時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

歴史の軸を溯る(7):ピューリタン革命が生まれたところ

2021年03月20日 | 特別トピックス


ケンブリッジ周辺には、クロムウエルに関連する場所がかなりある。クロムウエルの実家があったイーリー Elyに加えて、クロムウエルの銅像が立っているセント・アイヴス St. Ives 、クロムウエル博物館のあるハンティンドン Huntingdon がある。いずれもケンブリッジから車で30分程度でゆける人口2万人前後の小さな町である。

セント・アイヴスはケンブリッジ、イーリーに続く街道を通って行く。ハンティングドンもその先の隣町である。この辺りは、若い頃に西洋経済史が専門だった恩師のひとりが講義などで常々話題とされていたので、一度は訪れようと思っていた。ケンブリッジにしばらく滞在していた時に、友人を誘ったりして2、3度出かけた。

日本のように道路標識が至るところに目につく国と違って、イギリスは標識が極めて少ない。うっかり見逃してしまうと、かなり先までいってしまう。時々方角を見失った。カーナビもなかった時代、途中経路の村や町など、目印をメモに書き出して出かけることもあった。

ピューリタンのシンボルとして
セント・アイヴスの町の中心 マーケットヒルMarket Hill には、オリヴァー・クロムウエルの等身大の像が立っている。イギリス国内に4カ所ほどクロムウエルの銅像があるそうだが、そのひとつがここに建てられている。クロムウエルが若い頃、エンクロージャー(領主・地主階級が牧羊業や集約的農業を行うために、共有地であった牧羊地などを囲い込み、土地の共同権を排除し、農民が入れない私有地としたこと) に対して、農民の側に立ち、地主たちと戦ったことを感謝、記憶するため、後年農民が自分たちの恩人として1901年に銅像を建てている。印刷された聖書を手にした像は、ピューリタンの新しい生き方を示しているようだ。



小さな町ではあるが、こうした歴史的な場所として、観光客もそれなりに訪れる。町を流れるグレート・ウーズ川 the River Great Ouseには特徴ある橋がかけられていて、白鳥が多数、遊んでいた。この橋は市民戦争の時、クロムウエルがチャールズ 一世の軍隊と戦った時に一部を破壊し、後に再建造された。

ハンディンドン:クロムウエルが生まれた土地
セント・アイヴスから川と並行した道を行くと、まもなく丘の上に町があるハンディンドン Huntingdonが見えてくる。沼沢地が多いこのあたりでは珍しい天然の城塞のような位置にある。ここは1599年クロムウエルが生まれ、家族も住んだ場所でもあり、記念してクロムウエル博物館がある。色々興味深い展示物があるが、クロムウエルの使っていた例の特徴ある広いつばのフエルトの帽子や薬箱、そしてデスマスクもある。興味を惹いた遺品のひとつは、薬箱だった。身体が強健ではなかったクロムウエルは、特に晩年マラリアなどさまざまな身体の不調に苦しんだようだった。薬箱は16世紀、ドイツで作られた精巧で頑丈な物だった。

クロムウエル博物館入り口

クロムウエルは指揮者としても大変有能で、従来の軍隊を再編し、ニューモデル・アーミー(新型軍)として知られる組織の整った軍を作り出し、王党派の騎兵を次々と破り、1645年のネーズビーの戦いでは王党派に壊滅的な打撃を与え、チャールズ一世は議会派に捕らえられて処刑された。議会派の中心となっていたクロムウエルは、指導者としてイングランド共和国の独立を宣言し、共和制(コモンウエルス)を実現し、ピューリタン革命(1642~49年)を成功に導いた。



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N.B.
その後、クロムウェルは 1653年に軍と対立したランプ議会を解散、続けて成立させた 議会も急進派による改革で混乱が生じると解散、国王の座への就任を断り、王権に匹敵する最高統治権が与えられる護国卿(護民官)となった。軍事独裁体制を強化していった。アイルランドを侵略し、実質的な孝王となっていった。1658年 にはフランス・スペイン戦争で英仏連合軍がスペインに勝利した。

