伊藤英成さんが亡くなったとの報道が入りました。
1998年の民主党としては初代政調会長、それに先立つ新党友愛の幹事長、民社党の政策審議会長をつとめた、伊藤英成・衆議院議員が、きょう、令和3年2021年1月19日亡くなったそうです。享年79。あす豊田市で葬儀を行いますが、近親者のみとのこと。トヨタ自動車入社後、1983年、現職急逝に伴い、豊田社長と労組委員長の共同の要請で立候補し、初当選。連続6期すべて圧勝。働くなかまが定年を超えたとして2003年にあっさり引退しました。
私・宮崎信行は、1998年3月、弱冠24歳の若き日の青春時代、衆議院第5控室にカバンを置くと、25控室に顔を出し、伊藤英成幹事長の番記者を、中野寛成代表の番記者とともに担当。会社員として初めてメーン担当を一人で任されました。
議員会館詰めの秘書全員、全員衆議院本館詰めの党職員にもよくしてもらい、麹町にある「社宅」にもたびたびうかがいました。初対面で「期待してるよ」と社交辞令。しばらくして気に入れると、「アクセルふかすよ。しっかりついておいでよ。今、連合の鷲尾会長からケータイに電話があった。きょうは豊田章一郎経団連会長と会ってきた。あすは、創価学会の秋谷会長に会う。一人で行こうと思ったけど、代表が連れて行って、というので、代表と2人で行く。政界広しといえども、連合、経団連、創価学会の会長に会えるのは僕だけなんだよ、自民党にすらいないんだよ、僕だけなんだ」とのことでした。
その後、仲間内では、1998年民主党で菅直人さんに代表を譲って幹事長代理につく鳩山由紀夫さんともう1人の幹事長代理に名前が挙がりました。仲間の先輩も「えいせいは、トヨタという超大組織一つで当選してきているから、いろいろな組織との調整を経験した方がいいのではないか」と諭されましたが、NHK日曜討論に出たいということで、政調会長となりました。
政調会は、伊藤英成会長、岡田克也会長代理、枝野幸男筆頭副会長の三役で発足。私は継続で、政調会長番となりました。私はいろいろと運が良いのですが、それから23年間という化石のように長い時間が経った現在も岡田常任顧問と枝野代表にはお世話になっています。
政治記者の武勇伝として有名な「記者会見の原稿を、記者会見より前に書く」ということをしましたが、実際の伊藤幹事長記者会見に臨むと、我ながらまるっきりの的外れ。勉強になりました。
今、過去の取材メモを探し当てました。1998年8月20日。「英」ブリーフィングと表題を書きながら、「英」を二重線で消し「枝」ブリーフィングと書き直しています。故人に対して二重線とはまことに失礼、汗顔のいたりですが、時間に追われる新聞記者ゆえお許しいただきたい。
ただ、「英」3党協議報告、とあるので、枝野筆頭副会長がブリーフィングし、もちろん、会合ではまず、伊藤会長の報告がありました、とていねいにブリーフしてくれたようです。
[写真]「8/20 英ブリーフ」と書きながら「英」に二重線を引き「枝」と書き直した、無礼極まりない筆者の取材メモ、右下は「岡田」の文字=1998年8月20日=、きょう2021年1月19日撮影。
画像の一番下になりますが、「沖縄問題は防衛部会で基地検討しているが振興策を含めて包括的にやった方がいい」との岡田克也・政調会長代理の会議での発言も書き留めています。
ちなみに自分ではほとんど書いたことがありませんが、私が日経新聞政治部に在籍していた時間はどのくらいあるか、というと実は、1年4か月強に過ぎません。初めて書いたかもしれません。転勤前日、英成・政調会長から「さびしくなるね」との社交辞令をいただいてから、実はいちどもお会いしたことはありません。
渥美半島出身→名古屋大学→トヨタ自動車→衆議院議員→トヨタ車体監査役という栄光過ぎる人生。もちろん政治家に必要な「ブレーキ、エンジンブレーキ」はなくアクセスをふかしつづけるトヨタ社員人生でしたが、多くのことを学ばせてもらいました。新党友愛のような小さい組織にも派閥があるときづいたことも含めて。
喪主が甥ごさんのようですから、「麹町の社宅」にお住まいでクッキー、ティーなどを出してくださった奥様にも、ありがとうございました、と遅ればせながら申し上げます。
これから、岡田代理、枝野元筆頭副会長が調子に乗っていたら、私がそっと英成会長に向かって告げ口をします、というのはさすがに冗談が行き過ぎています、ね。悲嘆に暮れている方もいらっしゃるでしょう、近親者、トヨタ労組、全トヨタ労連、愛知11区内支持者、豊田市の方々、渥美半島の方々、名大のみなさまにお悔やみ申し上げます。
心より哀悼の意を表しますとともに、私からはご冥福をお祈りいたします。
このエントリーの本文記事は以上です。
