時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ハドソン川の奇跡:追体験

2009年05月10日 | 雑記帳の欄外

 未だ記憶の生々しいニューヨーク、ハドソン川への航空機着水、全員救助についてのドキュメンタリー番組を見た。この出来事については事故直後、このブログでも機長の沈着・冷静な判断、着水後の事故機周辺の人々の果敢な救援活動などについて記したことがあった。後世に語り継がれる出来事になるだろうと書いたが、その通りになった。

 改めてドキュメンタリーを見ると、サリンバーガー機長の驚くべき冷静さ、責任感の強さに、もう一度深く感動した。機長はハドソン川着水後、沈み行く機体の中で、率先乗客を誘導し、乗客が全員無事脱出したか否かの確認のために、自ら機内を2度も往復したとのこと。機体がまもなく水没することを最も良く知っていたのは、おそらく機長だけだったのだろうが。そして、救命ボート上で寒さに震える乗客に、自分のシャツを脱いで渡すことまでしている。

 事故当日、US Airways 1549便は、総重量66トン、155人の乗員乗客が乗っていて満席だった。ラガーディア空港離陸直後、高度980メートルで両エンジンに多数の鳥が飛び込み(バード・ストライク)、航行不能に陥ってしまう。墜落、大惨事が当然予想される状況だった。近くの空港までは飛行できず、ハドソン川へ着水するという決断を機長は6分間で行った。

 高度、対機速度、機長判断の3つが、乗客乗員の運命を定める要因だった。時速240キロより速度が早いと機体は着水時に大破、爆発の可能性があり、遅すぎると、失速墜落という事態になるようだ。まさにぎりぎりの判断だった。

 ハドソン川には河口のthe Narrows と呼ばれる川幅の狭い地点から上流のオルバニーまでに11の大きな橋がある。厳しい状況の中で、目前に聳え立つ184メートルの巨大なジョージ・ワシントン橋を、エンジンが止まり、グライダーのようになった機体を巧みに操縦して交わし、救援が最も期待できる地点を選択した。文字通り、行き詰まる数分だった。この橋自体、マンハッタンとニュージャージー側フォート・リーを結ぶ全米でも交通量が5指の中に入るものであり、万一衝突でもしようものなら大惨事必至であった。川の両側はビル、住宅が密集する地域である。

  個人的経験だが、10数年前、この航空機が予定していた空路ニューヨーク・シャーロット間を一度往復したことがあったことも手伝って、画面に引き寄せられた。鳥がエンジンに飛び込むというひとつのアクシデントが、人生にいかに大きな違いを生むか。その時に人間の真価も問われる。ドキュメンタリーで乗客の何人かが語っていたが、彼らの人生観はこの出来事を境に大きく変わったようだ。

 航空機が着水したあたりは、かつてハドソン川を遡行する旅をした時のスタート地点に近く、記憶が鮮明に残る地域だ。ジョージ・ワシントン橋は大変美しい。マンハッタン側の下流から見ると、この橋の右側たもとに"Little Red Lighthouse"と呼ばれる小さな船舶航行用の燈台がある。そして、ニュージャージー側の左岸には、パリセードと呼ばれる大絶壁が続いている。ここから切り出された石材は、ニューヨーク市の建造物や路面の舗装に使われたが、1900年にパリセード保全の委員会が生まれ、採掘が禁止された。そのおかげで、春や秋には13.5マイルにわたる壮大な絶景を楽しむことができる。ハドソン川流域には、さまざまな史跡名勝が多いが、この出来事でもうひとつ歴史に残る地点を付け加えた。

「ハドソン川 奇跡の着水」 2009年5月10日 BS1
Miracle of Hudson River Place

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給付金より効果があったWBCワクチン?

2009年03月31日 | 雑記帳の欄外

 WBCでのサムライ・ジャパンの優勝は、不況で沈んでいる日本にとって、久しぶりに憂鬱な日々を吹き飛ばす効果があったようだ。メディアの取り上げ方も、驚くばかり。よほど明るいニュースがなかったのですね。

 スポーツは「抗不況効果」ありという英誌 の記事*が目に止まった。グローバル大不況からは、いまやいかなる産業も逃れがたいが、主要なスポーツ産業?は、幸い難を逃れ、好調なようだ。

 イギリスの国技クリケットも、サッカーもまずまずのようだ。もっとも、不況の影響がみられないわけではない。サッカー、イングランド・プレミアリーグの選手のユニフォームからも、それが分かるようだ。マンチェスター・ユナイテッドのスポンサーAIGは、今はアメリカ政府の所有するところになってしまった。ウエストハムは、スポンサーの保険会社が破綻し、企業ロゴが3ヶ月無かったこともあったとのこと。しかし、それでも試合のTV放映権などでしっかり稼いでいるらしい。

 こうしたスポーツ産業が持っている強みは、ひとつには試合の放映権などをスポンサー企業などへ販売できることにあり、不況下でも買い手がつくらしい。さらに、放映権その他の契約が数年から10年など、長期にわたることが多く、その点でも安定しているようだ。アメリカで人気のプロ・バスケットボールは、協会が75億ドルで8年間の契約を結んだところだ。