1658年にクロムウェルは インフルエンザ(マラリア説もある)が原因と思われる病で死亡し、 ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子の[リチャード・クロムウェルは翌1659年に 第三議会を召集したが軍の反抗を抑えきれず、議会解散後まもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろし1660年、王政復古した。

その後、長老派が 1660年 にチャールズ2世を国王に迎えて 王政復古を行うと、クロムウェルは墓を暴かれ、遺体は 刑場で絞首刑の後斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された。その後、母校であるケンブリッジ大学の シドニー・サセックス・カレッジ]に葬られた。数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は必ずしも定まっていない。

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ピューリタン革命という市民革命だが、歴史書の文字面で理解するのとは異なり、時代を遡り多くの生々しい遺品や記念物を目の当たりにすると、どこからか馬の蹄の音や撃剣の響きが聞こえてくるような気がする。ケンブリッジとその周辺(ケンブリッジシャー)は、単なる学問の地にとどまらない、歴史が生きているところという思いが迫ってくる特別の場所である。


夕暮れのセント・アイヴェス                                                                    Photo:YK


続く
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​歴史の軸を遡る(6) イーリーの輝き

2021年03月13日 | 特別トピックス



(前回の続き)イーリーまで来ながらこの地の壮麗な大聖堂 cathedralのことに触れずにいないわけにはゆかない。この大聖堂はその美しさと規模によって、世界中の教会関係者はもとより建築家や歴史家によって多くの尊敬と賛辞が与えられてきた。実際この壮大、華麗な大伽藍を目にすると、そこに注がれた人間のエネルギーと信仰の力の偉大さがひしひしと伝わってくる。

イーリーは現在でも人口2万人足らずの小さな町である。大聖堂の存在が地域を圧倒している。起源はノーザンブリアン王の妻エテルドレダ St Etheldredaが彼女の修道院を673年にこの地に建てたことに始まる。修道院は200年近く栄えたが、デーン人によって滅ぼされた。しかし、幸いベネディクト派によって970年に再建された。

現在の大聖堂の大きな輪郭は、1081年ロマネスク及びノルマン建築の流れを汲んで構想されてきた。その後長い年月をかけて、拡大と再構築の努力が続けられた。

1996年に「大修復」”Great Restoration” が、1200万ポンド以上の資金を投じて始まり、2000年に完成した。かくして、大聖堂は21世紀を新たな威容を持って迎えることになった。この教会のひとつの特徴は、壮大な建築物と併せて、長年にわたり蓄積された建物装飾などの教会美術、さらに音楽、とりわけ歌唱コーラスの充実で知られてきた。

1300年以上の年月を超えて、この大聖堂はイギリスのみならず、世界にその美しさと壮大さで知られてきた。 11世紀のカヌート王以来、歴代の王や聖人さらにはオリヴァー・クロムウエルにいたるまで多くの人々が関わり、その歴史が彩られてきた。

かつてこの地を訪れる度に書き記したメモもかなりの量になったが、しばらく放置しておいた間に記憶が薄れ、再現に時間がかかる。今甦る記憶の二、三だけ記しておこう。



Octagon の木材骨組み構造(単純化した構図)


Octagon

大聖堂はその美しく壮大な外観、ネイブ nave 身廊と呼ばれる正面入り口、拝廊 narthex から内陣 chancel までの長い空間の美しさ、さらに内部に入ると the Octagonと言われる八角形の塔(右下図中央円形部)の威容がみる人々を圧倒する。床から上空の先端まで40メートルはある。

そして、1349年に完成した大聖堂の一部であるレディ・チャペル Lady Chapelは、この形式の建築としては、イギリス国内でも最大の建造物とされ、その美しさと相まって世界中から人々が集まる所になっている(Lady Chapelは下掲図右上突出部)。




Lady Chapelの音楽


このチャペルはおそらく14世紀中頃につくられたと推定されているが、大変美しいことで知られている。

イーリーの大聖堂を訪れるようになってから何度目かのこと、一番奥まった所にあるレディ・チャペルを訪れた時のことである。小さなゴシック風のチャペルだが、大変魅力に溢れた一室である。大聖堂はこの地の宗教そして最大の観光の目標となっていながら、パリやロンドンのような大都市ではないこともあって、観光客の数は少ない。

