時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

トマトが引き出す記憶

2008年07月29日 | 雑記帳の欄外

  トマトとじりじりと焼けるような夏の太陽は、記憶の中では切り離せない気がしてきた。フロリダのトマト摘み労働者の記事を書いていると、思いがけないことが脳裏に浮かんできた。これまでに食べたトマトの味や香りがすこしずつよみがえってきたような気がする。

  子供の頃はトマトはあまり好きではなかった。果物のように魅力的に輝いた赤さを裏切るような、あの青臭い香りが遠ざけさせた。昔はトマトが嫌いだったという大人はかなりいるようだ。ところが、最近はあの青臭さかったトマトを懐かしがる人もいる。大人といっても、50代以上か。

  戦後しばらく、トマトと胡瓜は、野菜の中で苦手の最たるものだった。双方とも青臭かった。食糧難の時代、野菜はこればかり?かなり食べさせられた反発もあったようだ。不思議と、同様に沢山食べたはずの南瓜、茄子、根菜の類はさほど抵抗感がない。これはきっとかなり個人差がある問題だろう。

  気づいてみたら、いつの間にかトマト嫌いではなくなっていた。胡瓜も今は好んで食べている。どこで変わったのか、あまり記憶が鮮明ではない。トマトについて、少し振り返ってみると、どうも「ケチャップの洗礼」を受けたあたりから変わってきたようだ。あのデルモンテやハインツ、そしてカゴメのせいか? 

  戦後日本にまだハンバーガー・チェーンが出店していない頃、アメリカで食べたマクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンは、別世界の食べ物のようだった。週末晴れた日など、仲間と出かけたピクニックには、フライド・チキンのボックスがしばしば付きものだった。そして付け合わせのフライド・ポテト、どれにも真っ赤なトマト・ケチャップがかけられた。

  ケチャップには青臭さがなく適度に甘からく、かなり好きになった。これも、アメリカの味なのだと思った。しかし、今はバーガー、フライドチキン、どれも敬して遠ざけている。

  遠い異国の地?から来たのだからと家族のように受け入れてくれた友人の家では、トマトはあまり食卓に登場した記憶がない。それよりも衝撃的だったのは、いつも夕食後デザートに出してくれたハーゲンダッツなどのアイスクリームの山、日本の数倍はあった。喜んで平らげたのは最初の1週間くらいか。翌週からはどうやって量を極小にしてもらうか、苦労が始まった。当時、アメリカ人女性が「ダイエット中よ」というと、デザートのアイスクリームをスキップすることも知った。

  帰国後、しばらくお仕えした経済学の泰斗N先生が、戦後日本に入ってきたマクドナルトの話になると、「ああ!ファーストフードね」といわれて、苦笑され、複雑な顔をされていたのを思い出す。地下鉄は品の悪い乗り物と敬遠したというシュンペーター教授のご友人だから、むべなるかな。アメリカ経済学全盛の時代。経済学に席巻されるのはともかく、あれは一寸という感じで少し愉快だった。N先生がマクドナルドのハンバーガーを試食されたか、うっかり聞き損ねた。

  アメリカ生活でのトマトにはさらに思い出がある。しばらくアパートをシェアしたC君は、イタリア移民の息子だった。ニューヨーク州北部のエンディコットに両親が住んでいて、長い休みになると孤独な留学生を一緒に家へ招いてくれた。決して豊かな家ではなかったが、純朴なマンマ・ミーアが朝からトマトを鍋一杯に煮ていて歓迎してくれた。パスタのソース作りも半日がかりなのだ。使うトマトは、もちろん調理用のイタリアン・トマトだ。ドライ・トマトも沢山食べた。太陽のエッセンスのような感じがした。アパートで食事当番をシェアした時も、C君からケチャップなんて買うなよと言われた。イタリア人は母系社会なのを思い知らされた。
  
  休み明けにアパートへ帰る時には、袋一杯のサラミやバニーニを持たせてくれた。幸せな時代だった。トマト・アレルギー?はすっかり消えていた。パスタのソースを作るために、果肉の少ないイタリアン・トマトを、C君がアパートで朝からぐつぐつと煮ていた時代を思い出す。瓶詰めや缶詰のパスタソースなど論外だった。イリノイ大学機械工学の教授となったが、一寸音信不通、どうしているだろう。

  その後、仕事で長滞在したフランスは、さすがに野菜類も自然の味があった。トマト・サラダが好きになったのは、この国のおかげだ。ただ、切って並べ、オリーブ油をかけただけで、十分美味しい。一時期、昼にはサラダ・ニソワーズばかり食べていた時もあった。

  その後、トマトがまた苦手になってくる。イギリスで暮らした時、TESCOやセインズベリーで買うトマトは、色は完熟のように赤いのだが、とにかく皮が固い。ナイフでかなり力を入れないと切れない。そして、味もいまひとつだ。また敬遠気味になった。少し価格は高めのオランダやスペイン産のトマトはまずまずの味なのだが。親しいイギリス人の友人に聞くと、イギリス人は食べ物にあまり関心を持たないからなあとの答だ。トマトは皮を剥き、ほうれん草は原型がなくなるまで煮て食べていた。

  トマトのイメージは次々と拡大して、とめどなくなりそうだ。日本のトマトについて一言。ずいぶん品種改良がなされて、大変食べやすくなった。外観も見目麗しく芸術品のようだ。しかし、なんとなく失われたものを感じる。子供の頃のトマトは、灼熱の炎天下、野性味を持った存在だった。最近、市場を席巻?しているらしい「桃太郎」は、もはや果物だ。化粧箱に整然と収められたトマトを見て、ドイツ人の友人が驚いていた。フルーツトマトの名もあるらしい。子供たちや若い人たちに人気のあるミニトマトは、ベリーのお化けのような感がしないでもない。炎天下の夏、冷たい井戸水に浮かぶトマトやスイカの世界が懐かしい。これも1980年代生まれの方には分からない話だ。

  

  

  