 不況になると、人々は苦しい現実から一時でも逃れようと、現実逃避主義になるらしい。そして、難関を切り開くヒーローを見たくなり、その活躍に拍手を送る。そして、財布を開きたくもなるようだ。

 適度にハラハラさせてくれて、応援でストレスを振り切り、自分が苦難を克服したような高揚感が得られる。その後、しばらく仕事にも前向きになる。

 確かに、WBCも最後の最後まで、観衆をひきつけて、イチローが「美味しいところ」をいただき(!)、波瀾万丈、緊迫感もあって、劇的なできあがり。サッカー、ワールドカップ、アジア最終戦予選対バーレーン戦の勝利も、気分高揚効果は大きかったようだ。こちらも期待通り、ヒーロー俊輔が大活躍してくれて、唯一の得点というのも、効能書き通り?。

 
* "Sport:  Is it recession-proof?" The Economist February 14th
2009.

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自転車から見る世界

2009年03月08日 | 雑記帳の欄外

 早春の週末、久しぶりに自転車に乗る。顔に当たる風はまだ冷たいが、明らかに春の訪れが感じられる。10キロほど離れた近くの大学キャンパスを目指す。途中には短いながらも自転車専用レーンもあって走りやすい。公園の梅も満開に近い。

 
それにしても、行き交う自転車が増えた。駅や大きな店の前にも自転車が溢れている。それも、銀色のまだ新しい自転車が多い。デザインの斬新な外国製の自転車も増えた。電動アシスト自転車もかなり見かけるようになった。

 子供たちが、最近買ってもらったのだろう。色とりどりのヘルメットをかぶり、マウンテンバイクなど、見るからに新しい車に乗って、親たちと一緒に走っているのはほほえましい光景だ。自転車を通勤に使う人たちも増えたようだ。 

 自転車ブームが起きていることは、明らかに感じられる。町の自転車屋さんはどこも忙しそうだ。新しい店も次々と開店している。自転車の受国内での普及率はきわめて高く、国内総世帯に対する比率は83%近いといわれている。しかし、エコ(環境)・健康志向、自動車離れなどが重なって、新たな需要が掘り起こされているようだ。

 自転車の復活は、ほとんど世界的な風潮のようだ。グローバル危機の拡大は、世界規模で自動車の大幅かつ急速な販売低下を生んだ。自動車販売、そして生産の減少は、先進国のみならず新興国へも波及している。ガソリンに代わる代替エネルギーによる電気自動車などの開発、普及には、まだかなりの年数を要するとなると、公共輸送機関の充実や自転車などの普及によって、省エネルギー化が進むのは望ましいことだ。

 
 自転車ブームの背景には数多くの要因が働いている。省エネルギー、省スペース、経済性、健康・スポーツ、通勤・通学手段など、さまざまな動機が考えられる。自動車に比較すれば、格段に人にやさしい乗り物であることは確かだ。若者の自動車離れも進んでいるようだ。

 ただ問題がないわけではない。日本は自転車専用レーンも少なく、安心して走れる道は少ない。自動車文明が生み出したマイナス面でもある。自転車は車道の端を走行しなければならないので、常に危険がつきまとう。自動車ばかりでなく、歩行者との接触の危険性もいたるところにある。放置自転車の問題も再燃し始めた。

 マナー違反も目につき、さまざまな危険性が潜んでいる。後方から高速で追い越してゆく自動車、オートバイ。最近の車はエンジン音が小さいので、自転車にバックミラーをつけていても、注意していないと危ない。

 自転車の乗り手側にも問題が多い。薄暗くなって視界が悪くなっても、点灯しない。ケータイをかけながら蛇行して走る若者。子供や高齢者が歩いていても、減速、徐行しないなど、ルール違反が目に付く。せっかくクリーン・エネルギー化の一端を担う自転車ブーム。マナー、ルールを守って育てたいものだ。

 自転車に乗るだけで、新しい世界を垣間見た思いがした。

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スターの表情:演技と素顔

2009年02月18日 | 雑記帳の欄外

 偶然、ゴールデン・グラブ・アワード(GGA)の授賞式の中継を、ABCニュース*で見た。いつも、この時期に開催されるようだが、特に関心もなく、これまでは見たことがなかった。誰が最終的に受賞するかは、ハリウッド外国人記者クラブ会員の無記名投票で決まるらしい。投票結果は、金庫に厳封されて、授賞式会場で発表の瞬間までは公開されないとのこと。

  華やかな会場で、着飾った多数のスターやその家族、関係者たちが見つめる中、次々と受賞者が発表される。名前を告げられた受賞者はそれぞれに驚きや喜びの表情でステージに上がり、感謝の言葉を述べる。  

 出席している受賞候補者は自分が候補 nominees に上っていることくらいは予期して出席しており、受賞の栄誉を受けた時のスピーチなどをあらかじめ頭に置いているであろうことは十分予期できる。各賞4人の候補がノミネートされた後、最終受賞者の名前が読み上げられる。最終的に受賞者として選ばれた瞬間の表情や、直後のスピーチが大変興味深かった。