このチャペルに入ったところ、どこからか、チェロの音が聞こえた。邪魔をしないよう静かに入ってみると、最奥の窓際でひとりの若い女性がチェロを弾いていた。多分音楽学校の生徒でもあるのだろう、楽譜を前に練習しているようだった。チェロの音は美しくチャペル一杯に響いていた。私たちが足を踏み入れた時には他には誰もいなかった。演奏の邪魔をしないよう、片隅でしばらく美しい旋律を楽しんだ後、静かに退室した。

ステンドグラス
この大聖堂は多くの美しいステンドグラスで飾られていたが、年月の経過とともに、さまざまな理由で破壊され、ほとんど残っていなかった

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N.B.
* イーリーに残るステンドグラスは封建期のものは少ない。残存しているもので最善と言われるのは Lady Chapel で見ることができる。この大聖堂が誇るものは、1840-60年代のヴィクトリアン・グラスと言われる多数の作品であり、その多くは司教座聖堂参事会員CanonであったEdward Sparke が司教であった父親の遺産を寄贈したものである。1845年、エドワード・スパーク の尽力で、教会全体にかつてのステンドグラスの輝きを取り戻したいとの願いが強まった。そして、その後世界中からの多くの寄付、募金などによりその願いは実現した。
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ステンドグラスなどによる教会全体の改修、整備はその後も続き、今世紀になっても継続した。



1972年にはステンドグラス博物館が建造され、全国そして海外の教会で改修や取り壊しなどで不用とされたステンドグラスがここに集められ、展示されるようになった。貴重なものは、内外の博物館などから貸し出され展示されている。

さらに、この大聖堂の魅力は、長年にわたり蓄積されてきた教会音楽、特に聖歌隊の素晴らしさである。ステンドグラスを含めて長い歴史を感じさせる装飾美を鑑賞し、清麗な讃美歌を耳にしていると、世俗の世界の苦悩が洗い流されてゆく思いがする。

Reference
The Ely Cathedral Home Page:
https://www.elycathedral.org/

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世界の仕組みを理解する: 危機の時代の羅針盤作り

2021年01月27日 | 特別トピックス


Richard Haas, The World: A Brief Introduction
New York: Penguin Press, 2020       Cover


危機の時代に生きる
今世紀の初め頃から、世界はさまざまな天災、人災に脅かされることが多くなった。同時多発テロ、大震災、津波、地球温暖化、そして2020年の年初の頃から世界を脅かすことになったCovit-19のパンデミックなど、様々な危機的な事態が連続的に発生している。この時代が歴史上、「危機の時代」として後世に記憶されることはほとんど間違いない。

さらに幸にも新型コロナウイルスの世界的な感染が収束した後、いわゆる「コロナ後の世界」はいかなるものとなるだろうか、すでにおびただしい数の予測・ヴィジョンが提示されている。それも単なる占いのようなものから、世界の賢人ともいえる人々の将来構想のようなものまで、実に多種多様である。

それらのいくつかを読んでみた。それぞれが興味深いが、実際にそのような展開になるのか保証は全くない。このことは、新型コロナウイルスの世界的感染という危機の発生を誰も予測できなかったことからも明らかだ。さらに自然界と違って、人間は目前に不利な事象の発生が予想されると、それを避けるように行動する。そのため、予想とは違った結果が生まれることがある。

こうした不透明な状況の中で来るべき未来にいかに備えるか。極めて困難な課題ではあるが、現在の世界でそれぞれが立つ相対的な位置をできるだけ客観的に把握し、自らのあり方を確認することが求められる。

自分の力で考える
そのためには何を拠り所に求めればよいか。思考を整理し、構想するための手がかりをどこに求めたらよいか。世界に溢れている様々な予想や推測に翻弄されないためには、個人が自分の力で考え、思考、判断して自らの足元を見定めることが望ましい。これは、筆者が教育の現場に身を置いていた時、そしてこの小さなブログにおいても、基本的にとってきたスタンスでもある。