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こしの都:古代のロマンと地域活性化

2008年06月04日 | 雑記帳の欄外

    昨年縁あって訪れた「こしの都1500年フェスティバル」の記念誌を寄贈していただいた。「こしの都」というのは、福井県越前市(武生、今立など)を中心とした地域である。この催しは、『古事記』『日本書紀』に記されているあるロマンから、スタートしたユニークな地域活性化プロジェクトである。

  昨年2007年から数えて1500年前、古墳時代の中頃、近江の豪族、彦主人王(ひこおし)と越の国の豪族の娘振媛(ふりひめ)との間に生まれ、父亡き後、母の振媛のもとで、越の国の大王として成長した継体大王が、507年に大和より迎えられて樟葉宮(くずはのみや)で即位し、倭国(日本)の天皇として国を治めたという話が原点となっている。

  継体天皇についての史料は限られていて、多くの謎めいた部分があるが、近年の考古学と歴史研究のめざましい進展で、新しい継体天皇像とその背景がイメージされるようになった。507年に即位した樟葉宮は現在の枚方市にあたり、淀川を通じて開かれた新しい都づくりを企図したものだった。

  継体天皇の名前は知ってはいたが、その出自がどこであったかなどの背景については詳しくは知らなかった。しかし、たまたま、このプロジェクトでその内容を知り、フェスティバルが開催されていた時に現地を訪れ、いくつかの史跡なども見て大変興味が深まった。

    継体天皇についても、近江出自説と越前出自説のふたつがあることを知ったのだが、この点もかなり面白い部分だ。今後、未発掘の古墳などから新たな証拠が発見される可能性も多々残っている。福井県もご多分にもれず、車社会になり、車なしに山里深く埋もれている見所をまわることはかなり苦しい。しかし、それだけに都会化することなく、ひなびた良さが残っている。長い歴史を持つ茅葺きの料亭なども残っており、楽しむことができた。

  福井はこれまで調査その他で訪れ、大変なじみが深いが、いつも郷土愛を支える人々の心の温かさが印象に残る。福井県は日本でも住みやすい県の上位を占めるが、その基盤にあるのはこうした人情だろう。

  地域活性化の試みは、これまで各地でさまざまに行われてきたが、持続的な発展へと結びついているものは少ない。活性化につながるための要因の検討とその関係を十分、息の長いプロジェクトとして生かす必要がある。昨年のプロジェクトも、地域の文化的遺産を広く再認識してもらうことがひとつの目標だったようだ。さまざまな世代の人々に地域への関心を持ってもらうように、短い期間にやや盛りだくさんなくらいの多くの催しが行われた。「国際平和映画祭JAPAN in こしの都」で上映された映画の中には、「ダライ・ラマ・ルネッサンス」も含まれていた。上映が今年だったら、大変な話題となったろう。

  この地域には、越前和紙、金属加工、漆器、繊維など、多くの素晴らしい伝統産業の素地がある。全国にあまり知られていないことが残念に思うほどだ。その意味で、「こしの都プロジェクト」は、地域住民の郷土再認識にはかなりの効果があったと思われる。しかし、これだけでは地域の持続的発展にはつながらない。単発的なプロジェクトから脱して、真の活性化へ移行させることができるか。今後の展開を楽しみに見守りたい。

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遠くて近い響き:「ブンガワンソロ」

2008年05月31日 | 雑記帳の欄外

  このところ宵っ張り、夜更かし気味だ。別にがんばって起きている必要はないのだが。見るともなしに見たTV画面に思わず引きつけられた。どこかで聞いた懐かしい響きが伝わってきた。インドネシア、クロンチョン・モルスクといわれる民俗音楽の由来をたどる番組らしい。途中から見たので番組の全容は分からない。

  ただ、聞こえてきたのは、「ブンガワン・ソロ」だった。団塊世代以上の日本人は、おそらくどこかで耳にしたのではないか。心の琴線に触れるようなノスタルジックな響きだ。

  TVの登場人物の主役は、なんとなく西欧人の血筋を引いているような容貌だ。ポルトガルからインドネシアのジャカルタへ移住した遠い祖先の9代目とのこと。カトリック信仰を継承するポルトガル人とインドネシア人が混血して今日にいたったらしい。この人にとっては、今や祖先の国、ポルトガルは伝え聞くだけの遠い存在になっている。

  1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。支配者となったオランダ人たちは、前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや競争相手のイギリスを追いやって、この地域における主導権を握る。長い時間をかけて、支配の版図をほぼ現在のインドネシア全土へと拡大していった。

  主人公の祖先は、この時代になんらかの理由で、ポルトガルへ帰国しなかったのだろう。インドネシアは、1661年ポルトガルからオランダの支配下に移った。カトリックであった祖先は、当時は住むところすら与えられず、プロテスタント改宗を条件にジャカルタの町はずれにやっと居住が認められた。

  望郷(リンドウ)の思いはつのるが、ポルトガルへ戻るすべもない。せめて、故郷への思いを鎮めようと、ブルンカ、マチナというギターの一種でクロンチョンを演奏する。クロンチョン(Kroncong)は、インドネシアを代表する大衆音楽のジャンルだ。「ブンガワン・ソロ」もそのひとつで、ソロの大河という意味らしい。ソロ河はインドネシア国内を540キロにわたって流れる大河だ。クロンチョンは、故郷へ帰ることもないクグーの人々が400年間にわたって伝えてきた響きだ。

  欧米や東アジアのポピュラー音楽が存在感を増しつつある今日のインドネシアの大衆音楽界においても、クロンチョンの人気は依然として高いようだ。

  長い間オランダの植民地となっていたインドネシアにも独立への大きなうねりが来る。 1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択で、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選んだ。

   オランダの植民地支配は、日本の侵攻で瓦解、1943年から日本の軍政が始まる。日本軍は統治政策の一環として、クロンチョンなどの民族音楽なども活用した。クロンチョンの作者であるグサン・マルトハルトノさんは、今も80歳台で生きている。ブンガワン・ソロは、オランダ占領下のインドネシアで作られた。

   1945年8月15日に日本が降伏すると、独立派は直ちにジャカルタでインドネシア独立を宣言、スカルノが大統領に選出された。しかし、日本軍の武装解除を行ったイギリス軍および植民地支配再開を願って戻って来たオランダ軍と4年にわたってインドネシア独立戦争が展開された。この戦争で疲弊したオランダ軍はようやく再植民地化をあきらめ、1949年12月国連の斡旋によるハーグ円卓会議でオランダは正式にインドネシア独立を承認した。