 いうまでもなく、TVカメラなどなんとも思っていない業界人であり、演技と実際の感動の境界がどのへんにあるのか、なかなか見極めがたいのだが、それにしても面白い。始めての受賞者の中には感極まって、涙ぐんだりする人もいたり、あらかじめ感謝する人々を書き留めてきて読み上げる人もいる。他方、過去に受賞やノミネーションを経験しているスターたちは受賞慣れ?していて、当然ながら落ち着いている。受賞するのは当たり前という表情すらうかがわれる。  

 いずれもきわめて個性的で、人に訴えるスピーチとはいかなるものであるかが、よくわかる。全体として、感情を率直に表すスピーチが印象的だ。大スターたちは、こうした儀式には慣れていて平然としている。会場を手玉にとっているような感じさえする。しかし、それでも主演女優賞を受けたケイト・ウインズレットの場合は、会場とのやりとりなどが印象的だった。イギリス人とアメリカ人の差なのかもしれないとふと思った。かつて、いまや大女優として圧倒する風格のヴァネッサ・レッドグレイヴについても、同じような印象を受けたことがあったが、ケイト・ウインズレットの場合は、今後どんな変化をみせるのだろうか。 

 印象が強かったのは、「セシル・デミル賞」を受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の受け答えだった。大物監督の話だけに、この時だけは会場は静まりかえっていた。この監督は早撮りで知られるが、そのわけを推測させる答があった。監督は、セットやリハーサルなど映画の伝統を重んじながらも、インスピレーション(ひらめき)を大変大事にしているという。鉄道模型を使った衝突場面などでも、迫真力をもって撮れるか、不安感がつきまとうことが制作の緊張感となるようだ。あまり何度もリハーサルをすると、そうした緊迫が劣化するらしい。インスピレーションが生きている間に撮影するということなのだろう。いまさら賞など、どうでもいいという感じも見せたが、並みいる
関係者が静かに聞き入るほど、大物監督の重みを十分感じさせた。


ABCNews BS2 2009年2月15日

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光と闇の狭間に

2009年02月01日 | 雑記帳の欄外

Nancy, Musee des Beaux-Arts
Photo:YK



 ブログというメディアは、アトランダムなメモや簡単な意思伝達の手段としては優れているが、ひとつのまとまった思考やストーリーを整理したり、伝達するには適当でないことが分かってきた。プロヴァイダーによって違うのかもしれないが、一回の字数も上限があって、たちまちオーバーしてしまう。多くの興味深い問題が行間に落ちてしまうのだ。面白いことは、細部に入るほど増えるのだが、細切れにすると、思考の糸が途切れてしまうことがしばしばだ。

 このブログに記しているようなことは、数式のように簡潔に意図を伝えることはほとんど不可能だ。もともと限界は承知の上で始めでしまったのだが、ここまで来ると、対応も一苦労になってきた。ある程度の断片を積み重ねて、その熟成に委ねるしか道はなさそうだ。果たして熟成するのかも分からないのだが。

 戦争、疫病、呪術、貧困、荒廃が支配した17世紀の世界を生きたひとりの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、なにを頼りとして、したたかに生きたか。彼の作品と世俗の振る舞いは、あまりにもかけ離れていた。その舞台であったロレーヌ、フランスあるいはより広いヨーロッパ世界は、簡単には理解できない。美術館で作品だけを見ていたのでは、およそ分からない広大な世界が背後に広がっている。

 この時代のロレーヌというヨーロッパの小国の風土は、グローバル不況に恐れ,慌てる現代の日本と比較したら格段に過酷なものであった。頼りにすべき世界像もほとんど見えていない時代だ。人々は次々と押し寄せる苦難の中で必死に生き、あるいはそこから脱却しようと、神を求め、魔術・呪術にすがり、占星術や錬金術に期待し、富、栄誉、権力を追い求めた。そのしたたかさは、現代人のひ弱さとは比較にならない。彼らは、不安と絶望に打ちひしがれた日々を過ごすなかで、時折雲間から射し込む一筋の光が生み出す平穏な時を楽しんでいた。

 この不安に満ちた時代、どうしたら前方にかすかな光を見ながら、時々は生まれてきてよかったと思い、日々を過ごすことができるだろうか。とりわけ若い世代の人たちに、少しでも伝えられることがあるだろうか。こんなことを考えながら、「変なブログ」はここまできたのだが。  

   

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ハドソン河の奇跡

2009年01月18日 | 雑記帳の欄外

ハドソン河遠望(ウエスト・ポイント付近)


  このたびのニューヨーク、ハドソン河での航空機事故と全員無事救出という奇跡的な出来事の報道をみていて、大変感動した。第一は、いうまでもなく、機長の沈着、冷静な判断だ。素人からみれば、管制塔から指示されたニュージャージーの空港に着陸できないとなれば、次の目標はハドソン河の河口付近、大西洋かと思ったのだが、機長は着水後、迅速な人命救助が最も期待できることまで考え、ハドソン河下流を選択したらしい。双方のエンジンが機能しなくなった上に、満席状態の航空機をとっさの判断で、冷静に操縦し不時着させた。ハドソン河は橋梁も多く、航行する船舶を回避しながらの着水は、見事としかいいようがない。航空機史上、特記される出来事との航空評論家のコメントがあったが、「ハドソン河の奇跡」miracle of the Hudsonは長く語り継がれるに違いない。

