいかどうかは知らないが、ずっと以前に亡くなられたと聞いた。

さて、Sさんご夫妻はまだご健在だろうか。

隕石中にアミノ酸があるのかどうかを分析で調べるというような仕事をSさん夫妻はされて居たのだと思う。


angeblich

2014-06-13 11:30:54 | インポート

angeblichという語を使った会話を最近聞いたのだが、このangeblichの意味が頭に残らない。いまも辞書を引いてみたら、ちゃんと赤鉛筆でアンダーラインを引いていた。

だから、前にも辞書を引いてみたことはまちがいがない。だがいつも頭に残らないのである。

ちなみに、辞書では「自称の、表向きの、そう思われている」という訳語がついている。Langenscheidtsを引いてみるとwie j-d behauptet (was jedoch nicht als sicher od. bewiesen gilt)とある。

昨夜のドイツ語のクラスでR氏に聞いてみたが、本人がそう言っているが、大抵本当かウソわからないようなことを言うという説明であったから、上の独文の説明と同じである。

だが、このR氏の説明を聞かなかったら、やはり納得できなかったに違いない。

私がangeblichに関心をもつようになった文章はつぎのものである(NHKのドイツ語講座、応用編テクスト から)。

Angeblich (sollen) die ersten Kaffeeh"auser nach dem Ende der Zweiten T"urkenbelagerung Wiens im Jahre 1683 (er"offnet worden sein). (注)

(訳:言い伝えるところによれば、最初のカフェハウスはオスマン・トルコ軍によるウィーンの第2次包囲が終わった1683年に開店したそうです。)

である。この言い伝えは歴史的な事実かどうかはわからないことがわかる。 

(注)(  )の挿入は私によるもので、ドイツ語の文章に特有な動詞の枠構造を示すためである。定動詞は話法の助動詞のsollenで、本動詞はer"offnenである。受け身の完了形となっている。主語はdie ersten Kaffeeh"auserである。

(2018.4.6付記) ドイツ文がものすごく難しいように思われるかもしれないが、それほど難しい文ではないと思う。


ストレスは健康によい

2014-06-12 13:11:51 | 健康・病気

久しぶりにTEDの話である。

ある心理学者の話が昨夜あった。

その方によるとストレスが体の健康に悪いというのはある程度事実だが、それはストレスが健康に悪いとマイナスに考えている人にとってである。

ストレスが健康に悪くはなくて、健康促進しているのだとプラスにとられている人にはストレスはむしろ人の健康に役立っているのだという。

これは統計的にも確証された事実らしいので、仕事でストレスにいつも出会っている方々にはストレスをプラスに変える心のもち方をしてほしい。

ストレスは日常の生活や職業上の仕事からなくすことはできないが、だからストレスを忘れようとしてアルコールに頼ったりする前に、人と人とのつながりを大切にするがよいとのこと。

愛情や信頼とかその他の人とのつながりが「オトキシシン」とかいう「酵素」か何かを出して疲れをいやしてくれるのだという。

「困ったときは人を頼れ」というのは意外にもとてもい方法であるらしい。自分一人でぐずぐず心配をしない方がいいという。

たとえ他人から助けを得られなくても、自分で自分を助けるような気分とか体調が得られたりする。

それになんでも他人に相談すると、本人が思いもかけぬ展望が得られたりする。


JY君

2014-06-12 12:55:14 | 日記・エッセイ・コラム

お隣のJY君のことを述べよう。

JY君は小学校3年生である。いつだったか擬似祖父母体験というブログで書いた子どもさんのうちの一人である。

町内のフェスタで小学校でフェスタがあり、そのときに一緒に小学校まで行ったときのことであった。

校内の小さな池の中にメダカとかお玉じゃくしとか小さな生き物をじっと彼は観測しているのである。そして、その観測に夢中になってその池にいつか落ちてしまい、先生があわててJY君のお母さんに電話して着替えをもってきてもらったのだと校長先生が彼のことを好ましげに語っていた。