しかし、現実にはなかなか難しい注文である。こうした要請に答えるように書かれたのが、本書である。自分の力で考えるにしても、何らかの手がかりが必要になる。そのための骨組み作りに役立つと思われる。

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Richard Haas, The World: A Brief Interpretation, Penguin Press, New York, 2020

著者のHaasは、2003年から無党派の外交問題評議会の議長を務め、1989年から1993年までは、国家安全保障会議のメンバーとして ジョージ・G.W.ブッシュ大統領に助言し、さらに同大統領の下で、国務省の政策計画スタッフのディレクターも務めた。国家の国際的位置や役割に関する多くの著書を刊行している。こうした作品の著者としては、極めて適任な人物である。
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このブログが17 世紀の画家の世界から端を発し、第一次、第二次の世界大戦を経て、リーマンショック、そして今日のコロナウイルス・パンデミックの発生に至るまでの
「危機の時代」の様相を回顧・展望してきたのも、来るべきコロナ後の世界を見通す視点を確保するためでもあった。そのためには、かなりの情報量の蓄積も必要だった。ブログ記事の扱う範囲がかなり広範に及んだのもそのためであった。

グローバル・リテラシーの必要
本書を手に取るか否かは別として、この書籍が想定する現代世界を理解するための枠組み作りは、このブログでこれまで筆者が展開してきた考え方にきわめて近いことを記しておきたい。コロナ後の世界がいかなるものとなるか、予断を許すものではないが、他人頼りではなく自らの力で世界を作り上げている仕組みを考えることが必要になる。著者 Haasは、これからの時代に生きるには、世界がいかなる仕組みで動いているか、言い換えると、Global literacy グローバル・リテラシーが必要になると強調している。

本書の構成は次のような4部からなっている。

PART I: THE ESSENTIAL HISTORY
PART II: REGIONS OF THE WORLD
PART III: THE GLOBAL ERA
PART IV: ORDER AND DISORDER

最初の第一部は全編を貫く歴史軸の構成と説明になっている。今回は、この部分をやや詳しく説明しておこう。

歴史軸の起点は、17世紀の30年戦争に始まり、第一次世界大戦(1618-1914)までの期間として、設定される。

現代の国際システムのルーツは、17世紀に求められる。しばしば起きることだが、一つの時代から次の時代への移行の契機となるのは紛争、戦争であることが多い。この時期に起きた画期的な出来事は30年戦争だった。1618年に始まり政治的及び宗教的要素を含むものだった。主要なヨーロッパ諸国が関わり、領地と境界線をめぐって対立した。国境はさほど重要なものとはみなされず、大小の戦い、争いが頻繁に起きた。国境、領地の境界線の取り合いによる変更は絶えることがなかった。

30年戦争の終結はウエストファーリア条約によってもたらされた。この条約は現代の国際システムの基礎を構築した。ナポレオン戦争までは、比較的平和が続いた。

30年戦争を近代史を考える歴史軸の起点として設定することは、この小さなブログでも同じである。画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはまさにこの戦争の時期に生まれ、その禍中で活動した画家であった。

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ウエストファリア条約
1648年、30年戦争を集結させるため、ドイツとフランス、ドイツとスエーデンの間に締結された諸条約の総称。スイス・オランダの独立、カルヴァン派の承認、ドイツ諸領邦国家の主権確立がもたらされた。
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かくして、歴史の軸では、30年戦争から始まり、第一次世界大戦、第二次世界大戦の期間(1934-1945)、冷戦の時期(1945-1985)、第一次冷戦期から今日まで(1989-現在)の期間に便宜上時代区分がなされる。

本書はこうした歴史軸を設定した上で、続いて地球上の主要地域とを結ぶためにヨーロッパ、東アジア・太平洋地域、南アジア、中東、アフリカ、中南米の領域をベンチマークとして歴史軸上の各時期と交差させる。

続いて、グローバル化の時期を設定し、テロリズム、反テロリズム、核拡散、気候変動、移民、インターネッt、サイバースペース、サイバーセキュリティ、グローバルな健康、貿易・投資、通貨・金融政策などを展開させる。