  ブンガワンソロに代表されるクロンチョンは、こうした歴史の激動の中で、人々のさまざまな思いをこめて歌い継がれてきた。哀愁の響きを込めながら、今も歌われているクロンチョンを聞いていると、17世紀、東インド会社設立の時代へと飛んで行きそうだ。バタヴィアへ行ったレンブラントの娘はどうしたのだろう。いつとはなしに、心はあのテル・ブルッヘンの「フルート・プレイヤー」の世界へ戻ってゆく。


BS番組 2008年5月28日

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中国の怒り、悲しみ、そして

2008年05月24日 | 雑記帳の欄外

 親しい中国人の友人が、現代中国の最大の問題は頼るべき神や仏が存在しなくなったことだと語った。生活は物質面では豊かになったが、心の喪失感も大きいという。1960年代の文化大革命当時、まだ学生であった彼は、貴川省の農場へと下放されていた。その経験は、あまり語りたがらない。世代を問わず同じ経験をした人は、ほとんど誰もがそうである。この時代に生きた中国の知識人は、文化大革命がもたらした深い闇を知っている。儒教を始めとするあらゆる宗教的拠りどころが根底から破壊された。多くの人が荒涼とした精神風土を共有することになる。そして、時代は移り、開放・改革へと大転換する。発展する沿海部の都市などを中心に、無神論、そして拝金主義が多くの人々の心に忍び込んだ。中国自体がグローバリズムの根源のひとつとなるにいたって、「皆が等しく豊かになる」考えは完全に消え失せてしまった。

 他方、中国を旅してみると、宗教は少しずつその本来の力を取り戻しているのかもしれないという光景を目にする。それは、古くから伝わる民間信仰や祖先崇拝だけでなく、仏教、道教、少数民族に多いイスラム教、そしてキリスト教においても見られる。文化大革命の破壊にも耐えて永らえてきた農村の寺の実態にも接した。人々はそれぞれに線香を手にして、昔通りの礼拝をしていた。
孔子廟などへ詣でる人々の姿にも認識を新たにした。  

 四川省大地震の救済活動が続く中で、中国政府は5月19-21日を「全国哀悼日」と定め、地震発生時刻の午後2時28分に、全国各地で国民が黙祷を捧げた。中国にとって、今年は北京五輪開催という記念の年となるはずであり、13億人を擁する中国全土が熱狂する夏となることが予想されていた。この高揚感こそ、指導者を始めとして多くの人が描いていたことではないか。日本を始めとする多くの国が、オリンピック開催を次の発展への足がかりとしたように、中国の指導者そして国民も同様な効果が生まれることを願っていたに違いない。スポーツの祭典は、経済発展への踏み台となってきた。  

 しかし、年の前半も過ぎていないというのに、文字通り青天の霹靂ともいうべき激変がこの国を襲った。進む環境汚染、食品問題などへの海外からの批判に加えて、チベット暴動に端を発した中央政府への反発は、世界をめぐる北京五輪聖火リレーの路程で、中国政府、そして中国国民にとって見たくない光景を生み、 ナショナリズム意識に火をつけた。 多事多難な年、息つく間もなく、まさに天変地異ともいうべき四川省大地震が発生した。「怒れる中国」*は、一瞬にして「悲しみの中国」へと転じた。北京五輪まであと120日という時点での出来事だ。

 しかし、この悲劇は、広大な国土に13億という巨大な人口を擁することもあって、いまひとつ結束力を欠いた中国国民の間に、被災した同胞への同情と支援という形で精神的絆を強めているようにもみえる。これまであまり見えなかった姿だ。同胞愛そして人間愛への回帰は、悲惨な傷跡を癒すためにも喜ぶべきことだ。指導者が描いていたような理想的環境で、五輪を開催するという夢は潰えた。小国なら中止もやむないほどの大災害である。しかし、もし苦難を超えて人々の思いがまとまるならば、狭くなった地球上で共に生きねばならない人間への愛と協力を確かめる五輪大会になりうる可能性を残している。
「災いを転じて福となす」ために、なにをなすべきか。北京への道は大きく変わった。


*
"Angry China." The Economist May 3rd 2008.

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北京への道を修復する(3)

2008年05月14日 | 雑記帳の欄外

Photo Y.KUWAHARA 

   
    中国で5月12日に起きた「四川省大地震」は、文字通り驚天動地の出来事だ。このブログで予想した「壊れ始めた北京への道」が、まさかこんな形に展開するとはさすがに考えもしなかった。五輪聖火リレーの騒ぎは、どこかへ消えてしまった。

  中国の友人の薦めもあり、できれば臥竜へ行ってみたいと思っていただけに今は言葉もない。もしかしたら、現地にいたかもしれない。不幸にも亡くなった方々には哀悼の意を表し、ただ一人でも多くの人命が救われることを祈るのみ。国際緊急救助隊の受け入れを中国政府は断ったようだが*、人命のために政治や国境の壁があってはならない。「災い転じて福となす」ためには、一人でも多く目前の命を救うことではないだろうか。それだけが、北京へつながる道だ。


* 5月15日、急遽受け入れに転換。胡錦涛主席の訪日効果をなんとか維持したい現れか。

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創られた所に立ち戻る

2008年04月30日 | 雑記帳の欄外

  春は生気をもたらす。気温が上がり、花々が咲き乱れ、新緑があたりに満ちてくると、冬の間眠っていたような思考の世界にも、光が差し込んでくるようだ。日々の生活の折々にふと思い浮かんだ雑多なことを、書き記している。とはいっても、無意識にある程度のふるいわけをしている。世の中の憂きこと、煩わしきことには、ほどほどに付き合い、タイムマシーンで過ぎ去った世界をめぐる。日常の生活ではあまり考えないことを考える。