 今回の出来事について、別の点で感動したのは、不時着した航空機の乗客救出に沿岸警備隊ばかりでなく、現場付近を航行していた多数の民間の船舶が迅速に協力したことである。最初に事故機に到着したのは、
サークルラインという名で知られるハドソン河の観光フェリーだった。このフェリーは、その名の通り、ニューヨークのマンハッタン島をぐるりと一回りする観光ラインとして知られる。初めてニューヨークへ行った時、そしてその後も何度か乗船したことがあり、思わぬことでその名を思い出した。不時着の連絡を受けて、なによりも人命救助を優先させて直ちにフェリーを救出に向かわせることにしたとの船主の話に、感動した。TVで見ると、沈み行く機体の周囲で数隻のフェリーが救出に当たっていた。このフェリーもハドソン河の歴史に名を残すだろう。

 そして、沈み行く機体からの脱出に際しては、子供、高齢者が優先されたようだ。パニックになることなく、今回の全員救出につながった。これも素晴らしいことだ。

 思いもかけないことで、ハドソン河にかかわるさまざまなことを思い出した。かつて、この流域の美しさに魅せられ、友人と旅をしたことがあった。ハドソン河を遡り、モホーク河に入り、エリー運河、オスウエゴ運河を経由して、オンタリオ湖に入った。さらに別の機会には、セントローレンス河を下るという旅を試みた。これらの河川の流域には、開拓時代からのさまざまな史跡が残り、美しい景観に恵まれた地域である。とりわけ、ハドソン河の開発、エリー運河掘削、セントローレンス河の探検については、大変興味があり、出来ればもう一度試みてみたいと思っているほどだ。今はとにかく、この不幸中の幸いを喜びたい。一番ほっとしているのは、就任式を目前にしたオバマ新大統領だろう。

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謹賀新年2009

2009年01月01日 | 雑記帳の欄外

謹賀新年

心豊かに過ごせる年となりますように





写真は昨年に続き、友人E.R.氏の作品「双耳の鹿島槍ヶ岳と白馬鑓ヶ岳」を掲載。

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新しい年へ力をもらう(2)

2008年12月28日 | 雑記帳の欄外

Photo:YK 


 Eメールの時代、送受するクリスマスカードの数はすっかり減ってしまった。それでも毎年楽しみにしている何枚かがある。メールにはない手書きの文字の暖かさ、人間味が伝わってくる。そして、いつもなにか力づけられる。

 昨年、ブログに記したことがあるカナダの友人の手紙(新しい年へ力をもらう)は、今年も大きな感動を与えてくれた。腰部に障害があり、昨年まで自立歩行が困難であったこの友人は、今年何度目かの手術を受け、なんとか立てるようになったのだ。長らく勤めた大学を引退後、まったく異なった領域である園芸に生きがいを見出した彼は、水を得た魚のように大活躍!今年は手術後のリハビリを兼ねて、なんとスペインまで旅をしたとのこと。昨年は庭園や植物改良の情報を得るために、車椅子でロンドンのキューガーデンを見に行っている。

 レバノンで復興支援の活動をしていた息子が帰宅した折、念願のファウナ(ある地域・時代の動物相)
創生の一端として、馬の放牧地を作ったとのこと。今年は広大な草原の一部を木柵で囲むことができ、自由に馬を遊ばせていると伝えてきた。狭い厩舎から出ると、馬も自然に戻り、生き生きとしてくるらしい。元気のない人間はどうすればいいのだろうか(笑)。

 今年は別の友人からの手紙にも、大きな驚きと喜びが満ちていた。この人はアメリカで長らく小さな会社の経営に当たっていた女性だが、数年前に退職し、友人(この方も女性)と二人でNPOを立ち上げた。今は二人とも70歳近い。このNPOは、さまざまな理由で、精神的にトラウマ(大きな心的外傷、Traumatic Brain Injury )を負った人たちのケアに当たることを活動内容としている。いくつかの話から想像するに、それ自体とても大変な仕事である。職業上の資格も要求され、開設自体容易ではない。スタッフの養成、管理も必要だ。

 実は、このNPOの二人の中心人物が共に、言葉に言い尽くせないトラウマを負っていた。その出来事自体が衝撃的であった。かなりの時が経ったので、記してもよいだろう。ある偶然の機会にそのことを知ったのだが、10数年前、フロリダに引退していた彼女の母親(一人暮らし)が、ある日自宅で何者かに殺害され、金品を奪われていた。警察捜査の結果、逮捕された犯人は、いつも庭の芝刈りを頼んでいた隣家の若者だった。母親はこの若者を大変信頼していたらしい。そして、母親思いだった娘である友人の悲しみは想像に余るものがあった。しかし、彼女はそうしたことをほとんど誰にも話さず、癒しがたい心の傷を負った人たちを救おうとこの活動を始め、社会人として立派な仕事をしてきた。そして、今年その活動に対して、連邦政府から表彰を受けた。

