物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

2700回達成

2014-09-09 13:15:21 | 日記・エッセイ・コラム

このブログがこの回でもって2700回に達した。

自分の日常を綴りながらも、それには限定をしないでもう少し視野を広くしてこのブログを書いている。

科学の話題よりのどちらかというと数学それも中学校とか高校程度の数学についての疑問とかが多いかもしれない。

昔は哲学好みとか言われたが、別に哲学を特に好きだということでもない。

できるだけ、なんでも根本的に考えてみたいという私の性癖がでているだけである。

ただ、このブログ人のサイトは11月末をもって閉鎖となるので、gooのブログの方へ引っ越しを予定しているのだが、なかなかその方法がよくわからない。

それでまだ大幅な引っ越しには至っていない。ただ、新しいブログにも2回ほど書いているが、まだ主体はこちらにあるので、gooの方のブログは魂の抜けたようでもあろう。

その中に徐々にgooのブログに魂が入っていくだろうが、まだしばらくはこちらでおつきあいをお願いしたい。


愛国者 武谷三男

2014-09-09 13:02:01 | 科学・技術

愛国者 「武谷三男」などと書けば、泉下で武谷が笑っているかもしれない。世の中も変わったものだと。

これはもちろん、いわゆる右翼的な意味での愛国者という意味ではない。

しかし、7月の終りだか8月の始めだかにNHKが放映した「日本人はなにも目指してきたか」シリーズ第1回の「科学者は発言する」(湯川秀樹と武谷三男)の回にあるアメリカの科学者が原爆反対の運動をセーブする目的で湯川と武谷に個別に面談した後の記録についての報告に出てきた。

武谷はマルクス主義の信条をもった学者であることを承知の上で彼は武谷に会ったのだが、武谷が日本国を愛する愛国者であることを発見したと記録に残っていた。

この愛国者の意味は狭い意味での右翼の天皇至上主義の愛国者の意味ではないが、アメリカの科学者の記憶に残るくらいには日本の国を愛する人であったということだろう。

この記事を書く動機となった事実はしかしこのことではない。

昨夜、物理学会誌9月号が届いたので、見ていたら稲村卓さんが長岡半太郎の提唱した原子模型は、断じて土星型の原子模型ではないということを述べた記事があった。

長岡の原子模型は土星型の原子模型という評価を下したのはどうも稲村さんの調べたところでは『長岡半太郎伝』(朝日新聞社、1973)であるらしい。

彼の原子模型に関する主要執筆者であった、八木江里氏を「愛国心がない」と武谷が叱ったというエピソードが出ていた。この事実は稲村さんが八木さんからの私信で得た事実らしい。

どこの国でも自国の人の業績を称揚して、他国の人の同様な業績を無視または軽視する傾向がある。

だが、長岡が亡くなって20年近く時間が経って、客観的に評価したとする長岡の評伝で、彼の意図しない意味に自国でさえ考えられているとすると果たしてそれでいいのだろうか。

「長岡・ラザフォード・ボーア模型のすすめ」と題するこのエッセイはそういうことを考えさせてくれたと同時に、期せずして武谷三男の愛国心の発露を一端を見た。


円弧の長さと扇型の面積

2014-09-08 15:10:42 | 数学

円弧の長さはラディアン(弧度法)で角度を定義すれば、

それは角度xはx=L/rで定義できる。ここで、Lは円弧の長さであり、rは円の半径である。

この定義から円弧の長さが2倍になれば、(中心)角は2倍になり、円弧の長さが3倍になれば、(中心)角は3倍になる。

すなわち、円弧の長さとそれに対応する、中心角は比例する。

このことは角度の定義から明らかである。

ところで、円の一部としてできる扇形の面積をどう求めるのか。これは中心角とその扇形の面積とが比例するということから、

ある扇形の面積をSとし、それに対応した中心角がxであるとすれば、円の中心の全角は2\piであり、その面積は\pi r^{2}であるから、

  S/ (\pi r^{2})=x/ (2\pi)