そしてその観測眼は鋭く、ごく小さなことでもきちんと観測しているのだという。私の自宅の前に畑に水が入って苗が数日前に植えられた。

早速、このJY君何か生き物が来るのではないかと興味深々であるらしい。でもすぐには生き物は来ないよねとはお隣のNさんが言っていたと先日聞いた。

こういう知的好奇心とかその人のもっている賢さとかは残念ながら教えることができない。その子、その子に固有の性質であり、生まれつきである。

知識は歳とともに増やすことができるが、こういう知恵とか知的好奇心とか何かに熱中する性質とかは教えることができない。

もっともある子は生き物に関心をもつが、私などはそういう生き物に関心をもったことなどまったくなかった。

私の大学時代の同級生で大学院時代に研究室で生活を共にした、H君はやはり生物が好きで、中学校くらいまではとんぼとか蝶に興味をもっていたと私に話してくれた。


がんばれ、ながえ孝子

2014-06-11 11:34:02 | 日記・エッセイ・コラム

さきほど用があって、ながえ孝子さんの事務所の横を通ったら、辻立ち演説を2284回したとあった。

がんばれ、ながえ孝子! 

辻立ち演説を何回したら当選で、何回しなかったら落選という、とかいう目安はない。たとえ、3000回辻立ち演説しても落選かもしれない。

だが、そういう地道な努力をしている人を見捨てることはないものである。

私のブログの回数が2600回に近づいてきた。一年に300回のブログを書くことはそんなに楽なことではないが、私にはそれほど苦でもない。

生きているうちに1万回目のブログを迎えることがあるのか、私にはわからないが。


原発をどうするか

2014-06-10 11:31:55 | 国際・政治

「原発をどうするか」はとみに政治の問題になってしまった。

端的に言うと、ここに至っては原発を止めるしかない。

だが、それは純理論的に言っての話であって、現状をどうするかはなかなか難しい問題である。

それはその存続に電力会社の維持が係ってきたりするからである。政治的または人類の生存だけを考えるのであれば、原発廃止以外に方策はない。

これは言い切ってもいいのだと思う。ところがそれが現在ある電力会社や原子炉の建設を請け負ったり、原子炉を実際につくっている重電機産業の会社にとってみるとそこで利益を得ていたところであるから、死活問題である。

そこらが理論的または事故が起きたときの影響まで考えたときの後の現在の福島第一原発の後処理などを考えたときに処理費用の支出などを考慮したときの「原発廃止」に踏み切れない大きな理由がある。

だが、理論的にははっきりしていて、人類がまだこれほど巨大な機構の発電施設を制御できないことを示したことでもであり、事故の影響があったときに大きさを考えたときに、廃止以外にはない。

だが、それをいろいろな利害関係から以下にもっともらしく世間を説得して原発再開にもっていくか。これが現在の政治の課題であるかのようだ。

そして、原発を廃止するなど明言する首相を認めないというのが、産業界の意向であろう。それは本当は産業界が依拠しているはずの日本国民を痛めつけてしか、産業界が生き残る方策がないということを示しているのだろうか。

日本の産業界にはもう賢明な人々はいないものだろうか。


空間回転とSU(2)

2014-06-09 11:31:21 | 数学

『四元数の発見』の原稿がほぼできあがったと先日書いたが、実はその中の第7章 空間回転とSU(2)という章を書き換えている。

これはもともと四元数の元 i,  j,  kとPauli行列の対応のさせ方を変えた方がよいと思ったからである。できるだけ記述の簡単な方が望ましいと判断した。

計算はできあがってそれをもとに文章に書くだけであり、1部はすでに前に書いた節を書き換えた。もう一つの節を書き換えることとそれに関係した付録をいくつか書き換える必要がある。

その付録の方も大体は見当がついてはいるのだが、まだ書き上げてはいない。

そうこうするうちに、すでに書き上げていた「はしがき」にその本を読むための予備知識について書き加えた方がいいと思いだした。

それで『四元数の発見』の数学的予備知識は行列のかけ算とベクトルのスカラ積とベクトル積の定義を知っていれば十分だと書き加えた。しかし、マクローリン展開の知識もあればよいもっといいのだが。