 彼女の良きパートナーとして、このNPO活動を続けてきた女性も大変素晴らしい人物だ。しかし、数年前に彼女も大きな事件で衝撃を受けた。それでも立ち直り、立派な仕事をしてきた。しかし、さすがに今年は重圧に耐えかねたのだろう。1年間仕事をオフにしたという。それでも裏側でしっかりとパートナーを支え、お祝いのパーティなどを内緒で企画し、人々を感激させた。皆がお祝いに贈ったものは、最新のマウンテン・バイクだった。

 アメリカという国、決して住みやすい国ではない。とりわけ、この数年は国力が低下、国論が分裂するほど荒涼たる精神世界が展開してきた。これまでのクリスマスカードにも、その一端がいつも記されていた。しかし、今年のカードは喜びと希望で溢れていた。オバマ効果もあるかもしれない。しかし、それだけではないように思えた。カードは次のように結ばれていた:

「新年は必ず良い年になると確信してます。次の世代のために、緑溢れ、平和で素晴らしい世界になるように力を貸してください。」 

We are definitely more optimistic about the coming year.  I hope you will join us in working to create a greener, more peaceful and more loving world for the next generation! 

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「変なブログ」のこちら側

2008年12月23日 | 雑記帳の欄外

「変なブログ」のこちら側 This Side of a Strange Blog

  ブログ界の主流とは遠く離れた、この「変なブログ」、なんとか今日まで続いてきた。元来、管理人の老化防止策を兼ねたメモ、備忘録代わりが目的だから、とりあげるトピックス、内容ともにきわめて偏っている。初めてアクセスされた方には、なんのことか分からないでしょう。友人の一人の感想:「なにかごちゃごちゃ書いてるなあ(笑)」(ご指摘のとおり!)。

 記事を書いている本人以外には、テーマの選択、脈絡が分かりにくい。そのためもあってか、訪問者数に比してPV(閲覧)数がやたらと多い。記事作成が比較的柔軟にできるのは、ブログというメディアの長所ではあるが、限界もある。短く簡潔に書くというのが、ブログの鉄則?のようだが、最初から無視している。元来メモ代わりなので、他人にとっては役に立たないつまらないこと、瑣事も、しばしば記すことになる。

 17世紀の画家の世界と、移民労働者のような現代の問題を、どうして一緒に扱っているのか。その意図をある程度分かっていただくには、ブログ内情報の蓄積がある水準に達するなど、かなり熟成の時間が必要だと思っている。世の中には、言葉を尽くさないと話し手や書き手の意図が伝わらないことも多い。対面して話をしていても、こちらの意図がまったく伝わっていないと思うことはしばしばある。ブログの限界も見えてきて、そろそろ閉幕の時なのかもしれない。

 もともと、確たる見通しがあったわけではない。ブログを開設する時から、どんなことになるのか皆目見当がつかなかった。そこで自分なりにワーキング・ルールを作ってきた。

 1)ひとつの記事について、資料の確認などもふくめて、PC関連作業に一日2時間以上は使わない。視力も低下し、入力ミスも増えた(大体は電車の中や歩いている時などにトピックスを思いつくので、入力は30分もかからない。)
 2)考えがまとまらない日や忙しい時はなにも書かない。日記代わりにするつもりは当初からない。

 3)自分からトラックバック、リンクなど、面倒なことはしない(これは試行錯誤の結果で、当初は少し試みたのだが)。

 要するに、マイペースで書きたいことだけをメモに書き、書くことがなくなったり、意欲がなくなったら直ちに閉鎖するつもりだった。その点は今も基本的には変わらないが、多少困ったこともできた。 ブログでしか得られない、思いがけない出会いが生まれたことである。めったに会わない友人よりも、近い関係のような方もおられる。不思議なご縁だ。「袖振り合うも多生の縁」「一期一会」と思うのだが、IT上では「袖振り合っても」、分かりませんね。

 新年は多難な年になることは、ほとんど確かなものになってしまった。かねてから「見るべきものは見つ」という思いもしているのだが、もう少しだけ、行方を確かめてみたい気もしてきた。
  

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ストラスブールの講談

2008年11月30日 | 雑記帳の欄外

 フランス語で講談ができるなんて考えもしなかった。ユニークな女講談師神田紅がフランス、ストラスブールで試みた短いTV番組*を見た。日仏交流150周年記念行事のひとつとして、神田自身が考えたらしい。

 演題は「マダム貞奴」だった。貞奴(川上貞奴、明治4年ー昭和21年)は元来売れっ子の芸妓であったが、自由民権運動の活動家で、書生芝居の興行主でもあった川上音二郎と結婚し、波瀾万丈の人生を送った。経済的に急迫した川上一座とともにアメリカへ渡った後、ロンドン、パリなどで公演し、大成功を収めた。帰国後、帝国女優養成所を設立。日本の女優第一号といわれる。この貞奴の人生、なにかの折にその一部は聞き及んでいたが、ドラマ以上に劇的だったようだ。明治の人の構想、気概の大きさを思い知らされる。
 
 神田はこの試みを実現するために、フランス語を特訓したらしい。紅の衣装に身を包んだ踊りも含まれていた。昨今、日本でもあまり聞くことのない講談だが、フランス人にはどう受け取られたのだろうか。フランス帰りした「貞奴」は、再び好意で迎えられたようだ。ロレーヌ探訪の途上訪れたストラスブールの光景が意外なことでよみがえった。


