9時に「向陽橋」の袂から行動を開始してから2時間が経過しました。
難しいところもありますが、概ね順調に進んでいます。
天気も思ったほど酷くなく、怖れていた風も灌木地帯ではそれほどでありません。
今日は距離的には比較的短い方なので、あせらずスノーシュートレッキングを楽しんでいます。
写真は今日の石狩川です。
滝川市内を過ぎるとバスは貸し切り状態。
乗客は私だけ。申し訳ない気持ちです。
写真は私一人だけ乗せた車内を写しました。
滝川バスターミナルで「向陽橋」行きのバスを待っています。
現在、天気は曇り、雪は降っていません。しかし、いつ降ってくるかわからないほどどんよりと曇っています。
実は今回スノーシュートレッキングでははじめての新兵器(?)を持参しています。
新兵器とはいっても、それほどのものではないのですが、スキー用のゴーグルを持参したのです。
前々回のときに猛烈な雪に見舞われ、「ゴーグルがあったら」と思ったものですから、もしものために持参しました。
今日はあまり気温が上がらないという予想です。とすると、低温下で手袋を外すのは大変です。
ライブレポの更新が少なくなりそうです。
おはようございます。「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトの第18弾です。
札幌駅6時35分発のL特急スーパーカムイで滝川に向かっています。このプロジェクトでははじめての特急利用です。
というのも、滝川からのバス接続のためにはこの便しかなかったからです。このプロジェクトには鈍行が似合っているのです。
今日は滝川からバスで、前回の終着地の「向陽橋」に向かい、「向陽橋」から深川市の中心に架かる「 深川橋」までの予定です。
天気はあまり良くはありませんが、現地はスノーシュートレッキングが出来ないほど酷くはないようなので決行を決めました。
今日から3日間、今回の最終目的地である深川市の外れの「神納橋」まで頑張りたいと思っています。
1月20日(金)午前、本郷新記念札幌彫刻美術館(中央区宮の森4の12)の本館前庭において「さっぽろ雪像彫刻展2017」が開催されると聞いて訪れることにした。
彫刻美術館は我が家からかなり離れているうえ、上り坂が続く道である。車を使用しようと思ったが、彫刻美術館の周辺は除雪が十分でなく、駐車スペースも限られているのではと思い、運動も兼ねて歩いて向かうことにした。
片道約4キロの雪道・坂道はけっこうな負荷がかかる運動でした。ハイ。背中に汗を感じながらのウォーキングとなったのであります。
苦労して辿り着いた雪像展が意外に小規模なことに内心少々驚いた。考えてみれば、彫刻美術館の前庭といっても小さな庭である。しようがないといえば、しようがないのだ。
前庭には人の背丈位の雪像が9基並んでいた。雪像の横に立てられた小さなプレートを見ると、作品名と作者が書かれていた。
新聞報道によると、それぞれが木や金属、ガラスなどを素材にした作家7人と北海道芸術デザイン専門学校と札幌平岸高校(デザイン科?)の方たちが制作した雪像だということだった。
一つひとつの作品は、「さっぽろ雪まつり」の市民雪像に比べるとはるかに繊細で優れたものが多く感じられた。(素人と比べるな!と怒られそうですね)
しかし、例年開催されている「国際雪像コンクール」の作品と比べてみるとどうだろう?
私には国際コンクールの作品の方が、大胆かつ繊細さにおいて軍配が上がるように思えたのだが、どうだろうか? まあ、制作期間とか、予算のことなど、いろいろな要素があるから単純には比べられないことではあるが…。
※ 札幌彫刻美術館の前庭です。既存の彫刻と雪像が並んで展示されていました。
会場には、二組の母子がいて雪像の周りで戯れていたが、会場全体も静かな雰囲気だった。
美術館が主催するイベントだから、それほどの盛り上がりは期待してはいないのだろうけど、はたしてどれだけの人たちが「さっぽろ雪像彫刻展2017」を訪れて楽しむのだろうか?