  いつの頃からかタイムマシーンのひとつの停泊地は、17世紀の画家の世界となった。画家たちの日常に入り込む。作品を見ているうちに、画家の制作風景、工房の生活、それに連なる外の世界などが、次々と思い浮かび、想像がかき立てられる。時には、その手がかりを探し求めてさすらう。 ひとつひとつは他愛もない些事なのだが、積み重ねている間にイメージが浮き上がってくる。これまで闇に埋もれて見えていなかったことが見えてくる。記憶の衰えは避けがたいが、書き記すことである程度はおぎなえる。次々と思い浮かんだことを脈絡を考えることなく書き留め、あちこち行き来している間に、思いがけずも隙間が埋まったりする。

  あのテル・ブルッヘンの「キリストの磔刑」が、塵や埃で読めなくなっていたモノグラムの発見で、にわかに脚光を浴びたように、光はしばしば小さな合間から入ってくる。

  「神(真理)は細部に宿る」とは、けだし名言だと思う。1960年代末の頃だったか、歴史で概論が書けない時代になったという話を聞いたことがあった。歴史に限らずあらゆる学問領域で専門化が進んだ。それまで概論・総論を組み立てる土台になっていた部分に新たな発見が次々と生まれると、土台が揺るぎだし、ある程度落ち着くまで総論が描けなくなる。確かに書店の棚を眺めても、多くの分野で「○○概論」、「○○原論」というタイトルが少なくなった。他方で専門化の弊害も感じられるようになる。一口に言えば「木を見て森を見ず」という状況だ。

  絵画作品が作られた時に立ち戻って、追体験をしてみたい。単に作品だけを見るのではなく、工房に入り込む。そんなことはできるわけではないが、タイムマシーンにはほど遠いにせよ、インターネットはプリミティブな疑似体験をさせてくれる。衰えた脳の活性化には、多少の効用もありそうな気がする。

 

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壊れ始めた北京への道(2)

2008年04月16日 | 雑記帳の欄外

    チベット暴動後のオリンピック聖火リレーが苦難の道になることは、ほとんど予想したとおりだった。ある意味で、中国は自ら問題を作りだしてしまったのだ。ラサでは、いつかこうした事態が起こりかねないことは、いくつかのメディアが予測していた。それにもかかわらず、最悪の事態が起きてしまった。中国首脳部が最も恐れていたことである。

  問題は、暴動勃発後の中国の対応だった。力による弾圧、ダライ・ラマに対する一方的非難、そして対話の拒否。これでは解決は望み得ない。ラサやチベット人の多い地域での暴動は、中国首脳部としてできれば国民に見せたくない光景だろう。国内では極力放映されないようにしているようだ。しかし、それも限度がある。他方、聖火リレーの通過国での妨害行動は、インターネットの時代、視聴制限ができない。中国報道官が口にしたように、こちらは中国国民の愛国心を煽るために利用するという方向だ。偏った情報注入は、不条理な行動につながる。
 
  スポーツと政治は別の次元の問題と関係者がいくら強調しようと、現実にはスポーツの政治化は、改めて指摘するまでもないほど深く進行してしまっている。アメリカではサンフランシスコで聖火を倉庫に避難させたり、式典を中止したり、なんとか形だけつけて通り過ぎてもらうことに大わらわだったようだ。今、この難しい時期に中国との間で大きな問題を起こしたくないという配慮が働いているのだろう。パキスタンで聖火リレーを競技場に閉じこめて行ったというのは、まさに戯画的光景だ。英誌The Economistが指摘するように、北京で、「チベットの独立を」などと書かれたTシャツを着た観客が入ってきたらどうするのだろうか。すでにフランス選手団が「平和バッジ」の着用を提唱し始めた。

  中国首脳部は、今ではギリシャ、オリンピアの地から北京へ航空機移送をすればよかったと思っているだろう。彼らがコントロールできない地域での反中国的行動は、自らの失態を世界にさらすことになる。オリンピックを目覚しく発展する現代中国を、世界に誇示する重要な機会と考えていただけに、首脳部の衝撃は想像以上に大きいに違いない。オリンピック終幕まで、どこで何が起きるか分からない。どうすれば面子を失わずに終わらせることができるか。おそらく始まらないうちから、終幕のあり方を考えていることだろう。本来ならば政治の対立も忘れて楽しむはずのスポーツの祭典が、極度の緊張の中で進められることになってしまった。

  開幕まで時間がなくなってくると、中国首脳部にとって打つ手の選択肢は限られてくる。とりわけ、彼らが恐れるのは自爆テロのような防ぎようのないことが起こることだ。そして、首脳部が最も恐れることは、それが国内問題の爆発につながることだ。
  
  1989年の天安門事件の時も、インフレと政治的不満が背後で結びついて爆発した。何が起こるかわからないことが、対応を非常に難しくしている。チベット族以外の少数民族への連鎖も目が離せなくなった。


  改善のために動かねばならないのは、中国首脳部であることは間違いない。非難の応酬に終始するかぎり、緊張度は高まるばかりだ。ダライラマとの対話など、一番いやなことに手をつけねばならない。 しかし、それが最も確実な事態改善への唯一の道なのだ。少なくとも対話が続く限り、大きな破綻は避けられる。



Reference
“Orange is not the only protest.” The Economist April 12th 2008.

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正夢となった白昼夢:年金記録喪失

2008年04月03日 | 雑記帳の欄外

  まさか自分が年金記録問題の対象者となるとは、予想もしていなかった。しかし、5000万人ともいわれる数字を目にすれば、確率上は多少の危惧もあった。決して順風ばかりの人生航路を歩んできたわけではない。職業経歴も断続している。そこへ先日、「ねんきんお知らせ便」が配達されてきた。やはり来たかと思い、目を凝らしてチェックしてみると、たちまち、明らかに誤記としか思えない数字が目に入った。それも1ヶ所ではないので、ショックだった。
  
  手元にある資料をチェックし、説明のつかない部分を関連機関などで確認した上で、最寄りの社会保険事務所へ連絡するが、電話がなかなかつながらない。ようやくのことで相談予約をとりつける。1ヶ月くらい先の夕方、その日最後の時間帯である。
  