* 「講談師神田紅、フランス公演」2008年11月28日 NHKBS1 23:00 

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心の障壁を崩すもの

2008年11月27日 | 雑記帳の欄外

 現代の日本人にとって、信じる宗教の違いのために、お互いに融和せず、反発し、憎みあい、果ては戦争状態となるという状況は、なかなか理解しがたい。イスラエル・パレスティナ問題あるいはイラク問題にしても、その根底にある相互不信の原因を正しく理解することはかなり困難だ。多くの場合、説明を聞いても、単に分かったような錯覚を得ただけに終わることが多い。

 カトリックとプロテスタントの対立のように、16世紀あるいはそれ以前から続いている問題も少なくない。最近このブログで話題としている17世紀オランダの宗教対立もそのひとつだ。今日のメディアは、インド、ムンバイの同時多発テロ事件を伝えている。

 たまたま北アイルランドで対立するプロテスタントとカトリックの人たちがお互いの不信、憎悪の源を話し合うため、あるNPO組織の仲介によって、スコットランドの自然の中にある宿舎で共に数日を過ごすという番組*を見た。「北アイルランド問題」といわれる根深い対立の当事者たちである。参加者のそれぞれが息子や親が相手方の武装組織によって銃殺された、あるいは殺したために収監されていたという複雑な過去を持っている。  

 憎悪が憎悪を呼び、重なり合ってさらに増幅するという関係が生まれている。旅に参加したものの、お互いに心の底を打ち明けて話し合うという場面は、なかなか生まれない。息子二人を殺されたカトリック信者の父親が、殺したプロテスタント・武装グループの一員であった男と真に理解し合うというのは、およそ難しいことだ。ただ、口をつぐんで座っている時間が過ぎる。  

 しかし、静かな自然の中で、参加者は少しずつではあるが、心の深部にあることを口にするようになる。最初は単なる憎悪のぶつけ合いに過ぎない。しかし、あるルールの下に興奮を沈め、一人ずつ落ち着いて発言を重ねるうちに、それぞれが抱く深いわだかまりが、少しずつではあるが解けてきたようだ。さまざまな思いが行き場を失って、全員が泣き腫らしたような目をしている。  

 そして、いよいよ宿舎を去る最後の日、それまで話し合うことすらしなかった二人の間に、かすかな交流の兆しが生まれる。それぞれが、お互いの立場を少しずつ受け入れる場が生まれつつあるようだ。問題氷解というには、あまりに遠い状態ではある。しかし、最初に宿舎に着いた時の相互不信に満ちた目は、いつの間にかなくなっていた。解決には程遠いが、なにかが変わってきた予感がそこにあった。 


*「北アイルランド対話の旅」 2008年11月26日 NHKBS21:00

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子供の声が聞こえる空間

2008年09月07日 | 雑記帳の欄外

    週末の夕刻、健康維持の意味も兼ねて、近くをサイクリングする。この数年、明らかに変わってきた光景がある。散歩やエクササイズをする人たちの数が増えてきたことである。健康志向の生活スタイルは歓迎すべきだが、圧倒的に高齢者だ。杖をついてゆっくり歩いている人も多い。孤独な影が濃く、斜陽の道を下る日本の姿が見え隠れする。

    他方、公園などで子供たちが元気に遊ぶ空間は、生き生きとしている。ボールを蹴り、走り回る。にぎやかな笑い声が響き、見ている方も楽しくなる。子供たちはこれからの社会にとって宝物的存在だ。

  高齢者と同時に、目につくようになったのは、ペット、とりわけ犬に散歩をさせている人々の姿だ。犬に連れられて歩いているようなお年寄りの姿も目立つ。かつてのように犬が元気に人を引っ張ってゆく光景は少なくなった。犬も飼い主に合わせてゆっくりと歩いている。犬も人間も活力が乏しい。

  日本の2006年時点での推計飼育数犬は、6245万頭、他方、猫は55万匹だそうだが、全人口のほぼ18%に相当する。空前のペットブームといわれるが、動物に癒しを求め、孤独に老後を生きる姿はさびしい。

  子供の育て方を知っている高齢者の力を借りて、元気な赤ちゃんや子供の声が聞こえる地域再生ができないものか。高齢者も子供も一緒に過ごせる新しいタイプのデイケア・センターなどが増やせないものだろうか。心豊かに日々を過ごせる社会の実現。身近なところから考えたい。

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消える現実・消えない記憶

2008年08月14日 | 雑記帳の欄外

  世界は広いようで狭く、驚かされることが度々ある。それを思い知らされるのが、最近のIT技術の進歩だ。ラ・トゥール遍歴を始めた時に、最初にロレーヌの旅の拠点としたのは、ドイツのザールブリュッケンであった。フランス国境に近く、フランス語ではサールブリュックと呼ばれている。アメリカでの修業時代から終世の友人となったK夫妻が、アメリカから帰国後住んでいた。ベルリンでの仕事を離れたこの友人は、ザールブリュッケン大学で教壇に立っていた。訪れると、ほとんどは自宅に泊めてくれたのだが、当時は夫妻に子供が生まれたばかりだったので、ホテルの方が静かで休めるだろうと、最初は市内のホテルを予約してくれた。