が成り立つ。

したがって、この式をSについて解けば、扇型の面積Sは

  S=(1/2}r^{2} x

と求められる。

ところで、扇形の面積が中心角に比例するということをどうやって説明しているのであろうかと高校数学の参考書とかを見たのだが、書いてあるのを見つけられなかった。

これは当然であるのかもしれないが、円弧の長さと中心角ほどには自明でもないような気がする。

もちろん、中心角が2倍になれば、そのつくる扇型の面積が2倍になり、3倍になれば3倍になることは当然とも思える。

円の半径は一定であるのだから。

もっともそのことを私のもっている書籍で書いてあるのが、少ないのはどうしてなのだろうか。


ブログ人のブログ名

2014-09-08 13:47:12 | 日記
まだ、こちらのブログには引っ越しができそうにないが、OCNのブログ人のほうは11月末まで生きている。

そちらを参照されることを期待する。physicomathというのが私のブログ名である。physicomathはもちろんphysicsとmathmaticsとを合わせた形容詞のphysicomathmaticalの始めの部分をとったものである。

まだこちらで何かを書くというのにはあまり慣れていない。どうせそのうちにいやでもなれるであろうが。

physicomathのほうはもう数回で2700回に達する。どうもすべてのブログの内容をこちらに引っ越しがができるか定かではない。

ただ、私のブロブはテクストだけで画像がないので、メモリーはあまりとられてはいないが、それでも2700回に近くなれば、それ相応にメモリーも使っているかもしれない。

音声認識

2014-09-08 11:32:28 | 科学・技術

第2と第4月曜の午前中は妻と数人の有志がパソコンの利用学習会を医療生協病院の1室を借りてしている。

その講師の一人のNさんはE大学工学部に勤めておられたので、技術に詳しい。特に音声認識に関心があって、最近は音声認識の技術の進展が特に大きいといつか私にも話してくれたことがある。

コンチェルとかいう装置かソフトかによっていろいろなことができるという。

コンチェルとはどうもフランス語のConcierge(コンシエルジュ:アパ-?の管理人の意)から来た用語らしい。

そういえば、先日妻が友人たちと久万町の古岩屋寺を訪ねたときにお土産店で人の音声を反復するという人形があり、一緒に行った人たちが感心してその中の一人はその人形を買って帰った。