さて、それでは展示されていた雪像を羅列します。
※ 「AURORA」と題した清水宏晃さんの作品です。
※ 「風の通り道」と題した佐々木仁美さんの作品です。
※ 「砦」と題した札幌平岸高等学校の作品です。
※ 「expand universe」と題した北海道芸術デザイン専門学校の作品です。
※ こちらも北海道芸術デザイン専門学校の作品で「不純」という題が付けられていました。
※ 「ゆきのね」と題したさとうゆうきさんの作品です。
※ こちらは「こども・あーと・にしくワークショップ作品」で「ペンギン村をつくろう!」というプレートが立っていました。
※ 明日から三日間、久しぶりに「冬の石狩川河岸を遡る」のプロジェクトに出かける予定です。また、ライブレポを発信したいと思っています。時々覗いていただければ幸いです。
1月19日(木)夜、時計台ホールにおいて、札幌大学が主催する「札幌大学時計台フォーラム」が開催され参加した。
フォーラムは、同大学の三須拓也教授が「世界情勢を読み解く」と題して講演された。
※ 時計台ホールの暗い照明の中で講義する三須拓也教授です。
三須氏は、「覇権」について、イタリアの哲学者アントニオ・グラシムの言葉を借りて次のように定義した。「特定の人、集団が長期にわたって不動の地位、権力を維持する事態」だという。
それに倣って、地球規模における歴代の覇権国を振り返ってみると、16世紀にはスペイン・ポルトガルが、17世紀はオランダが、18~19世紀はイギリスが、そして20世紀に入ってアメリカ合衆国が覇権国の座に就いていたと整理した。この点については、誰もが納得する整理である。
現代の覇権国とされるアメリカが1970年代に入ってから衰退する趨勢になってきたということについても異論はない。つまり、それはアメリカのベトナム戦争での敗退であり、湾岸戦争、イラク戦争の戦費の浪費、9.11におけるアメリカ中枢部への攻撃等々、世界に冠たるアメリカの権威は音を立てて崩れ始めている。
※ 三須教授の近影です。
こうした中で、アメリカが目論んでいるのは、アメリカに余力があるうちに覇権の「再編」を行おうとしていることだという。
三須氏によると、アメリカにとって20~21世紀の間に軍需産業が肥大化し、もはや軍需産業抜きにアメリカの経済は語れないほどの存在になっているそうだ、その上、アメリカ国内の軍事基地は各州に置かれていて、国内の軍事費削減は政治的に困難な状況にあるという。
そうした中で、アメリカが目論んでいるのは、軍需産業の産出する兵器を「同盟国」に買わせることによって、軍需産業を潤わせつつ、アメリカ自身の軍事費削減を目論んでいるということだ。(日本の国防費がこのところ増大している要因だという)
このような状況の中で登場したのが、アメリカの新大統領トランプである。
三須氏は今年2017年のニュースのポイントは、アメリカの覇権の衰退がさらに進むのか、あるにはアメリカによる再編成の目論見が世界にどう影響するのか見守りたいとした。
三須氏によると、トランプによる覇権の「再編」の目論見は、あるいは「自滅的再編」を招くのではないか、と予想した。
わずか1時間の講義で複雑極まりない「世界情勢を読み解く」ことなど到底無理な話である。本講義においても、密かに世界の覇権を握ろうとする意欲を隠さない中国のことなどについては全く触れられなかった。
なんだかちょっと中途半端な形で終わってしまった感じだが、もう少し三須氏の話を聴きたいと思った。
1月17日(火)午後、「かでる講座 特別医療講演」として「医療法人 北腎会 坂泌尿器科病院」理事長・院長の坂丈敏氏が講演するのを聴いた。演題は「泌尿器の病気治療最前線~高いQOL(生活の質)を目指して~」と題しての話だった。
※ 講演をされた坂丈敏理事長&院長です。
坂氏のお話は、①過活動膀胱、②前立腺肥大症、③尿路結石症、④前立腺がん、の特に高齢者が陥りがちな四つの症状とその検査法、治療方法についての話だった。
過活動膀胱は、特に女性多い病気だという。突然トイレに行きたくなったり、我慢できずに漏れてしまったりする症状だそうだ。体操によって症状が改善されることもあるが、他の病気が隠れている場合もあり、専門医の診察をお勧めするということだった。
