【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

中野寛成・公務員制度大臣が初答弁 衆院本会議 さすがにキンチョー?

2011年01月27日 17時24分13秒 | 第177常会(2011年1月)大震災・3党合意

[衆院本会議 2011-1-27 施政方針演説への各党代表質問2日目]

 菅再改造内閣で初入閣した、中野寛成さんが衆院本会議の代表質問で、ひな壇から演壇でに進み、答弁しました。公務員制度改革担当大臣としての答弁。中野さんは、国家公安委員長と拉致問題担当大臣も兼ねています。

 みんなの党代表の渡辺善喜(わたなべ・よしみ)さんの代表質問への答弁です。NHKがテレビジョン(地上波アナログ・地上波デジタル)、BS(衛星)、ラジオで全国生中継しました。

 時刻は午後5時5分頃。この日は午前10時から正午過ぎまで、参院本会議、午後2時から衆院本会議ということで、ひな壇も5時間以上座り続けていたことになります。

 大臣としてはじめて、演壇に向かう寛成さん。まず、議長席の衛藤征士郎副議長(会議スタートから2時間を過ぎているので、正副議長が交代)にあいさつ、野党側にもあいさつして、答弁を始めました。すさまじいカメラのフラッシュ。さすがに緊張感は隠せませんでしたが、「公務員制度は140年前の明治維新から続く」「仕事のやりがいに応じた信賞必罰も必要」「公務員制度改革法案をこの国会に提出する」と責任ある答弁をしました。

 とはいえ、勤続30年、細川・羽田内閣でも与党幹事長・政策責任者、衆議院副議長の経験があったとしても、国務大臣としての衆院本会議代表質問での答弁が特別なものであることが、表情からうかがい知れました。

【追記 2011-1-27 午後11時30分】

 一休みして、国会議事録検索システムで、中野寛成さんの衆院本会議での登壇回数を調べたら、過去に40回演壇および議長席から発言しています。

 寛成さんの初登壇は、1977年の第80通常国会の3月4日で、赤字国債臨時特例法案の質問に立っています。このときは、赤字国債発行3年目で、「私は、民社党を代表し、ただいま提案されました昭和五十二年度の公債の発行の特例に関する法律案について、総理、大蔵大臣並びに行政管理庁長官に対し、国民の率直な不安の気持ちと将来に対する願いを込めてお尋ねをしたいと存じます。」と質問しました。首相は福田赳夫さんで、「お答え申し上げます。(略)五十二年度(1977年度)という年は、私は、財政再建の第一歩をかなり着実に踏み出すという、そういう年にしたいと思っておったのです。ところが、御承知のとおり、わが国の経済は昨年の夏ごろから停滞期に入った。これをほっておくわけにいかぬ、そういうような事情もある」。この後、毎年、赤字国債臨時特例法が成立し続けながら、細川内閣だった1994年をのぞき、自民党は32年間政権を担うことになってしまいました。このとき30歳だった人は今は62歳。反省してください。

 寛成さんは民社党書記長を務めて、解党。新進党に羽ばたきます。

 1995年、平成7年10月3日には第134臨時国会では、「私は、新進党・民主会議を代表して、村山総理の所信表明演説に対し、私たちの提言を述べつつ、総理並びに関係大臣に質問をいたします」
と、建設的野党として、二大政党デモクラシーをこの国につくるんだ、という新進党の息吹を感じました。新進党は後に小沢一郎氏によって解党されてしまいました。
 このころはまだ景気が良かったので、「村山連立政権の政治姿勢についてであります。言うまでもなく、冷戦構造の崩壊、経済の国際化の急激な進展、マルチメディア社会の到来といった情勢の変化に伴い、世界は歴史的な激動期を迎えております。我が国がかかる激動期にその生存を図り、二十一世紀日本の明るい展望を切り開いていくためには、従来の発想を大胆に転換し、これまで定着してきた制度、システムの変革に勇気を持って取り組まねばなりません。政治に求められていることは、歴史に対する深い洞察、正しい時代認識と新しい時代を切り開くビジョンであり、勇気を持って改革を進めるリーダーシップの発揮であります」

 しかし、やはり日本人は内向きですので、世界の潮流に斬新な発想で乗り出すことができず、平成不況に突入していきます。

 2002年10月21日の第155臨時国会では、「私は、民主党・無所属クラブを代表し、総理の所信表明に対して質問いたしますとともに、若干の所見を表明いたしたいと存じます。とりわけ、私は、内政問題に絞り、小泉内閣の経済無策とその不幸な帰結について問いただします」と寛成さんの演説も内向き・経済政策に向かっていきます。

 これが演壇に立った最後で、この後は、衆議院副議長として議長席から発言しています。

 2005年3月22日の第162通常国会の本会議で「本日は、これにて散会いたします」と宣言し、この後の第44回郵政総選挙で落選。本会議での発言は41回目、演壇では8年3ヶ月ぶり、大臣としては勤続30年目で初めての発言ということで議事録に日本国が続く限り、残ることになります。こうやって寛成さんの30年間の本会議議事録を読むだけでも、民社党や新進党は時代を先取りしすぎていたのだなあと思い、デモクラシーと選挙というものの不条理を感じざるを得ません。

 こうやって考えると、連合と創価学会が応援団だった新進党(1994年~1997年)が、政権交代の千載一遇のチャンスだったわけで、解党した小沢一郎(氏)を歴史法廷の断頭台に送りたい気持ちは今も変わりません。

【追記おわり】

 また、寛成さんに代わり、答弁の機会を与えてくれたみんなの党さんには感謝します。とはいえ、中野大臣の前に答弁に立った菅直人総理によると、渡辺議員はこの日の午前中に質問通告をしてきたそうで、口八丁手八丁の無責任野党としか言いようがありません。責任政党と思われたいなら、予算関連法案に賛成したらいかが?

 なお、きょうの代表質問では、社民党幹事長の重野安正さんが、政権交代後に1年間、財務副大臣(税制担当)をした前参院議員の峰崎直樹さんが、昨年6月の代表選さいちゅうに、G8に大臣の代理で出席し、法人税率下げ競争が起きないよう、ある程度、カルテル(言葉は悪いが)のように、先進国で法人税を一定以上にするようコンセンサスをつくるアイディアを引き出し、賛意を示しました。ちなみに重野さんと峰崎さんはともに自治労の出身。たまには自治労も良いことを言う、といっては失礼ですが、社民党、民主党の枠を越えた自治労つながりで、大企業の聖域にメスを入れて欲しいと思います。

 また自治労をはじめとする旧総評系労組出身の議員のみなさまも、民主党、社民党の枠を越えて、中野公務員制度改革担当大臣を助けて欲しいと考えます。政治家らしい政治家、中野寛成。その名にちなんだ、中野正剛との違いは、まずは大臣になったということです。ただ、連合組織内でありながら、公務員制度改革担当大臣になったということは、中野正剛(自刃)先生のように、何か滅びの美学があるのかもしれません。私は実は「あること」を寛成さんから聞いていますが、ここには書きません。

 初日から総理の答弁漏れ、前原誠司外相の参院本会議での外交演説の飛ばし読み(気持ちは分かるが、やってはいけない)などがあったため、この日は藤井裕久・官房副長官がひな壇で原稿に目を光らせる姿が見えました。自民党政権時代にはフツーに見られた光景です。この内閣にもう一回、任せてみましょう。