価格が2000円くらいでそれほど高くはなかったという。

これは音声認識が進んできたことの証であろう。だが、アンドロイド型のロボットでもなければ、まだ対話ができるようにはなっていない。

人間との簡単な対話ができるようになるためにはある程度記憶装置とか単なる音声認識だけではない装置が必要になるからであろう。

しかし、音声認識ができれば、目の不自由な人のパソコン利用度が上がるであろう。

e-Learningのコンテンツも音声で応答できるようになることが期待できる。


時刻と時間

2014-09-08 11:11:43 | 数学

「算数の教え方」の学習会の案内が来た。

それを見ていると小学校の2年生の時間と時刻の問題についてテストの正答率がさんざんであったという。

それで、案内を送ってくれたYさんは時間と時刻についての教材研究が必要なのではないかと書いている。

そして、参考として十二支についての説明をつけておられる。

Yさんの言われる問題点が時計の読み方の問題なのか。それとももともと時間についてのある意味で本質的な問題を指しているのかはこの案内の文章だけからはわからない。

私が小学校2年だったか3年だったか忘れたが、あまり時計の読み方がわからなかった。このとき、2歳上の兄が一生懸命時計の読み方を教えてくれたことがあった。

だが、そのときにそのあまりの熱心さのためにわからないとは正直には言えなくて、わかったといったが、そのときにはまだわからなかった。

その後、しばらくして時計の読み方はどこでどうしてだかわからないが、わかるようになった。

長針が一回りしたときに、短針は円周の12分の1しか進まない。

1時間は60分だから60分を12で割れば、長針は一目盛りで60/12=5分進むことになる。

こんなことは大人には自明だが、子どもにとってはなかなか理解が難しい。

時計の針から、時刻を読むことも難しいが、時間とかの感覚をつかむこともなお難しい。

時刻と時間の指導を研究した小学校の先生用の本まで出ている。これは必ずしも時計の読み方だけの指導書ではない。

このことについて妻と朝食後に話したが、妻はすぐにお隣の1年生の女の子を呼んで時刻のことを聞いてみたら、その実情が分かると言ってくれた。

その子は私の家に来たときに、いつも夕方5時までに帰って来るようにとママに言われているらしく、「まだ5時ではないよね」としばしば聞く。

妻は時計を見たらわかるのにといつも思っていたという。

時刻と時間の教え方ひとつとってもなかなか奥深いところがあると気がついた。


仕事は忙しい人に頼め!

2014-09-06 16:30:48 | 日記・エッセイ・コラム

「仕事は忙しい人に頼め!」という。

暇にしていそうな人に頼んでも、なかなか仕事をやってくれないが、忙しくしている人に頼むと割と早くやってくれるという。

これはある量子力学の本(タイトルは電子工学概論だったか、量子力学ではなかったが)の序文で読んだことである。

そんなことを私がいつか言っていたのだが、最近は妻が同じことを言っている。

暇そうにしている人に何かものを頼んでもテキパキと仕事を片づけてはくれない。それはどうも真理のようである。

組織にいる間は輝やいていた人も組織を離れて退職してしまった後はぱっとしないこともある。

私は自分のしたいことに限って仕事をしているので、自分のしたいことがいまのところなくなる気配はない。

健康でいることができれば、それなりの仕事をすることができるかと考えている。自分でやりたいことの1/10もまだやれてはいないが、やりたいことはまだまだある。


そろそろ引越し?

2014-09-05 10:46:25 | 日記・エッセイ・コラム

私の家の引っ越しのことではない。

このブログの「ブログ人」というサイトが閉鎖になるので、11月30日までにgooの別のサイトに引っ越しすることを余儀なくされている。

昨日、それを試みたのだが、なかなかうまく行かない。

チュウトリアルはあるのだが、どうも使い方がわからない。いつも同じところを堂々巡りである。

なんでもそのチュウトリアルをつくった人には思想があるのだろうが、その通りに動かないから、戸惑ってしまう。

まだそれにしても時間があるから、このサイトを最大限に利用するつもりである。

それに新しいサイトに誘導するというサービスも行われるらしい。


ブログの引っ越し

2014-09-04 18:44:28 | 日記
OCNのブログ人を2005年4月末から使ってブログを書いて来たのだが、このブログ人が11月をもって閉鎖になるという。