前立腺肥大症は男性独特の病気である。症状としては、おしっこが出にくくなったり、おしっこの回数が増えてくることが特徴である。特に就寝中に2度目覚めてトイレに行くようなら要注意とのこと。おおっ!心当たり有りや無しや??。
治療方法としては、薬物療法と手術療法があるが、内視鏡とレーザーを用いたHoLEPという手術が有効とのことだった。
※ 北腎会では写真のような広報誌を季刊として発行しています。
尿路結石症は腰や背中に激痛が走り、血尿が出る怖い病気である。原因はさまざまだそうだが、何より速やかに痛みを取ることが重要だという。そりゃそうだ!人間は痛みに弱いからねぇ。私など特に…。
結石の除去にはいろいろな方法があるという。薬物による自然排石、体外衝撃波砕石術(一時この方法が話題となった)、経尿道的結石砕石術(TUL)、経皮的腎・尿管砕石術(PNL) 、そして最後に開腹手術があるという。
最近は開腹手術はほとんど行わないそうで、内視鏡を用いたTULとか、PNLが主流とのこと。
最後に前立腺がんだが、リード文でも紹介したとおり、近年もっとも増加しているがんの一つで、50歳から急速に増加している傾向があるという。前立腺がんは早期に発見し、適切な治療を行えば治るがんであることが強調された。その早期発見のためにPSA検査を年に1回は受けることを勧められた。
治療方法としては、内分泌療法、手術療法、放射線療法(IMRT)があるということだが、最新機器としてのIMRTについていろいろと説明された。坂病院は最新機器を導入しているということだった。
※坂病院では前立腺がんの治療に使用している定位放射線治療装置ノバリスという機器です。
特別医療講演ということで、当初予定になかった講演が坂氏のご厚意で実現したとのことだった。私たち高齢者にとっては怖~い、しかし参考になることが多々あった講演会だった。
映画は1936(昭和11)年2月26日に起こった日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官 兵を率いて引き起こしたクーデター未遂事件をベースとした映画である。しかし主たるテーマは、時代に翻弄された青年将校とその妻の愛と生きざまを綴った叙事詩の様相を呈した映画だった。
1月16日(月)午後に行われた「めだかの学校」の新年最初の「映画の中の北海道・昭和編」で取り上げられたのは1980(昭和55)年に公開された「動乱」だった。
映画は第一部「海峡を渡る愛」と第二部「雪降り止まず」の二部構成となっている。
第一部で仙台連隊の宮城大尉(高倉健)は、部下思いの上官だった。
ある夜、宮城の隊の初年兵・溝口(永島敏行)が脱走する。溝口は姉・薫(吉永小百合)が千円で芸者に売られるのを知って、死刑覚悟で姉会いたさに脱走したのだった。
宮城は何とか溝口を助けようとするが、溝口は捜索隊の上官を殺してしまい、銃殺刑に処されてしまった。宮城は父・広介に用立ててもらった千円を香典として薫に渡した。
宮城は脱走兵を出した責を問われ、朝鮮の会寧地方に飛ばされた。当時、朝鮮は日本の領土で、戦いの最前線だった。宮城はそこで、芸者になった薫と再会する。溝口の死後、薫の父も亡くなり、借金を返しきらないまま芸者になっていた。
最前線では、軍事物資が相手方の朝鮮ゲリラに横流しされ、一部の将校が私腹を肥やしていた。戦場には薬も弾も食料も届かず、宮城は焦っていた。そんなとき薫が自殺を図ったが、宮城は薫を救った。
第二部で、宮城は日本に戻り、薫と同居するようになった。(夫婦関係はない)宮城の元には多くの青年将校が集まり、国家の改革について熱く語り合う。青年将校の中には、「時来たる」という者もいれば、「時期尚早」という者もいた。
宮城は皇道派の恩師・神崎の元を訪れる。宮城は「やるべきときが来た、国軍を腐敗させた原因は統制派だ、水沼閣下(軍務局長)は自分が切る」と決意。しかし、神崎は「水沼は自分が切る、宮城は青年将校をひとつにまとめることに成就してくれ」と言う。そして数日後、神崎が単身陸軍省に赴き水沼の暗殺を果たす。