これらの知識はそんなに難しいものではないので、すぐに学ぶことができるとは思うが、sin x, cos xやe^{x}の微分を知らない方もいるのだろうか。

もっともそのような知識もない方が四元数に関心をもつはずもないか。

 


deep learningと武谷三段階論

2014-06-08 14:42:30 | 科学・技術

deep leraningと武谷三段階論とがどういう関係にあるかということについて誰かがどこかでなんとかかんとか言っているという二番煎じの話ではない。

昨夜deep leraningをより詳しく知ろうと思って妻にタブレットで検索してもらって、その説明を読んで、以下は私が思ったことである。

「多くのデータ(または情報)からその特徴をとりだす」という作業をdeep learningではするが、そのときに先ず与えられるもののは多量のデータである。

これは武谷三段階論では現象論的段階である。もっとも生のデータだから、これは現象論的法則にまで止揚されているものではない。

そして、deep learningそのものでわかるものが本質的段階の認識だとすると途中の実体論的段階はないことになる(実体論的段階不要論)。

もっともdeep leraningでわかった本質段階的な法則と思われているものも実は実体論的な法則であるか、または本当は現象論的段階の法則だとも解釈される。

昨夜、読んだdeep learningの解説は一般の人々への解説であって、研究者のためのものではない。だが、多くのデータの底にある、ある種の現象論的法則性を導くのが、deep learningの役目だという風にもとれる。

そして、どういうパラメータでparametrizeして多くのデータとか現象の底に潜む法則を見つけるか。これがある意味でdeep learningというレンズを通してではあるが、わかるようになる。

人工知能研究の一環である、deep learningの場合を武谷三段階論的に考えたら、それはこういうことではないだろうか。

武谷三段階論的な視点はなかなか、この人工知能研究には取り入れにくいが、それでもなんとか取り入れて新しい進歩を与えられないものか。

こんなことを取り留めもなく考えている。


deep learning

2014-06-07 14:16:46 | 科学・技術

deep learning(深層学習)という人工知能研究の一分野が脚光を浴びているという。

deep learningは与えられた情報の中から「もっとも特徴的なものを選べ」とプログラムされている。

そして、それが商用にも利用されているのだという。アメリカと中国がその分野での研究にしのぎを削っている。

日本でも人工知能の研究は1980年代に第5世代コンピュータの出現とともに持て囃され、世界の研究の先端を一時走っていたのだが、その後その成果を生かせることもなく研究は下火となったとか。

何でも日本人は好奇心が旺盛ですぐ飛びつくのだが、どうもそれを有効に利用するという才に欠けているのではないか。

いや、私自身がそうなので、これは単なる他人に対する批判ではなく、自己批判である。

いまは数式処理研究は人工知能の研究分野には入らないが、それも人工知能研究の分野に入っていたことがある。

私も御多分に漏れず、数式処理といわれる分野に関心をもって、それを使った研究をしようとしたりしたのだが、一つ二つはそれで論文を書いたが、直ぐに尻切れトンボになった。

友人のNさんなどは私が数式処理、数式処理といっていたころ、彼は数値解析の分野で研究をしており、その後、彼はその数値計算と数式処理のhybrid計算の研究等によって、日本数式処理学会の会長にまでなった。

しかし、彼の講演をいつだったか聞いたときには私がそんなことを言っていたとかいうことは一言も言わずに、Reduceという数式処理言語を開発した、アメリカの物理学者だった、Hearnが物理学会で講演したので、そのときに数式処理に関心をもったみたいなことを言っていた。

まあ、Nさんにしてみたら、自分の近くの友人が関心をもっていたなどということは忘れてしまったのかもしれないし、そうでなくとも無名の私などが関心をもっていても彼には全く影響を与えなかったのであろう。

そういうような自己批判が私にはある。


3つのミス

2014-06-06 13:23:00 | 外国語

先日、姪の結婚式に横浜に行った。前の晩に妻がカードを買って、新婚の二人にメッセージを書けという。

それでその場で私がつたない文章を綴ったのだが、その余白があいたので、お祝いのドイツ文を書いた。

Herzlich Glueckwuensh zum Heiraten !