  予約当日、社会保険事務所へ出向く。すでに夕暮れ近くだが、予約なしだと25人待ちという状況であった。事務所の光景は問題発生以前とは、様変わりしている。ひとつのフロアは、ほとんどのスタッフが、年金記録対応の体制のようだ。相談を待つ人々の間には虚無とも、脱力感ともつかない雰囲気が漂っている。
  
  事務所の相談スタッフの応対は、丁寧である。訪れる人たちはそれぞれにいらだちや不安を持っているのだから、応対が大変なことも推測できる。
  
  順番が来て、送付された内容について不審と思われる点を、担当スタッフに照会、確認を依頼する。驚いたことに、相談中にもうひとつの欠落が明らかになった。案件としては、比較的処理しやすい内容と思ったが、過去の記録作業における不注意な事務処理ミスと思われる点が目につき、愕然とする。明らかに単純な入力ミスと思われる。今回、通知を受けなかったら、事実を知ることなく受け取り未了のままに人生を終わっていただろう。重大
な国家的犯罪であるとの思いが強まるばかりだった。
   
  誤った記載が修正されても、補正された年金が支給されるのは来年のことになるという。しかも、それが正確にいかなる額になるのかも分からない。未払いの分は遡及して支払われるとしても、厳密にいえば、未払い分の利子調整などはなされるのだろうか。分からない点が多々ある。どこで、誰がいかなる理由で誤記を行ったかさえ、確認できない。
   
  厚生労働分野には多少基礎知識を持っていたこともあって、自分の問題の輪郭についてはほぼ把握しえたが、それでもいくつかの疑問が残る。窓口でひとつひとつ確認していたら、さらに何時間かかるかも分からない。確かな原資料と引き合わせるため、大変時間がかかる。担当者の答えられる権限も限られているようだ。改めて、自分で年金額を試算しなおさねば正確な額すら分からないのだが、今回の被害者の間で、それが出来る人がどれだけいるだろうか。周囲の相談風景を見ていて、問題の根深さを思い知らされる。メディアは厚労相の問責案が提出されると伝えているが、担当大臣が代わったくらいで問題が解決するとは到底思えない。社会保険庁の掲示が絵空事で虚しく感じられる。

  未払いの問題ばかりではない。この問題対応のために、いかに巨額で無駄な追加費用が支出されていることか。そして、被害者など関係者がこの起きてはならなかった問題の解決のために、どれだけの時間を割いているか。大きな国民的損失である。背筋が寒くなる思いだ。

  しかし、ここまで要した時間はすでに1時間半を超え、夜の帳が下りていた。この国の未来を思い、暗澹たる思いで事務所を後にした。


社会保険庁
平成19年9月19日

年金記録問題への対策(社会保険庁)

今回の年金記録問題につきまして、心よりお詫び申し上げます。徹底した対応を行い、昔からのこの問題を一掃します。最後のお一人まで正しく年金をお支払できるよう着実に対策を進めています。

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早すぎるフローラのお出まし

2008年04月01日 | 雑記帳の欄外

  今年は、花と春の女神フローラのお出ましが大変早い。冬は例年より寒かったが、桜前線は駆け足でやってきた。すでに東北地方まで達している。例年より2週間くらい早いだろうか。昨年は5月の連休前に盛岡や角館まで、前線を追いかけても間に合った。それに比較すると、驚くほどの早さといえる。

  昨年秋に新春を見越して、小さな庭にチューリップの球根を植えた。桜とともに春を告げる花だ。例年、4月中旬くらいに開花期がやってくるのに、今年はすでにほとんどが開花している。長い冬にじっと耐えて春を待っていた自然の摂理にはいつも驚くばかりだが、年々のスピードアップには大きな不安もある。

  地球温暖化が進んでいる兆候なのだろう。今年の3月は130年ぶりの暖冬だとのこと。20の観測地点で観測史上最高の記録という。洞爺湖サミットを前に、日本の提案には賛同が得られず、難航している。後の世代に大きな負担を残さないことを願うばかり。ひとりひとりが出来る限りの環境維持を心がけて、日々を送る以外に道はない。

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壊れ始めた北京への路(1)

2008年03月27日 | 雑記帳の欄外

  このたびのチベット暴動が、中国政府にとっては予想外の展開であったことを示す一端を、西欧のジャーナリストが伝えていた。英誌 The Economist のグループが、「北京路を破壊する」 Trashing the Beijing Road と題して報道している。長らく許されなかったラサの取材が、やっと認められた最初の日に暴動が勃発したらしい。暴動の兆しはすでに3月10日頃からあったようだが、ラサの政府筋はたいしたことはないと思っていたようだ。そして、このジャーナリスト・グループが取材を開始したその日に暴動は起きた。取材予定の各所で予想もしない事態に出会ったようだ。厳重な報道規制が始まった中で、最も生々しい実態を伝えていた。

  暴動は、ダライ・ラマが亡命を余儀なくされた1959年以来最悪のものとなった。中国政府はダライ・ラマのグループが周到な計画の下に準備したものだと非難している。他方、ダライ・ラマはなんら彼自身関与していないし、平和的解決を希望している。暴動は甘粛省、四川省などチベット族の多い周辺地帯にも波及しているが、中国政府はダライ・ラマとの対話を拒否し、ひたすら武力による鎮圧をはかっているようだ。

  確かに中国政府は、チベットを含む少数民族の居住地域の経済状態改善を重要課題としてきた。多大な投資などによって、一定の効果は生まれ、彼らの経済水準は顕著な改善を見た。しかし、チベット民族と人口の9割近い漢民族との軋轢は、緩和されるどころか強まっていたようだ。TVで見る限りだが、あの光景はこれまで鬱積していた中央政府、そして漢民族への反感のすさまじさを推測させる。皮肉なことに、ラサ市内の目抜き通り「北京路」周辺に最も破壊が集中した。

  「見たくない白昼夢」を次々と見ているのは、中国首脳部かもしれない。北京オリンピックまでの日程は、きわめて緊迫したものになった。第二の天安門とならないよう、中南海には想像以上の危機感が張り詰めているに違いない。