その後、宮城は神崎の軍務局長暗殺に関わっているとして憲兵に呼び出され、毒を盛られ昏睡状態に陥る。しかし、薫の手厚い看護で何とか一命を取り留める。
一連の軍務局長暗殺事件を受け、青年将校たちの昭和維新への機運は一気に高まり、決起を決めた。決行が決まると、宮城は実家に帰り父に薫のことを頼むと言い残し、その後初めて薫を抱く。
昭和11年2月26日、決起した約1,500人の青年将校らは陸相官邸、警視庁、蔵相、内大臣私邸、首相官邸などを襲撃した。
これら皇道派は「天皇のために」と立ち上がったのだが、天皇はこの行動に対して激怒し、宮城らは「反乱軍」のレッテルが貼られ、逮捕されて軍法会議かけられる。
審議は全て非公開で一審即決で宮城以下15人は反乱罪により死刑の判決が下る。
判決後、薫が宮城の面会に訪れる。そこで薫は、先日正式に宮城と籍を入れたという。
そして7月12日、死刑が執行された。
第一部、第二部合わせて150分の大作である。
混乱を極める昭和初期にあって、軍の青年将校たちの指導的立場にいた宮城は時代の波に翻弄されながらも、寡黙に、無骨に、妻との愛を大切にしながらも運命に身を委ねたのだった。
映画の最後に写真のようなテロップが流れる。
その後の日本の行く末を考えると、いわゆる226事件は日本における大きな曲がり角に起こった事件だったことがよく分かる…。
1月15日(日)、午前中に映画「みんなの学校」を視聴した後、午後にその「みんなの学校」の舞台となった大阪市立大空小学校で開校以来9年間にわたって校長を務められた木村泰子初代校長のお話を伺った。
※ 札幌市民ホールで講演する木村泰子大空小学校初代校長です。
木村氏のお話を理解するうえで、氏の略歴を紹介する必要がある。
氏は40年前に大阪市の短大体育科を卒業され、大阪市の小学校の教員として採用されたそうだ。氏の話によると、氏が40歳くらいのときに体験されたことが、その後の氏の教育理念(信念)の形成に大きな影響を及ぼしたという。(後述する)
その後、木村氏は若干(?)50歳にして住吉区の児童数1,100人余りという南住吉小学校という大きな小学校の校長に赴任するのだが、その1年後にそこから分離新設された大空小学校の初代校長に赴任され、以後定年退職(平成28年3月)までの9年間を大空小学校校長として勤められたということだ。
以上が、木村氏が語った氏の略歴である。
※ 若々しさが際立つ木村校長すです。右の女性は木村校長に私淑する女性のようです。
さて、木村氏が氏の教育理念(信念)の形成に大きな影響を及ぼした体験とは…。
ある小学校において、次年度の新入生の中に大変な指導困難児がいるということで、学校では障害児学級への入級を勧めるが、親は普通学級に学ぶことを望んだために、混乱したうえ、誰もが一年生の担任を受け持つことを渋ったという。
その時、氏は率先して手を挙げ、転任してきた2人の先生と3人で一年生の担任になったそうだ。その際の条件として、「1年生の教室として体育館を使わせてほしい」と要望したという。(このあたりがユニークである)そして、1年生3クラスは毎日合同で授業を展開したという。それは1人の先生が得意科目を受け持ち、他の二人はサポートに回り全体の子どもを支援したそうだ。(ちなみに木村氏は体育と音楽を受け持ったという)
その年の秋の学芸会において、担任した一年生が13曲もの歌を織り込んだミュージカルを全員で演じ、大成功を収めたことで、木村氏は障害をもった子も、そうでない子も周りとの関係性の中で育つことを実感したことから、「障害を理由に子どもを分断しようとする教育を見直したい」と思うようになったという。
木村氏が初代校長となった大空小学校の地域では、20年以上も前から南住吉小のマンモス校解消のために分離新設が検討されていたという。しかし、その地区の一部に地区を抱えていたために、周辺町内会からの猛反発を受け開校できないという事態に陥っていた。木村氏が赴任した時には南住吉小の5・6年生が現大空小学校の校舎で授業するという歪な学校の状況が続いていたそうだ。
ここからの経緯について木村氏は詳しくは語らなかったが、私が想像するには次のようなことだったのではないだろうか?