OCNが用意してくれた引っ越し先がこのgooである。使い勝手が違って来るので、果たしてブログを書くことが続けられるのかどうか心配である。

だが、いずれ閉鎖されるのなら、いままでのデータともども引っ越しできるところへ引っ越しておきたい。

ということでこのブログへの初登場となった。よろしくお願いする。

数学・物理通信の一挙編集

2014-09-04 11:28:47 | 数学

9月入って、『数学・物理通信』の4巻5号と6号の編集にとりかかっている。

別に9月に4巻5号を発行するだけでも十分なのだが、投稿原稿が手元にあることとその編集を短期決戦でやりあげてしまいたいという思いからである。

4巻5号の方は編集後記が私の手元に届いていないことと一つの論文の修正稿がまだ手元に届いていないので、編集が終わっていない。

それに対して4巻6号は投稿原稿が手元にあり、私自身の昔の他の機関誌に掲載した原稿をこちらに掲載したいという気持ちがあったので、一応の編集は昨日できた。

後は最後の修正のみである。ただ、4巻5号が発行されないと4巻6号を発行できない。

昨日、科学史の論文の構想を練ろうと思ったのだが、どうもやる気がおきなかったので、機械的な仕事をする方に流れてしまった。

まあ、科学史の論文の方の構想もある程度目途がついているのでなんとかなるだろう。


交通信号の順序

2014-09-04 11:13:50 | 健康・病気

「交通信号の順序」で何を意味するのか。すなわち、あのみどり、黄色、赤の順序がどうなっているのか。

この交通信号の真ん中はもちろん黄色であることは誰も異存がない。

が、さてみどりは黄色の右側だったな、左側だったかなと聞かれてすぐ即答できる人はよほど日頃注意深くて意識的に生活している人だろう。

なかなかこういう問いに即座には答えられない。よく考えるとそうだ。

よく考えて自分のいつも通っている通りの信号等を思いだして、みどりは黄色の左側だと答えられても、即座には答えられない。

こんな問いを投げかけられたことはほとんどないのだが、E大学の保険体育のM先生の退官講演に出席していたら、この先生から聴衆に交通信号の順序を尋ねられた。

そのときにもとっさに赤信号は黄色の右側とは答えられなかった。

その先生はこの順序について心理学的な理由があるのだといわれたが、どういう心理学的な理由があるのかまでは言われなかった。

よく考えてみると、日本では車は左側通行であり、赤が右側にある方がドライバーによく見えるであろうと推測されるが、その理由を突っ込んで調べたことはない。

ということはアメリカやイギリス以外のヨーロッパでは車は右側通行のはずなので、信号の順序は違っているのかしら。それともやはり日本と同じなのかしら。

交通の危険防止のためなら、もし信号の色が上下に並んでいるときには赤が一番上にあるのがよさそうだが、はたしてどうなんだろうか。

心理学の先生のご意見を伺いたいところである。


如才がない

2014-09-03 12:17:19 | 日記・エッセイ・コラム

昨日だったか一昨日だったか。近所の小学生が友だちとやってきた。妻がもっているタブレットに入っている映画を見るためである。

そのときに一緒に来た小学生がどうも如才のない子どもで家に入るなり、「おばちゃんの家はきれいだね」とかいったと妻が感心していた。

8月31日まで客間を占めていた本の入った段ボール箱をすべてかたずけて掃除をして数日しか経っていなかったからであろうか。

大体私の家は私が若いときは子どもが昼に遊んでちらかしても夕方に私が帰宅するまでには妻が掃除をしてきれいにしていた。

これは私が家の汚いのを好まないことを知っていて妻がそうしたのである。

大体小さな子どもがいれば、家の中は雑然としてくる。それはある程度仕方がないのだが、若いときはそれが我慢ができなかった。

ところがこのころは自分が年をとって片付けができないので、私の家は方々の部屋が雑然としている。

よく使う部屋だけでもきれいにしておくべきなのだが、どうもそれができなくなった。

きれいに整頓するには物を捨てたり、ものをどこかに収納したりすべきなのだが、収納すべき場所を確保できない。

それでそのままになっている。妻は私の集めた書籍でも研究中につくったノートにしても、私が死ねば、ゴミだといってはばからない。

確かに利用する人がいれば、資料ではあるが、利用する人がいなくなれば、ゴミであろう。

ある程度費用をかけて集めた、武谷三男の著作とか遠山啓の著作がゴミとしてほぼタダ同然に古本屋に引き取られるのはしのびない。

たが、それを資料として引き受けてくれる機関がどこかにないか探しておかないといけない。

だが、どこの図書館が手狭でなかなかひきとってくれたとしても、うまく資料として活用できる状態においてくれるかどうかはあまり保証されない。

ほおっておけば、エントロピー増大の法則にしたがって、貴重な資料も散逸してしまうであろう。


漱石の『坊ちゃん』の文庫解説

2014-09-02 11:30:35 | 本と雑誌

岩波のPR誌『図書』の8月号から文芸評論家斎藤美奈子さんの「文庫解説を読む」がはじまった。

たまたま9月号は漱石の『坊ちゃん』のいくつかの文庫解説を読んで解説をしてくれている。

新潮文庫の解説をしているのは、江藤淳であり、その主張は一見勝者とみえる坊ちゃんと山嵐は実は敗者に他ならないという。

坊ちゃんは元旗本だし、山嵐は朝敵の汚名を着せられた「会津」の出身である。

岩波文庫の解説者は平岡敏夫であり、坊ちゃんは清の死の悲しみが消えぬうちに語り始めているとか、父母にも兄にも愛されなかった子ども時代とかもあり、「おれ」は孤独で孤立しているという。