ところが後で妻にスマホで調べてもらったら、いくつかのミスがあることがわかった。

第1にHerzlichではなく、Herzlich(en)となる。( )は修正個所の強調のためであり、その他の意味はない(注1)。

第2にzum Heiratenというような言い方はなく、zur Hochzeitとしなければならない(注2)。

第3にGlueckwuenschではなくて、Glueckwunschであった。ここでueはu ウムラウトという、uの上に点々がついた字母を表している。

そのu ウムラウトの字母がある場合にはそれを使うのだが、昔の英文タイプライターのようにその字母がなければ、ueで代えるというのが約束である。

昨夜、ドイツ語のクラスでこのことをR氏に尋ねたら、zum Heiratenという言い方は前置詞zuを使うときにはできないとのことである。

zuを使うときはある1時点のことに対する祝詞であり、長期間にわたってのことではないという。

もし、どうしてもある程度長期間にわたっての願望であれば、alles Gute fuers Lebenとか何かfuerを使うしかないという。

これはzuという前置詞のもつ制約であるのだが、私など50年以上にわたってドイツ語を学んできてもわからなかった。

この私の話を聞いて、R氏もそういう認識の違いというか、語感の違いがあると認識されたようであった。

いつか姪に会ったら、この私の重要なまちがいを許してくれるように言うつもりである。それとも手紙を書こうか。

(注1)これは文法的に言えば、Wir wunschen euch herzlichen Glueckwunsch zur Hochzeit ! の Wir wunschen euch を省略した言い方であり、普通には後ろの部分だけが使われる。

だから、herzlichenと対格(普通には4格という)が使われている。ところが私はこれをherzlichと副詞的に考えていたわけでお前は何年ドイツ語を学んでいるんだと言われても一言もない。

(注2)heiratenは普通には結婚するという動詞であるが、大文字でHeiratenとすれば、中性名詞になるので、zum Heiratenとした。die Hochzeitは結婚式の意味である。だからzu der Hochzeitだが、zu derは縮約されてzurとなる。ちなみにzumもzu demの縮約である。

私の意識としては結婚式もおめでたいが、その後の結婚生活が幸せであることがより大事だと思っている。

 


OCNブログの終了

2014-06-06 12:32:32 | デジタル・インターネット

このOCNのブログも11月30日をもって終了するらしい。

これはOCNのお知らせでの通知である。だから、他のブログに移転しなければ、11月30日でこのブログは終わってしまう。

毎日訪問者が100人程度のブログであるから、いつ消えても不思議ではないが、私の意志よりも先に会社がやる気を失ったらしい。

利潤が上がるかどうかがこういったサービスを続行できる条件であろうか。このブログは現在2586回を越したところであるので、今月中に2600回を越すであろう。

だが、私の事情ではなく、それより先にブログのサービスが終了となるとは思わなかった。もちろん後継のブログへの移動は勧めてくれるらしい。

こういうことだとホームページの方もサービスは終了になるのだろうか。そのあたりの事情はまだ知らないのだが。

日記を私はつけたことがないのだが、日記代わりにこのブログにできるだけ毎日何かを書いてきた。

日常生活の事情も書いたけれども、それがこのブログの主たるテーマでなかった。

できるだけその時々の自分の関心事とか考えたことを書いてきた。新しい視点となるようなものとか私が今まで生きている間に、知った興味ある知識とかそういうものに関心と敬意を払ってきた。

私は幸せな人生を送ってきたので、あまり家族に不満をもったりしたことがない。むしろ感謝したことの方が多い。

これは客観的に私が幸せだったというよりも、主観的に幸せだったということである。

だから、他人が見たら、不幸だったと思われるかもしれない。だが、主観的に言うと不幸だと思ったことはない。これは自分自身に関しても家族に関してもである。