  聖火リレーの行程でも何が起こるかわからない。すでに最初からつまずいている。政治とスポーツは切り離して考えるというアメリカなどの対応には危うさが感じられる。中国報道官はラサでも整然とした聖火リレーを見せると強がりを言っているが、戒厳令下のリレーでは話にならない。対話を拒否し、ひたすら力での鎮圧を図る中国政府の対応は相変わらずだ。暴動を起こした側、起こされる側双方に言い分はあるとはいえ、ひとたび燃え始めた火は冷静な「対話」以外に消す策はない。

  天安門事件の衝撃が風化しているとは思えないが、こういうところに、これまで辺境、少数民族に対してきた「中華帝国」の悪い面が出てくる。中国は友人も多く、複雑な気持ちだが、この点だけは受け入れられない。このままでは北京が「熱い夏」となることは避けられない。


  

 

 

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見たくない白昼夢(2)

2008年03月22日 | 雑記帳の欄外

 

    バブル崩壊前の80年代半ばのことである。東京へ来たイギリス人の友人が、道端に多数駐められた自転車を見て、しきにに感心していた。自転車などイギリスでも珍しくないのにと思って、理由を尋ねたところ、簡単な鍵しかいないし、無造作に乗り捨てられているのに驚いたという。イギリスだったら鍵をかけた上で、柱や柵など固定したものにチェーンなどで縛り付けておかないとすぐに盗まれてしまうという。時々辛辣なコメントをする友人から、日本は安全な国だということが分かったよと云われ、率直に嬉しく思った。

  それまで、あまり気をつけて観察していなかったので、その後イギリスに滞在した折に、街中に止められている自転車を見てみると、確かに鎖で柱などにしっかりと固定されている場合が多かった。それでも、在外研修に来ていた友人が、一寸した隙に自転車を盗まれたという話も聞いた。

  その後、日本では放置自転車がさまざまな問題を引き起こしていることを知る。時々、トラックなどで違法な駐輪をしている自転車を積み込んで撤去するという自治体も増えた。放置されて、引き取り手がない自転車を修理して、アジア諸国へ寄贈するというNPOを設置した知人もいる。

  他方、駅舎や市役所など、人が多数集まる場所に駐輪場が設置されるなどの動きもあって、トラックに山積みにされる自転車の光景を見ることも少なくなったようにも思っていた。

  しばらく、忘れていたところ、昨日ふと聞いたラジオのニュースは、ショッキングだった。東京、足立区では、あまりに自転車の盗難が多いので、鍵を一台に二つつけるよう、区がキャンペーンを始めたという。

  日本の公徳心やモラルが90年代以降、急速に低下していることは、さまざまに指摘されてきたが、ついにここまできたかという思いがした。自転車という日常目にする、それ自体は小さな光景だけに、かえって衝撃が大きい。
あの友人が、今度日本へ来たらなんというだろうか。

 このところ、まさかと思うことが次々と現実化し、眼を瞑りたくなることが増えてきた。ラ・トゥールの世界へ戻る時かもしれない。

 

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平壌に響いた「新世界」

2008年03月05日 | 雑記帳の欄外

  旧聞になってしまうが、2月26日、ニューヨーク・フィルハーモニックが平壌で公演した際の番組を見ることができた。指揮者ローリン・マーゼル。会場は東平壌大劇場だった。会場には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とアメリカ合衆国の国旗が飾られていた。開演に当たって両国国歌も演奏された。1950-53年の朝鮮戦争以来、実に55年間、北朝鮮人民の前に公然と星条旗が掲げられ、アメリカ国歌(Star-Spangled Banner)が演奏されたことはないそうだ。 

  北朝鮮側は未曾有の経済危機の最中に、会場の音響効果を改善するために大規模な改修工事まで行った。会場も当初予定した場所ではなく、1500人近くを収容するこの大劇場に変更されたらしい。弱みを見せたくなかったのだろう。

  ニューヨーク・フィルの団員やプレス関係者は、滞在期間中、お仕着せの見学コースだけが認められ、市内を見物するなどの自由行動は実質的に制限されたらしい。

  結局、公演会場に金正日総書記はお出ましにはならなかったようだ。TVで観ていたことは間違いないが。興味あることに、アメリカの前国防長官ウイリアム・ペリー氏も、観客の中に入っていた。日本ではほとんど報じられなかったが、この公演に際しては、日本人でイタリア在住の富裕なヨーコ・ナガエ・チェスキーナ(チェスキーナ・永江洋子)さんが資金面で支援の手を差し伸べられた。普通の日本人の発想の域を超えている。

  劇場でこの世紀の生演奏を聴くことができた北朝鮮側の観客が、いかなる基準で選ばれたのか分からないが、西欧の音楽など公然とは聞いたことがない人たちであった。演奏された曲目は、ワグナーの「ローエングリーン」序曲、ドヴォルザーク「交響曲第9番:新世界より」、ガーシュインの「パリのアメリカ人」、ビゼー:組曲「アルルの女」、ファランドール「キャンディード」序曲などであり、最後に南北朝鮮の暗黙の国歌ともいうべき「アリラン」が演奏された。これに聴き入る人たちの表情は印象的だった。

  この公演が純然たる文化活動でないことは言うまでもない。さまざまな思惑が背後で働き、実行されたことは間違いない。これまでもこうした「オーケストラ外交」が行われた例はいくつかあるが、政治・外交上の雪解け、融和につながった例はほとんどないらしい。しかし、少なくも演奏中は歪んで醜い政治の次元を離れることができたのだろう。観客は、スタンディング・オヴェーションで熱烈歓迎の意を表した。アメリカ帝国主義は嫌いだが、内心はアメリカ好きが多いらしい。彼らにとって、「新世界」はどのように響いたのだろう。

  

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「夜警」の暗闇

2008年02月27日 | 雑記帳の欄外

Florian Henckel von donnersmarck. Das Leben der anderen: filmbbuch. Suhrkamp: Frankfurt am Main, 2006.  