そしてきわめつけは「明治維新以後、薩長は藩閥政府に冷遇され、(中略)ひとしく体制に対する反逆という文脈のなかで、『坊ちゃん』を読むことができる」

これらは悲劇としての『坊ちゃん』である。

小学館文庫の夏川草介の解説では『『坊ちゃん』が敗者の文学であることを認めつつ、(中略)坊ちゃんが背を向けた松山を<坊ちゃんと一緒になって「不浄の地」と笑うことは読者の側にはゆるされない>(中略)「この不浄の地」こそが我々が住む現実世界だからだ。<我々は坊ちゃんとともに松山を去るのではない/岸壁に経って、去りゆく坊ちゃんを見送る側なのである>』という。

ほかにも正義を巡る議論もあるが、ここで披露したいのはそれではない。

湯川秀樹博士がまだご健在だったころにひょっとした機会に、伺ったことのある漱石の『坊ちゃん』評である。

彼はいう。『坊ちゃん』は中央の地方蔑視の典型であり、あの小説を松山の人が喜んでいいわけがない。

この発言を聞いたのは1968年のことで博士の晩年ではあったろうが、これほど独特の意見を聞いたことはそれまでなかったので、とても記憶に残った。

そのときには私はすでに松山の大学に勤めることが決まっていたが、創造的な仕事をできる研究者の考えの一端を垣間見た気がした。


居眠り

2014-09-02 10:59:54 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、テレビを見ていたら知らぬ間に居眠りしてしまった。

最近は頭を使うことが多いのか、爆睡してしまうことが多い。

それで思い出したのは世界的に天才数学者といわれた岡潔さんが書かれていたことである。

岡先生が取り組んでいた、多変数関数論の問題は並みの難問ではなく、世界で誰も解けなかったような難問だった(らしい)。

それでもずっと数か月とか数年とか考え続けていたら、考え出すといつもすぐに眠くなって寝てしまうのだという。

ところがそうやって数ヵ月か数年が過ぎると、ぼんやりと解決の方法が見えてくるという。

私の『数学・物理通信』の編集作業は残念ながら岡先生が取り組んでいたような難問ではなく、誰でもできるような作業にしかすぎないので、比較することがそもそもおこがましい。

だが、そうではあるが、なかなか編集作業でのエラーがなくならないので、私なりにああでもないこうでもないとここ数日間、頭を使ったという点では同じである。

latexの編集ではエラーメッセージが出るけれども、なかなかその意味がわからない。ある程度経験を積んでくるとそのエラーが出ても時間が経てば、何とか解決できるだろうと思えてくる。

その具合が悪い箇所がよくわからないというのが、いちばん大変なのである。

そして事実数日すれば、なんとか解決するのが普通である。だが、それが解決しない数日間は苦しい。


誕生日は?

2014-09-01 13:14:59 | 日記・エッセイ・コラム

岩波のPR誌『図書』9月号で池澤夏樹さんが書いている。

「誕生日は、年に一度、すべての人に平等に巡ってくる」

と。これは真か。この命題は真ではない。偽である。

頭のいい人なら、ははあ、うるう年の2月29日に生まれた人のことを言っているのだなと思うであろう。

閏年の2月29日生まれの人は自分の誕生日は4年に1回しか回ってこない。

最近ではそういうことのないようにと産院では2月29日に子ども産まないようにすることもできるだろうが、実際にはどうしているのだろうか。

別に誕生日が4年に1回しか回ってこないからといって、4年に1歳年をとるわけではないが、正確な意味で誕生日は4年に1回しか回って来ないことは確かである。

もっとも2月29日の生まれだと言っても誕生日の祝いを3月1日にしてもいい。

また、こういう運命にある人の数は例えば日本でどれくらいいるのだろうか。これは一種のFermi問題と考えることもできる。