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1998年の民主党としては初代政調会長、それに先立つ新党友愛の幹事長、民社党の政策審議会長をつとめた、伊藤英成・衆議院議員が、きょう、令和3年2021年1月19日亡くなったそうです。享年79。あす豊田市で葬儀を行いますが、近親者のみとのこと。トヨタ自動車入社後、1983年、現職急逝に伴い、豊田社長と労組委員長の共同の要請で立候補し、初当選。連続6期すべて圧勝。働くなかまが定年を超えたとして2003年にあっさり引退しました。
私・宮崎信行は、1998年3月、弱冠24歳の若き日の青春時代、衆議院第5控室にカバンを置くと、25控室に顔を出し、伊藤英成幹事長の番記者を、中野寛成代表の番記者とともに担当。会社員として初めてメーン担当を一人で任されました。
議員会館詰めの秘書全員、全員衆議院本館詰めの党職員にもよくしてもらい、麹町にある「社宅」にもたびたびうかがいました。初対面で「期待してるよ」と社交辞令。しばらくして気に入れると、「アクセルふかすよ。しっかりついておいでよ。今、連合の鷲尾会長からケータイに電話があった。きょうは豊田章一郎経団連会長と会ってきた。あすは、創価学会の秋谷会長に会う。一人で行こうと思ったけど、代表が連れて行って、というので、代表と2人で行く。政界広しといえども、連合、経団連、創価学会の会長に会えるのは僕だけなんだよ、自民党にすらいないんだよ、僕だけなんだ」とのことでした。
その後、仲間内では、1998年民主党で菅直人さんに代表を譲って幹事長代理につく鳩山由紀夫さんともう1人の幹事長代理に名前が挙がりました。仲間の先輩も「えいせいは、トヨタという超大組織一つで当選してきているから、いろいろな組織との調整を経験した方がいいのではないか」と諭されましたが、NHK日曜討論に出たいということで、政調会長となりました。
政調会は、伊藤英成会長、岡田克也会長代理、枝野幸男筆頭副会長の三役で発足。私は継続で、政調会長番となりました。私はいろいろと運が良いのですが、それから23年間という化石のように長い時間が経った現在も岡田常任顧問と枝野代表にはお世話になっています。
政治記者の武勇伝として有名な「記者会見の原稿を、記者会見より前に書く」ということをしましたが、実際の伊藤幹事長記者会見に臨むと、我ながらまるっきりの的外れ。勉強になりました。
今、過去の取材メモを探し当てました。1998年8月20日。「英」ブリーフィングと表題を書きながら、「英」を二重線で消し「枝」ブリーフィングと書き直しています。故人に対して二重線とはまことに失礼、汗顔のいたりですが、時間に追われる新聞記者ゆえお許しいただきたい。
ただ、「英」3党協議報告、とあるので、枝野筆頭副会長がブリーフィングし、もちろん、会合ではまず、伊藤会長の報告がありました、とていねいにブリーフしてくれたようです。
[写真]「8/20 英ブリーフ」と書きながら「英」に二重線を引き「枝」と書き直した、無礼極まりない筆者の取材メモ、右下は「岡田」の文字=1998年8月20日=、きょう2021年1月19日撮影。
画像の一番下になりますが、「沖縄問題は防衛部会で基地検討しているが振興策を含めて包括的にやった方がいい」との岡田克也・政調会長代理の会議での発言も書き留めています。
ちなみに自分ではほとんど書いたことがありませんが、私が日経新聞政治部に在籍していた時間はどのくらいあるか、というと実は、1年4か月強に過ぎません。初めて書いたかもしれません。転勤前日、英成・政調会長から「さびしくなるね」との社交辞令をいただいてから、実はいちどもお会いしたことはありません。
渥美半島出身→名古屋大学→トヨタ自動車→衆議院議員→トヨタ車体監査役という栄光過ぎる人生。もちろん政治家に必要な「ブレーキ、エンジンブレーキ」はなくアクセスをふかしつづけるトヨタ社員人生でしたが、多くのことを学ばせてもらいました。新党友愛のような小さい組織にも派閥があるときづいたことも含めて。
喪主が甥ごさんのようですから、「麹町の社宅」にお住まいでクッキー、ティーなどを出してくださった奥様にも、ありがとうございました、と遅ればせながら申し上げます。
これから、岡田代理、枝野元筆頭副会長が調子に乗っていたら、私がそっと英成会長に向かって告げ口をします、というのはさすがに冗談が行き過ぎています、ね。悲嘆に暮れている方もいらっしゃるでしょう、近親者、トヨタ労組、全トヨタ労連、愛知11区内支持者、豊田市の方々、渥美半島の方々、名大のみなさまにお悔やみ申し上げます。
心より哀悼の意を表しますとともに、私からはご冥福をお祈りいたします。
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Ⓒ2021年、宮崎信行 Miyazaki Nobuyuki、宮崎機械株式会社。
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