  以前に記事として紹介したことのあるカーレド・ホッセイニのThe Kite Runner が映画化され、日本でも公開されている。邦訳された書籍も出まわっているようだ。ただ、昨年邦訳書が刊行された時、書店でみかけた折は、確かB5版の体裁で原題通りに「カイト・ランナー」だった。しかし、いつの間にか「君のためなら千回でも」という映画の邦題名に合わせて、文庫判(上下)に変更されていた(ハヤカワepi文庫)。英語の表題をそのままカタカナ表示しただけでは、アッピールする力に欠けると考えたのだろうか。しかし、新しい邦訳表題「君のためなら千回でも」は、原著を先に読んだ者にとってみると、かなり違和感がある。映画はまだ観ていないのだが、映画の英語タイトルは原著通りに、The Kite Runner である。

  実際、アフガニスタン、カブールでの凧揚げという行事からストーリーは展開するし、アメリカ西海岸へ移住した主人公が、凧揚げをするフィナーレになっている。凧揚げは原作を貫く象徴的な意味を持っている。ちなみに、The Kite Runner を紹介した時には、映画も公開されていなかったので、仮に「凧を追いかけて」としておいた。原作に忠実であるという意味では、この方がまだましではないかと思うのだが。

飛んでいってしまった凧
  映画で、
「君のためなら千回でも」 (公式ブログ)という邦訳表題が採用された背景は推測にすぎないが、「千の風になって」ブームに影響されたのではと思ってしまう(読みすぎかな?)。いずれにしても、映画のタイトルを見て、原作がThe Kite Runner であるとの連想は生まれなかった。

  もっとも最近では「凧」という漢字を読めない人もかなり増えたようだ。ある小さな会合で、このことを話題としたところ、2割くらいの人は戸惑っていた(客観的なテストをしたわけではないので単なる推定にすぎない)。タイトルで、凧に振り仮名をつけるのは可笑しいし、といって、仮名文字ではなんとなく締りがない。

The Nightwatch と Nightwatching
  洋画の邦題が原題と異なることは、しばしばあることでそれ自体は驚くことではない。興行上の効果なども当然考えられているはずだ。しかし、それが原作の微妙なニュアンス、時には重要な含意を消してしまうことはしばしばある。最近の『レンブラントの夜警』もそうだった。 「夜警」を注意して観るという映画原題のNightwatchingに籠められた監督の深謀も、邦訳ではあとかたなく消されてしまっている。失礼ながら、『レンブラントの夜警』ではタイトルになっていませんね。グリーナウエイ監督は、この映画が「夜警」The Nightwatchという絵画作品のひとつの解釈であることを示しているのだ。「夜景」の暗闇はただものではないのだ。

  極端な場合には、作品の内容と邦題をできるかぎりすり合わせるという努力を、ほとんど放棄してしまっているような場合もある。旧聞となるが、かつてこのブログにも記した「クレイドル・ウイル・ロック」がその一例である。この邦題名?で、作品内容を違和感なく想像できる日本の観客はどれだけいるだろうか。素晴らしい作品であっただけに、大変残念な思いがした。

メロドラマではない
  
「善き人のためのソナタ」には、すっかり惑わされてしまった。映画を観た後、邦訳タイトルとストーリーの距離に、しばらく納得できないなにかを感じた。とりわけ、「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」というキャッチコピーも違和感があった。

  映画の詳細な脚本ともいうべき filmbuch が出版されている。それによると、原題(映画タイトル)
は、Das Leben der anderenである。直訳すれば「他人の人生」とでもいうべきか。東独国家安全省シュタージの大尉である主人公(GERD WIESLER*)が、著名劇作家(GERRG DREYMAN)と恋人(CHRISTA-MARIA)の女優の私生活まで盗聴することで、自分の人生とはまったく異なるものがそこにあることを気づかされる。厳しい思想、行動への束縛と監視の中に、ひそやかに生きる自由の心である。しかし、専制的な社会主義体制の組織に深く関わってしまっている主人公には、それから脱却することなどできない。権力による報復措置にも抵抗できなかった。

  「善き人のためのソナタ」は、壁崩壊後も、カートを引いて新聞などを配達する地味な仕事をしている主人公が、偶然カール・マルクス通りの書店で見かけた書籍の表題であった。劇作家ドライマンの新著の形をとり、ヴィスラーと思しき人への献辞(HGWXX/7 gewidmet, in Dankbarkeit)が記されていた。一見、表題に惹かれてしまうが、映画のドイツ語原タイトルからすれば、この映画監督の意図は、主人公を単に善人視することではなかったはずだ。盗聴という卑しむべき業務を通して、かすかな自由という別の世界の生活があることを知って、その行為を放棄したからといって、監督は主人公を救ったわけではない。数え切れない人々に悲惨な人生を強制した国家の歴史の冷酷な一齣を描き切ることに、若き監督・脚本家、フロリアン・ヘンケルス・フォン・ドナースマルクの意図はあったはずだ。Das Leben der anderen の意味は深い。表題ひとつが持つ重さと怖さを感じた。


*
 この役を演じたウルリッヒ・ミューエさんは昨年7月に癌で亡くなった。ご冥福を祈るのみ。


 

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なぜ17世紀なのか(2)

2008年02月22日 | 雑記帳の欄外

    このブログで話題としてきた美術や文学は、17世紀に関わるものが多い。その点を尋ねられた。なぜ、17世紀なのか。前回記したように、この問いは大きすぎて、とてもすぐには答えられない。気づいてみるといつの間にか、この時代へのめりこんでいた。多くの点で、現代と重なり合い共鳴する部分が多いと感じた。それらの断片をこれまで記してきたにすぎない。

  ブログで話題としてきた画家たち、カラヴァッジォ、ラ・トゥール、フェルメール、カロ、レンブラントなど、気づいてみると、いずれも17世紀の画家たちである。どうして、そんなことになったのか、分からない。結果として、そうなったに過ぎない。

「不安な時代」に生きた人々
  400年という時空は、ワープして理解するに程よい「距離」だ。少し努力して手を伸ばせば、なんとか分かる距離のような気がする。17世紀ヨーロッパは、さまざまな点で「危機の時代」であった。戦争が絶えることなく、悪疫が蔓延し、不安が世の中を覆い、先が見えない時代だった。不安な世の中だけに、宗教の重みは大きかった。しかし、唯一の頼りであるはずの宗教界も分裂していた。