  先日、身辺の整理をしていた時に、当時の旅の宿泊カードが出てきた。時代は遠く1970年代のことである。しかし、不思議なことに記憶は新鮮に残っていた。ザールブリュッケンはまだドイツ経済を支える重要な工業・鉱業都市として、活気が残っていた。サールランドの中心地として、鉄鋼と石炭が主要な産業だったが、周辺には機械や陶磁器などさまざまな産業があった。しかし、その後、鉄鋼、石炭ともに衰退の途を辿った。

  当時宿泊したこの小さな家族的なホテル(Hotel am Staden, 66 Saarbrűcken, am Staden 18)はその後も宿泊したことがあり、雰囲気も良く覚えていた。このホテルのその後を知りたいと思い立ったひとつの契機があった。ブログでたまたま私のラトゥール遍歴記事を読んでくださった日本人の主婦の方が、ロレーヌのメッスに住んでおられることを知った。それだけでも驚くことなのだが、大変楽しいブログを開設されており、コメントをくださった。ロレーヌに関心を持ち、ほとんど知られていない小さな町や村を探索している日本人がいることに驚かれたらしい。そして、最近、ザールブリュッケンを訪れた記事を書かれていた。

    地理に詳しい方は思い浮かべることができようが、フランス側のメッスと、ドイツ側のザールブリュッケンは指呼の距離である。ザールブリュッケンは、かつてパリ滞在当時に何度も通った懐かしい場所であり、市内の地理もよく覚えている。メッスはラ・トゥール遍歴の最初の方で記したこともあるが、モーゼル川とセイユ川の合流点に位置しており、17世紀初めは、ラ・トゥールの生まれたヴィック=シュル=セイユにも大変近い所に位置している。ヴィックはメッス司教区のいわば飛び地領だった。


ザールブリュッケン、ホテル宿泊カード

  IT技術の進歩によって、Google の地図検索で、ホテルの場所から周辺の光景まで最新のイメージを確認することができる。一寸怖いくらいである。まだ存在すると思っていたホテルだが、残念ながらもう営業していないようだ。しかし、周辺の風景はほとんど変わっていない。ザール川にかかる古い石橋もなつかしい。

  ついでのことと思い、先日記事に書いたパリの凱旋門に近いバルザック通りのホテル・セルティックも検索してみた。便利な場所だったので、こちらも一時期定宿にしていた中規模な4星ホテルであった。名前から推定されるように経営者に、アイルランドの人が関わっていたのだろうか。白い壁と窓枠などが緑色の縁取りが印象的な清潔なホテルだった。こちらも検索すると、ホテルは別の名称になっているようだ。最近は、パリへ行ってもサンジェルマン近辺のホテルに宿泊するようになっており、エトワール周辺はあまり訪れなくなっていた。その間に変わってしまったのだろう。

  これまで宿泊し、なじみのあるホテルをいくつか検索してみると、多くは現存しているが、名前の変わっているものも少なくなく、ホテル業界の変化、とりわけチェーン化の進行が著しいことが感じられた。

  普通、現実は歴然として存在しているにもかかわらず、記憶の方が次第に薄れるのだが。今度は、記憶はかなり鮮明に残っているのに、現実が大きく変わってしまっている。なにごとも栄枯盛衰は避けがたいのだが、こうなると浦島太郎のような感じになる。誰も知らなくなる事実を多少なりとも留めるために、記憶細胞が生きている間に、少しでも書いてみようと思っている。

  


 

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酷暑を避けてのサイクリング

2008年08月10日 | 雑記帳の欄外

  酷暑の日が続く週末の夕方、運動不足の解消にと自転車に乗る。日中は30度を越えて、とても日向にはいられないほどの暑さ。日かかげり、日没間もない頃、できるだけ深い緑がある地区を選んで走る。幸い、50キロ四方くらいの地域に、いくつかの大学キャンパスや大公園が散在している。その中から、1,2を目標にコース設定をする。といっても大げさなものではなく、その日の気分や体調に応じて、適当な候補地を選ぶ。一回に走る距離はせいぜい15キロから20キロだ。

  止まっていると淀んで暑苦しい空気が、ほどよい爽やかさに変わる。大学周辺は休暇に入り、人通りが少ない。普段はマナー無視の車やバイクが多いので、敬遠しているところもある。グラウンドにはさまざまなスポーツを試みている若者たちの姿が見える。中高年の市民がストレッチやジョギングなど、思い思いにエクササイズをしている。サッカーのプライベート・クラブもある。土日などは子供たちの練習試合もあり、多数の親たちがピクニック気分で練習風景を見ている。歓声が響き、楽しげな光景だ。しばし、自転車を降りてその様子を眺める。

  乗っている自転車といっても、「NHKTVドイツ語講座」に出てくる自転車屋さんのような格好良い車ではない。いわゆる「ままチャリ」といわれるシティ・バイクに、安全装置だけ過剰につけた変な車だ。バックミラー、光量調整がワンタッチでできるヘッドライト、車輪で駆動するバッテリーライト、点滅する大きなテールランプ、速度、累積距離などが測れるサイクル・コンピューターまでついている。変速ギアは3段しかない。今日、累積距離をみたら1200キロを越えていた。サイクル・コンピューターをつけてから2年くらいだが、思いの外走っていた。