40歳の時の体験と同じで「誰もやらないのなら、自分がやってやろう」と…。児童数1,100余名を抱える大校長から、児童数わずか200余名の新設校の校長に木村氏自ら手を挙げたのだと想像できる。
その時、木村氏は「理想の学校を創ろう!」という意気に燃えて大空小学校の創設に関わったものと想像される。
その理想の学校とは、「すべての子どもの学習権を保障する学校をつくる」という理念(信念)だった。
その後の展開は映画で詳しく紹介されているので割愛する。
講演の最後に木村氏は「特別支援学校を否定するわけではない」と強調された。だが「しかし」と断り「公立学校は子どもの学習権を保障する場でなければならない」そして「公立学校は地域住民のものでなければいけない」と強調された。
私はこの一連のレポの中で「大空小は特別な学校」というような記述をした。その思いは今も変わってはいない。
残念ながらというか、現実として、木村泰子氏のような強い信念と、リーダーシップを兼ね備え実践していこうとする人は私を含めて多くの人が持ち合わせていないということも事実である。
ただ、多くの教師たちは自らの力量の限界を自覚しつつも、自らの良心に従い懸命に努力している人が多いことを、子どもを預ける親は認識してほしいと願いたい。
そして一方的に他に頼ったり、批判するのではなく、教師として、親として、共に成長していこうとする姿こそ、この映画が訴えていることではないか、と思ったのだが…。
昨日の中途半端な投稿を補いたい。映画「みんなの学校」として紹介された大阪市立大空小学校は、ある意味において公立の小学校としては理想の小学校のように映る。しかし、それはまた特別な小学校ではないか、という思いも私の中からは拭いきれなかった…。
このようにリード文で書き出すと、一部の方からは総スカンをくいそうだが、臆せず私の思いを語ってみたい。
大空小学校のことを如述に表現する一文に出会った。その一文とは、
この学校の性格をそのまま形づくっている女性校長の人柄だ。母のごとき人心掌握術、船長のごとき経験則。
外見も若く素敵な木村泰子校長は、教師歴40年以上というから目を疑うが、厚い人望と漲る自信と優しさはそれをたやすく裏付ける。担任たちの誰よりも生徒一人ひとりと話し、全校生徒からもっとも信頼されているのだ。
※ 新設の大空小学校を9年間にわたって引っ張り続けた初代校長の木村泰子氏です。
この一文からも想像できると思うが、大空小学校は初代校長である木村泰子校長の確固とした教育理念と、それを実現しようとする強力なリーダシップによって実現した学校であるということがドキュメンタリー映画の中からも伝わってくる。
その大空小学校を「特別な小学校ではないか」と私が疑問を呈したのは、公立小学校において一人の校長が9年も続けて同一校の校長を務めることなどは普通にはあり得ないことである。
このことは木村泰子校長の熱意、実践、etc.が大阪市教育委員会をも動かし、例外を認めたということだろう。
大空小学校は全校児童が220人、そのうち特別な支援を必要とする子が30人以上在籍するという。「自分がされていやなことは人にしない」というたった一つの校則と、「すべての子どもの学習権を保障する」という教育理念のもと、特別支援を必要とする子もない子もすべての子どもが、ともに同じ教室で学んでいる。
そんな教室では、当然のようにさまざまな問題が生起する。しかし、そうした問題が生起する度に木村校長が先頭に立って、問題に向き合い、担任をはじめ教職員を叱咤激励し、問題を起こした子と教室の子どもたちを向き合わせ、解決に導いていく。
こうした取り組みにより、不登校児はゼロ。他の小学校で、厄介者扱いされた子どもも、この学校の学びのなかで、自分の居場所を見つけ、いきいきと成長してゆく。また、まわりの子どもたちも、そのような子どもたちとのかかわりを通して、大きな成長を遂げている。
※ 校長自ら全校児童の体操を指導をしている様子です。
映画を観ているかぎり、まさに「理想の学校」、「奇跡の学校」である。
しかし、当の木村校長や大空小の教職員に言わせると、「そんなきれいごとではすまされない」、「日々真剣に向き合った結果である」というような答えが返ってきそうだ。
確かに木村泰子校長の強力なリーダーシップによって実現できた側面は強いが、その中で教職員が変わり、地域が変わり、何より子どもが変わっていく姿を画面に認めたとき、私の涙腺が緩むのを禁じえなかった。
それは「このような学校を創ってみたかった…」という思いと共に…。
※ 大空小学校の全景です。
明日は、その木村泰子大空小学校初代校長から伺った講演をレポしつつ、私の思いも語ってみたい。