そして、秩序と破綻の領域として、主権・自己決定・勢力バランス、合従・連衡、国際社会、戦争、リベラルな世界秩序、の概念領域を設定する。

本書の細部に踏み込むと、止めどなくなるので、これまでにしておきたい。いずれブログでも機会があれば、さらに立ち入ることにしよう。


web上では、すでに数多くの動画プレゼンテーションが見られるが、そのひとつをYoutube からお借りして掲載しておこう。



Virtual Meeting: "The World: A Brief Introduction" by Richard N. Haass







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コロナ後を生きる道標:オードリ・タンさんの世界を垣間見る

2020年11月21日 | 特別トピックス



前回の記事を掲載した直後、オードリー・タン(唐鳳)さんのインタビューに基づく新著『オードリー・タン 自由への手紙』(講談社、2020年11月17日刊行)を書店で目にした。早速購入し、読んでみた。改めてオードリーさんの考えに感動するとともに、優れた人材は年令、性別などに影響されることなく登用する台湾(中華民国)という国の自由、闊達さに驚かされた。

台湾:暖かな国民性
これまでの人生で台湾はかなりの回数、訪れているが、そのつど、この国の人々の暖かな人間性、親切な応対にはいつも驚かされてきた。政治的立場のいかんにかかわらず、日本では到底会うことのできないような方々も、インタビューなどの時間を割いてくれた。中国本土(中華人民共和国)にも、それに比肩する友人、知人がいないわけではないが、近年国家的統制の色が次第に個人レヴェルまで浸透しているように感じられる。それまでは大変開かれた発言をしていた知人が、習近平政権が成立したころから、香港と台湾の問題はすでに解決済だとの断定的な発言をするにいたって、返す言葉を失ったようなことがあった。それから数年、香港と台湾を取り巻く状況は大きく変わってしまった。

とはいっても、台湾の人々の国民性が最初からこのように暖かな人間性に溢れたものであったというわけでは必ずしもない。この国が経験した厳しい歴史の中から生まれたものだ。親しい友人から1945年連合国軍への日本の降伏後、1949年から1987年までの38年間に及んだ戒厳令下の時代、苛酷な日々の話を聞いたこともあった。とてつもない苦難な日々を克服した結果の間に培われた今日なのだった。友人の中にはアメリカ、カナダなどへ移住した人たちもいた。米中冷戦の間で、国際社会での居場所を狭められ、国名表記すらままならない日々があった。友人から母国の国名すら思うように記せず、勝手に書き換えられてしまう話を涙ながらに聞かされたこともあった。

オードリーさんの新著の基調となる「誰かが決めた「正しさ」には、もう、合わせなくていい」という言葉の意味は大変深く大きい。

スマホを使わない自由
冒頭、オードリーさんがスマホを使っていないということを知って驚かされた。逆のイメージを抱いていたからだ。

オードリーさんがタッチペンやキーボードがあるPCを主に使い、スマホを使わない理由は、「アンチ・ソーシャルメディア」を標榜しているからと記されていた。テクノロジーの支配から自由になるためにあえてそうしているとのこと。指ですぐに操作できるとなると、常にスマホをスクロールしてしまう。そして、ついには依存症になってしまう。スマホに触れないことでSNSに過剰に注意を払わずにすんでいるとの興味深い指摘に出会った(5ページ)。

筆者もPCはテープカセットの時代からなんとか使ってきたが、スマホには長年なじめずにいた。今年年初、新型コロナ感染で万一入院するなどの場合を考え購入はしたが、未だなじめないでいる。小さな画面を見つめていると、思考範囲が狭くなってしまうように感じることもある。電車内で人々が一斉に小さな画面に見入り、歩きながらも読みふける光景には今でも強い違和感がある。しかし、世界はすでにこのテクノロジーにかなり支配されており、それなしに生きることはかなり困難を感じる。

自由が脅かされる今
本書は下記の4部門 Chapter* 毎にに分類された17通の手紙「ーーーーーから自由になる」という構成になっている。それぞれがきわめて重い意味を持っているが、台湾にとってとりわけ重要なのはやはりCHAPTER3に分類されている「13  支配から自由になる」だろうか。その自由が今脅かされているからだ。

