国の出先機関である「沖縄防衛局」(旧那覇防衛施設局)の真部朗(まなべ・ろう)局長(昭和57年防衛庁)が、前職の「健康上の理由」に伴う前倒し宜野湾市長選挙に干渉していた疑惑が浮上しています。防衛事務次官を4年間務めた守屋武昌さん(昭和46年防衛庁)の守屋日記をもとにした、『「普天間」交渉秘録』は一級品の資料です。この本を書いた時点で、彼は「失う物は何もない」状態になっていたからこそ、信頼度の高い資料だと私は考えてます。
この本の244ページには、新年の仕事初めに「大臣の了解を取るよう真部朗防衛政策課長に指示し」たと記述があります。防衛政策課長は本省の筆頭課長です。
さて、この守屋日記をみると、那覇防衛施設局の佐藤局長は、「本省が沖縄県内の首長の情報を収集するために送ったスパイ」としか思えない記述がいくつもでてきます。
122ページ、名護市の島袋市長(当時)、助役と、額賀防衛大臣、守屋防衛事務次官の4人が東京・防衛省で会ったときのエピソード。守屋氏が「L字案には騒音の面でも航空機事故の危険性を回避できる面でも、問題はない。名護市がどうしてもと言うなら、建物の上空通過にならないよう配慮はする」と話すと、末松助役は「そんなの駄目だよ」「話になりませんよ」「それじゃ、交渉できませんよ」と言ったそうです。これを、額賀福志郎・防衛相が制して、「アメリカと今、調整中なので」として次回に修正案を見せると約束し、その際に合意書に署名してほしいと話しました。これに対して、名護市側が「それは合意書ではなく確認書にしてもらいたい」とし、「確認書でないと地元に説明できない」と述べました。そして、市長と助役は沖縄に帰ります。
[「普天間交渉秘録」から引用はじめ]
4月6日早朝、沖縄の佐藤那覇施設局長から連絡が入った。「昨日、東京から帰った市長や助役は辺野古3区(辺野古、豊原、久志)と市議に初めて説明をしました。でもそれが信じがたいものなんです」
佐藤局長の報告では、末松助役は地元にこう話しているという。
「政府はもうひと押しで浅瀬案に下りてくる。だからL字案反対で市長一任を貰いたい」
ようやく市議たちに説明をしたかと思ったら、今度はまったく出鱈目なことを地元には報告していた。
[引用おわり]
この報告を受けて、守屋さんは沖縄の実力者に電話して、多くの人に防衛庁がまとめることに困っている状況を知ってもらって、対応策を教えてもらったとしています。そして、北部振興策の対象となる自治体の首長の集まりである「北部首長会」の首長らに上京してもらうことを大臣に進言したと振り返っています。沖縄分断工作にも感じます。
[引用はじめ]
帰宅すると、家の前に記者が十数人、張り付いていた。私は何も答えずに家の中に入った。その後、沖縄の佐藤局長から電話があった。
「さきほど8時、知事公舎で名護市長が知事に会いました」。
先方も明日はそれなりの覚悟をしてくるなと、私は思った。
[引用おわり]
局長は、本省だけを見て仕事をしており、沖縄のことなどこれっぽっちも考えていない。首長の動静を調べて東京の事務次官に報告する。まさにスパイエージェンシーとしかいいようがありません。行きすぎた情報収集にとどまらず、工作活動の場面もあります。
[引用はじめ]
私は佐藤那覇施設局長に、北部首長会会長の宮城東村長に名護市への説得を依頼することと、「ここに来て新たな主張をするに至った背景を探るよう」、指示をした。
[引用おわり]
このように、守屋次官は、出先機関の佐藤局長に、北部振興策の対象となった自治体の首長を通じて、名護市長・副市長への説得を依頼するよう指示しています。
これではスパイ映画そのものです。そして、沖縄県が日本国の一部であるという意識がまったく感じられません。
なぜ、守屋次官は焦ったのか。それはおそらく、自身の事務次官在任中に歴史に名を刻みたい、と考えたのでしょう。時を前後して、外務省にも日朝国交樹立を成し遂げようとして無理をした外務審議官が批判を浴びました。だったら政治家になったらどうなんでしょう。定年や次官在任期間いうのは彼らの個人的な事情に過ぎません。「三千年、いや四千年生きたい。しかし人は死ぬ。しかし国は生き続ける」ーー吉田茂はそういう考え方だったから、歴史に名を残しました。