    もちろん平和で豊かな時期もあった。17世紀初めのロレーヌの町や村では10年一日のごとく、平和な日々が続いていた。しかし、突如として襲ってくる外国の軍隊や悪疫の蔓延に、逃げ惑い、恐怖の渦中に投げ込まれることもあった。魔女裁判が残っていた時代である。

  16世紀から精神世界では宗教改革の衝撃が、ヨーロッパ世界に浸透し、人々の心は大きく揺れ動いていた。一見、日々平穏な生活を過ごしているかにみえて、人々の心から不安が消えることはなかった。せつな的生活に身をゆだねる人々もいた。明日はどうなるだろうか。人々は不安の中に、心のよりどころを求めてさまよっていた。 

  宗教は当時のヨーロッパを動かす源流でもあった。宗教と政治の世界は重なり合っていた。その後、時は流れ、宗教は緩やかではあるが公的な次元から離れ、独自の世界を形作っていった。

存在感を増す宗教
  20世紀になると、宗教はさらにその影響力が薄れ、とりわけ公的な次元では、限界的、周辺的なものになると考えられていた。ところが、21世紀になると、宗教は再び存在感を取り戻したかにみえる。政治の世界でも無視できない役割を演じるまでになった。しかも、それが人々の心の支えでもあり、対立、そして「神の名において」の殺戮の根源にまでなっている。

  17世紀、ヨーロッパ世界での宗教の争いはカトリック対プロテスタントという構図であった。その後、激しい抗争の時を経て、キリスト教内部の対立も収まった。今日、次元は変わり、キリスト教対イスラム教の対立、さらにイスラム教内のスンニ派対シーア派という宗派対立に一部移行もしている。
 
  コソボ独立、トルコEU加盟、オランダでのイスラム信仰、アメリカ大統領選挙などきわめて多くの問題が、宗教を考えることなくして、ことの本質を理解できなくなっている。人種問題と結ぶとさらに難しくなる。今まであまり考えたことがなかった宗教が、大変興味深い対象に見えてきた。これも歳を加えたことの現れなのだろう。

  時をワープし、17世紀の画家たちの精神世界がどんなものであったか。彼らの心の中をなんとか覗き込んでみたいというのが、こんなブログを続けているひとつの動機でもある。

 

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なぜ17世紀なのか(1)

2008年01月29日 | 雑記帳の欄外

    なぜ、17世紀ヨーロッパの画家に興味を持つのかと聞かれた。考えたことのない問いであったので、一瞬言葉に詰まった。入り口は多分、はるか昔10代の頃に遡る。それも偶然の美術や文学との出会いに始まっているので、とりわけ17世紀を意識していたわけではない。これまでの人生で携わってきた仕事も、17世紀美術や文学とはまったく関係ないものだった。

  問われてみて、少し考えてみた。確かにこの時代の画家や作家に、関心の在り処としてのピンが打たれている。なんとなく惹かれる対象が多い。 ラ・トゥールやレンブラントなどの絵画の世界ばかりではない。文学、劇作などの世界でも、この時代の作品にいつの間にかのめりこんできた。とはいっても、体系的に追いかけようと意識したこともなかった。いつの間にか次々と脳細胞の回路がつながってきた。

  他方、最近の美術や文学の世界でも、カラヴァッジョ、レンブラント、フェルメール、ブレヒトなど、この時代へスポットライトが当たっている。最近の映画「レンブラントの『夜警』」、30年戦争を舞台としたブレヒトの音楽劇「肝っ玉おっ母とその子供たち」の再三の上演、フェルメールやレンブラントへの人気もその一端である。フェルメールもラ・トゥールも私が関心を持ち始めた頃は、一部の人にしか人気はなく、美術館に展示された作品の前も人影が少なかった。カラヴァッジョでさえ、画家の名を知る人も少なく愛好者は限られていた。

   強いて言えば、17世紀という時代、とりわけ前半は、現代と共通する点がきわめて多いことにあるかもしれない。しかも、想像をめぐらすに適度な時空の隔たりがある。16世紀では少し遠過ぎ、18世紀ではやや生々しい感じがする。現代と程よい距離があり、客観的に対象を見ることができるような気がする(この意味で、デューラーやクラナッハは少し遠い)。といっても、まったく個人的な感じに過ぎない。

  現代と共鳴することが多いのは、17世紀のヨーロッパが危機の時代であったことも関係しているかもしれない。「17世紀の危機」という表現があるように、
時代はさまざまな苦難を抱えていた。戦争、悪疫、宗教対立、気象など、深刻な問題ばかりで先が見えない時代だった。不安が人々の心に深く宿っていた。

  誤解を恐れず、あえて整理してしまえば、危機への対応は、それぞれに異なっていたが、同じ主題を各国の劇場が異なった振り付けで上演しているような感じさえあった。政治、宗教面では、イギリスにおける国王と議会派の対立がピューリタン革命、名誉革命へとつながっていった。フランスでの国王と貴族の対立は、フロンドの乱を経て王権の確立を生み、ドイツでは皇帝と諸侯が対立し、30年戦争は農村部の荒廃をもたらした。

  ロレーヌ公国は大国の狭間にあって、30年戦争の戦場として、その争いに翻弄、蹂躙された。しかし、1620年代までは、ロレーヌは繁栄を享受し、文化が咲き競った。

  この中でオランダだけは「17世紀の危機」に巻き込まれなかった。1581年に独立宣言をしたネーデルラント共和国は、ドイツなどの荒廃と比較すると、香辛料貿易、バルト海貿易などを通して、目覚しい繁栄を享受した。まさに「黄金時代」であった。文化の中心はイタリアから北方へと移りつつあった。

  レンブラントの「夜警」の背景には、オランダの繁栄と富に、なんとか劣勢挽回の手づるを見出そうとするイギリス王室あるいは宰相リシリューに追われたフランス王妃などの動きと、それを栄達や蓄財の手段としたいオランダ国内のさまざまな利害グループの策略が渦巻いていたようだ。舞台を現代に置き換えても違和感がないほどだ。一枚の絵が時代の深奥へと見る人を誘い込む。 

 

  

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