CHAPTERS:
*1 格差から自由になる
*2 ジェンダーから自由になる
*3 デフォルトから自由になる
*4 仕事から自由になる

「絶望の切れ間に光がある」(124ページ)
台湾は、現在大きな危機のさなかにある香港を支援するという立場をとっている。1980年代、戒厳令が解除されたばかり、報道の自由もなかった当時の台湾を香港に多数いた国際ジャーナリストが援助したことに、台湾が今恩返しをするというスタンスが強調されている。そして台湾がもっとも長期に及んだ戒厳令時代に苦しんだ国民であり、「すべての希望がついえた」と思われる時こそ、希望を持ち続ける術(すべ)を知っているとの自負の思いが記されている(124 ページ)。

かつて、この国の指導者は教育水準が高くバイリンガルな人たちが多いことに驚かされたが、オードリーさんも台湾語の他に標準中国語、英語、日本語、フランス語などを含む多文化に通じた人のようだ。たくさんの原住民がいる台湾には20を越える言語があるという。そのためもあって「2030年バイリンガルカントリー・プロジェクト」がすでに発足している。

中国とアメリカ、ヨーロッパの間にあって独自の立場を維持するには、言語の点でも格別の努力が必要だ。オードリーさんに代表される台湾の指導者層は、その点でも大きな研鑽を続けてきたことがうかがわれる。

自由への道のりは想像を絶する苦難に満ちている。しかし、オードリーさんの『自由への手紙』には、苦難を克服する多くの処方箋が示されている。それぞれが深い意味を持つが、オードリーさんを含めて、今日の政治家に求められる次の要件がとりわけ頭に残る。優れた政治家は施政方針や現状についての透明性と説明責任能力をすべてネット上に開示し、それをもって「風上へジグザクに進む」という思考法だ。日本ではどれだけ現実化しているといえるだろうか。納得できる説明なしに次々と過去に追いやられ、無理やり風化させれてゆく問題に考え込むばかりだ。






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柔らかな境界へ:コロナ後の世界を見通す

2020年11月15日 | 特別トピックス


J.M.Keynes, Economic Possibilities for Our Grandchildren
J.M.ケインズ『わが孫たちへの経済的可能性』1930



このブログという仮の名で始めた覚書(メモ)も、そろそろ幕を下ろす時が近づいている。思いがけず筆者の予想を超えて、今日まで10数年の年月を経てきたので、中途から訪れてくださった方々には何を目指しているのか大変分かり難い内容になっている。多くの断片的記述の集積効果によって、ブログ筆者の意図する多面的な考えが伝達できればと思い試行錯誤もしてきたこともあり、これまで筆者と対面してのコンタクトがない方々には、格別取りつきにくい内容になっていることは想像に難くない。

偶然目にしたTV番組で、台湾のデジタル担当政務委員のオードリー・タン氏とメディア・アーティスト、大学教員など多彩な活動をされている日本の落合陽一氏の対談を見る機会があった。共感することが多かったので、感想を少し記しておきたい。

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オードリー・タン、落合陽一対談:NHK BS1、2020年11月14日

唐 鳳 (とう ほう、タン・フォン、オードリー・タン、Audrey Tang、1981年- )。2016年10月に台湾の蔡英文政権において35歳の若さで行政院(内閣)の政務委員(デジタル担当)を務めている。
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「危機の時代」に生きた画家と作品を見直す
このブログを始めたきっかけとなったのは、歴史上初めてヨーロッパ、そしてグローバルな次元で、「危機の時代」として認識されるようになった17世紀ヨーロッパに生きた画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品と生涯を見直すことであった。”時空を超えて”、当時の政治社会環境に出来うるかぎり立ち戻り、再発見し、新たな資料を含めて理解し直すことを目指した。そして、美術をひとつの手がかりとして、さらに時代を下り、20世紀の「大恐慌」からこのたびの「コロナ危機」にいたる道筋を「人の動き」と「芸術」作品の観点から見直し、たどってきた。