守屋さんは選挙で選ばれた稲嶺沖縄県知事に対して「軍民共用案が決まっていたのに、あなたは7年間、何もしなかたじゃないか」と詰問し、稲嶺さんから「守屋さん、沖縄では大きな仕事は20年かかるんですよ。石垣空港もそうだったでしょう。あの時だってそれだけ年月がかかっても誰も困らなかった。今回はまだ7年です。たいしたことじゃないですか」と言われて、「呆れるしかなかった」と振り返っています。これは守屋さんが自分が防衛官僚として事務次官を退任するまでに、歴史に残る仕事をしたいという野心があり、時間の感覚がずれています。 自民党幹事長の中川秀直さんからは「防衛庁の進め方は早すぎる、沖縄時間でもっとゆっくりやるように」、先輩官僚であり財務省から会計検査院に転じていた伏屋和彦さんから「あまり焦らない。忍耐力がいる」とアドバイスを受けたとしています。ちなみに、沖縄県では、国と地主の軍用地の賃貸契約が20年間。1972年に契約し、20年間が2回過ぎて、ことし2012年に契約更新の時期を迎えています。
[写真]辺野古崎沖の海を見る筆者(宮崎信行)。看板は二見以北10区の会が設置したもの。沖縄県名護市、1998年5月。
4年間という異例の長い期間、事務次官を務めた守屋さん。彼のお父さんは宮城県塩竃市長や衆院議員の経験者で、守屋さんは東北大学から日本通運を経て防衛庁に入った変わり種です。その防衛庁にあこがれた背景と思われる記述が「はじめに」にあります。守屋さんは収監中であり、このブログに反論することは難しい。だから、私もなるべく筆致を丸めたい。しかし、私がどうしても抜き書きしたいのは、「はしがき」の次の記述です。
[引用はじめ]
(前略)仙台と石巻を結ぶ仙石線は、青のビロードが張られた座椅子の米軍専用車両と、板張りの座椅子の日本人専用車両とに分けられた。日本人女性が米兵に寄り添い米軍専用車両に乗っていたから、私は不思議に思い母にその理由を尋ね、母に叱られた思い出がある。
防衛庁に入って5年目の1975年3月、初めて沖縄を訪れた際、胸の奥にあった占領期の記憶が甦った。(略)
特に沖縄の基地問題を考える時、少年時代に見続けた占領下の光景がまざまざと立ち現れた。そのことを最初に記しておきたい。(後略)
[引用おわり]
仙石線は仙台と石巻がつながっていない状態は当分続きます。20年はかからないかもしれません。彼の故郷の駅は営業運転中ですが、仙台と石巻がつながらないインフラとなった「仙石線」。収監中に東日本大震災にあい、故郷の姿に何思う、守屋武昌受刑者。それは守屋さんの心の問題ではありません。我が国では、往々にして、組織が人を殺します。那覇防衛施設局は1972年5月15日、沖縄本土復帰のその日にできた組織です。沖縄のためでなく、市ヶ谷・六本木の防衛省・防衛庁の出先機関として、沖縄を監視してきたスパイエージェンー。国から県庁への環境アセスの提出に民間人を使う沖縄防衛局ですが、陸軍省は民間人を戦闘員にしたのですから、あまり驚きません。そういう沖縄の心の原点がまったく分かっていない防衛官僚。沖縄はこの40年間、本当に「日本国」だったのでしょうか。
野田佳彦総理は、ことし5月15日、沖縄の本土復帰40周年記念式典に出席します。時折しも、野田・岡田行革は、出先機関の大胆な統廃合を進めています。総理には、沖縄防衛局を廃止し、県庁、市役所や外務省に移管して欲しい、と私は考えます。
グローバリゼーションの相克としてローカリゼーションも進みます。宜野湾市も名護市も塩竃市も日本国であり、自治体です。「沖縄では大きな仕事は20年かかる」ーーならば2012年は「大きな仕事」のスタートにふさわしい年です。沖縄ではしっかりと見守る人がいますから、時間がかかっても何も問題ないでしょう。彼らは「沖縄の心を傷つけた」んじゃないんですよ、「沖縄の心の原点を知らない」のです。1945年4月1日の米軍の沖縄上陸に前後してどの場所で何があったか。その沖縄の心の原点を知る人を大事にしなければ、同じことを繰り返すばかりです。それがあまりにも分かっていない。いまこそ失敗の本質を断ち切るべき40年目の春です。
[お知らせ①]
「国会傍聴取材支援基金」を設けました。
アクセス数を稼ぐためにいたずらに煽ったり、しがらみの少ない本音の国会傍聴記をブログで今度とも伝えいきたいと考えています。
詳細は、次のリンク先でお読みいただけます。
「国会傍聴取材支援基金」の創設とご協力のお願い
どうぞご協力ください。
[お知らせ②]
会員制ブログを設けております。
今後の政治日程 by 下町の太陽・宮崎信行
月840円(税込み)となります。最初の1ヶ月は無料で試し読みできます。「レジまぐ」のシステムで提供しています。
クレジット払いのほか、「ポイント」を購入して、そのポイントを充ててお読みいただけます。
[お知らせおわり]