  ガソリン価格の高騰が始まってから、顕著に変わった光景は、新しい自転車が急速に増えたことだ。クロスバイク、マウンテンバイクなど、見栄えのする車が多い。多段の変速装置やバッテリー駆動装置までついている車も増えた。外国ブランドの車が非常に増えたことに気づく。通勤・通学手段を自転車に変えた人も多いようだ。町に1軒しかない自転車屋さんは見違えるように忙しそうだ。省エネルギー型生活への転換が、ここでは着実に進行していることを実感する。

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「師」は「士」より上?

2008年08月07日 | 雑記帳の欄外

  
    今月からインドネシアの看護師・介護福祉士の受け入れが始まった。これも、実態が当初の予想とはかなり異なっている上に、受け入れの制度自体も不透明さが解消されないままであり、多くの不安要因がある。第一陣はすでに日本へ到着した。しばらく注視するしかない。
 
  それはともかく、男性の看護師が増えてきたこともあって、看護婦の名称は中立的な「看護師」と改められた。看護士は看護婦に相当する男性とされているようだ。縁あって、看護学校の入学式や戴帽式に出席する機会があった。最近では1~2割は、男性の入学者である。もっとも入学式などでは、「女性の園」での黒何点?、なんとなく居場所が見つからないようでほほえましい光景もあるが、すぐに慣れるのだろう。病院などでは、患者の移送や機械器具の操作など、力仕事も必要な場合も多いから頼もしい感じがする。

   しかし、「介護福祉士」は、介護福祉師ではない。なぜ、医療・看護・介護の分野に従事する人たちの職名が「師」であったり「士」であったりするのか。「看護師」が男女共通に「看護士」であってはならない理由も、あまり説得的ではない。「介護福祉士」は、現に男女の別なく使われている。「美容師」、「弁護士」など、古くから使われている呼称もある。


  ある時、厚生労働省関係の人から、「看護師」の方が「介護福祉士」より要求される技能水準が上であり、それを区別する必要があるとの説明を受け、大変違和感を持ったことがある。看護であれ、介護であれ、人と接触・対応する仕事は、専門的知識・技能に加えて、表情や言葉の断片から心身の状態を推察したり、要望に対応したり、高度な経験を必要とすることが多い。職業に最初から順位を前提としない方がよいと思うのだが。お役人の思考は違うようだ。もっとも「公僕」civil servants などという言葉は、とっくに死語になっているのだから無理もないが。

  たまたま看護師となった男性のA君から、「ナース」と呼ばれるのは内心、抵抗感があるという話しを聞かされた。ナースの○○君と呼ばれると、一寸たじろぐことがあるという。男性看護師の誰もがそう感じているかどうかは分からない。英語のnurse は普通は女性を指すが、男性も含むことにはなっている。nurse は長らく女性の職業とされ、男性は看護兵など、かなり限定されていた名残である。  

  スチュワーデスが、フライト・アテンダントやキャビン・アテンダントになったのはさほど抵抗なく、受け入れられてきたようだ。しかし、「ナース」の場合は、外国ではどうなのだろうか。日本社会では、人によって思い浮かべるイメージも異なり、しばらく特別の感覚がつきまとうのだろうと思う。A君には男性優位の職業では、女性が同様に抵抗感を感じるはずだよと言ってはおいたが。

  別の例として、以前に教えた学生(女性)が会社員から「大工」さんに転身したいという相談を受けて、一寸驚いたことがあった。「大工」と聞くと、どうも「男の職業」という先入観が強かった。しかし、話を聞いてみると、しっかりとした職業展望を持っていて、一般事務職よりも技能が身に付き一生続けられる大工の仕事に挑戦したいという。一般に「男性の職業」は賃金水準などが高いことが多く、そこに女性が参入すると、しばしば有利なことも分かっている。女性らしい(というと語弊があるかもしれないが)丁寧な仕事、気遣いなどを生かせば、素晴らしい大工さんになるだろう。諸手を挙げて賛成した。今頃は職業訓練校を卒業し、いなせな大工さんとして、きっと活躍していることだろう。

  「格差社会」という言葉が流行語となり、労働者間の報酬などの差異拡大が問題になっている。世の中の差別現象は、法律などの手段ではなかなか解消できない。職業に貴賎なし。職名ひとつにも大事な意味があることをもう一度考えたい。



辞書的な定義によると、「看護師」は厚生労働大臣の認可を受け、傷病者などの療養上の世話または診療の補助をすることを業とする者。高校卒業後、4年制大学のほか、3年制の短大、看護学校等の養成機関を経て、国家試験に合格すると資格が与えられる。看護婦は女性の看護師。

「社会福祉士」は社会福祉専門職のひとつ。日常生活に支障がある人に入浴、排泄、食事その他の介護、指導を行う。1987年制定の「社会福祉士及び介護福祉士法」による資格。
(新村出編『広辞苑』第6版、岩波書店、2007年)

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