筆者のブログで記事として選ばれたトピックスは、タン氏のいういわば過ぎゆく”時間のしおり”とも考えてよいかもしれない。

「共生」の概念と徹底
時代を追うにつれて、戦争、地球温暖化、感染症など世界が直面する「危機」の規模や被害の大きさは深刻さを増し、対応いかんでは次の世代の存亡に関わるほどになっている。もはや、ある国や一部の地域だけが生き残る可能性は少なくなり、地球上の人々が助け合い、協力しあって共に生きる道を求めねば次の世代は存立できないまでにいたっている。

オードリー・タン、落合両氏が提示した世界規模で conviviality 「共に生きる」「共生」の道を求める以外に人類の未来は期待できなくなっている。そのためには、大国の横暴、専制、エゴイズムなどは極力制止されねばならない。さまざまな場面で存続から取り残されかねない地域への支援がこれまで以上に欠かせない。人々にはかつてない「謙虚さ」が求められる時代が到来している。
後退する生産性重視の視点
経済学者J.M.ケインズが1930年に著した『孫たちの経済的可能性』を確保するためには、時代を主導する経済理念にも変化が求められる。これまで経済界を支配してきた生産性重視の議論は次第に無意味となり、SDGsの考えに基づく「公正な社会」の実現こそが求められるようになっている。社会を前にすすめる思想としての経済学の比重は後退する。

SDGsとは、Sustaiable Development Goals 「持続可能な発展目標」のことである。2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193ヵ国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標である。

「柔らかな境界」は実現できるか
このブログで筆者が意図して重視してきた経済学以外の領域への視点の移行は、ともすれば強化され、分裂、断絶を強め、時代に逆行化するかにみえるさまざまな「境界」「障壁」 border を、より「柔らかな」境界へと変化させ、強固で高い壁のような国境線や一面的な差別観をただすことを意味している。

新型コロナ・ウイルスに感染した人を、注意の足りない人間であるかのように見下すなど、あってはならないことである。筆者はかつて世の中に存在する「差別」discrimination といわれる現象を経済理論の視点から整理することを試みたことがあったが、多くの人たちはその中から「統計的差別」など分かりやすい部分だけを取り上げ、「差別」という現象が内在する複雑な要因・構成にまで踏み込むことは少なかった。安易に「差別」の概念を乱用することが目立つようになった。

人間が人間をある属性を持ったグループとして区分する行為は、きわめて慎重でなければならない。それが必要な場合には、公正さが担保しうる開かれた評価組織などによる公平な検討、判断が求められる。新内閣の成立とともに浮上した学術会議問題などは、その点での公正さ、配慮が欠けた例といえる。官僚組織がこうした問題の対応にはきわめて不適であることは、改めていうまでもない。

民主主義の活性化のために
オードリー・タン氏が台湾の選挙制度として、AかBかの単純な賛否を決める形ではなく、Quadratic Voting (2次元の投票)というポイント・システムを基準としたなだらかな評価を行う制度を提示、実施したことはきわめて興味深い。多くの国が採用している現行の選挙制度は、「賛成」か「反対」かといった結果を求める方式だが、人間の思考、判断のあり方からみると、単純、直截に過ぎ、適切ではないことも多い。世論調査における「分からない」「いずれでもない」などの反応、選挙における無関心、支持する候補者がいないとの理由で棄権するなどの行動は、かなり現行の選挙の仕組みに起因するところがある。

筆者は世の中の議論のあり方について、「黒」「白」いずれかの二分法を強制する思考には、しばしば異論を抱いてきた。人間の思考には、いずれでもない中間領域が存在し、それを重視することが民主主義のこれからにとって大きな意味を持つと考えてきた。台湾がこうした投票制度を導入し、しかもデジタル技術を活用し、問題ごとに頻繁に投票するという方式は、これからの時代に合致する極めて興味深い方向と思われる。タン氏がいうように、「民主主義は生きたテクノロジー」であり、デジタル化など新技術の発展の成果を活かすことで、暗礁に乗り上げたかにみえる現代の民主主義の行方に光明をもたらすものと期待しうる。

新型コロナウイルスの感染拡大とともに加速した働き方改革のあり方にしても、思考が定式化、限定されていて、複雑な現実の変化から離れがちであり、無理が多いと感じられる。

さらに、タン氏は理念としては「徹底的な透明性」Radical Transparencyと呼ばれるものを挙げており、大変興味深い。公開できる、あらゆる情報がインターネット上にあることで、官僚や大臣が何をやっているのか、何を考えているのかをすべて知ることができ、人々が「国家の主人」になれるというヴィジョンを掲げている。ともすれば、国民が「国家の下僕」と化している現実に対して、原点を取り戻す試みとして極めて興味深い指摘である。いうまでもなく、タン氏の指摘は現在ではあくまでヴィジョンだが、その目指す方向は、斬新で期待できる。

タン氏が活動基盤とする台湾が、人口という尺度では小国の範疇に入るにもかかわらず、革新的なアイディアと実行力で大国を凌ぐ存在感を示していることには改めて感銘するものがある。ヨーロッパにおけるエストニアなどの先導的で革新的な活動に比するものがある。その力を生み出すものが大国に対する危機感なのかという点も含めて、さらに注目してゆきたい。

最後に、タン氏が現代を象徴する好みの色として「青色」blueを挙げ、落合氏も「青色」と「黒色」を挙げているのも興味深い。筆者がブログの背景として「青色」に固執してきたのも、この点に通じるところがあり興味深い。

偉大な経済学者J.M.ケインズが記した人類の孫たちの世代へ、資本主義経済は意義ある遺産を残すことができるだろうか。現代の世界はその成否を定めるにかなり危うい段階に立ち至っていると考えられる。コロナ禍の下、急速に展開しつつあるデジタル化の動きは、人間の抱く構想と運営いかんでは、危機に瀕した資本主義経済を救い出す可能性を秘めているかもしれない。


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デラウエアの戦い:アメリカはどこへ向かうか

2020年11月09日 | 特別トピックス


『デラウエア川を渡るワシントン』アメリカ独立200年記念郵便切手シートの一枚
下記の油彩画に基づいて制作された:
Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze/Eastman Johnson, oil on canvas, 378.5 x 647,7cm, 1851, Metropolitan Museun, New York, N.Y.


アメリカ大統領選もバイデン氏の勝利宣言で、ようやく決着がつきそうになってきた。しかし、トランプ氏はあきらめきれないのか、現段階では法廷闘争を進めると強調している。アメリカは選挙で露呈したように、明らかに分断の危機にある。しかし、ようやく修復と癒やしの時は見えてきたようだ。

バイデン氏が選挙活動の本拠地を生地のペンシルベニア州からデラウエア州に移していることに関連して、思い浮かべたことがあった。ペンシルベニア州とデラウエア州は、アメリカの歴史においてはきわめて重要な重みを持つ州である。

トランプ大統領とバイデン氏の双方がこの両州の選挙活動に多大なエネルギーを注いだのには理由がある。アメリカの独立宣言につながるこの地は、アメリカの歴史で格別の意義を持っている。

デラウエア川を渡るワシントン
デラウエアと聞いてブログ筆者が思い浮かべたのは、『デラウエア川を渡るワシントン』Washington Crossing the Delaware という油彩画である。多くのアメリカ人が特別の思いをもって思い浮かべる絵画作品である。現在はワシントンD.C.のメトロポリタン美術館に展示されている。アメリカ人ならずとも大変迫力を感じるドラマティックな作品である。

1976年には、アメリカ独立200年記念(Bicentenial 177-1976)として、この絵画作品を含めて4点の作品をモデルとした記念郵便切手4シートが発行された。筆者は切手のコレクターではないが、断捨離の作業の途中で、友人から贈られたこれらのシートのことを思い出し、引き出しの中から見つけ出した。

画題はアメリカ独立戦争中の1776年12月25日にジョージ・ワシントンが陸軍の部隊を率いて寒風吹きすさび、氷が張ったデラウエア川を渡った光景を描いている。

1776年の12月初頭まで、アメリカの愛国者にとって、事態はきわめて厳しくなっていた。彼らは一連の戦闘に敗退し、ニューヨーク、ニュージャージーからペンシルベニアまで追い詰められていた。多くの兵士がいなくなり、独立への正当性も薄れつつあった。

しかしながら、その中でトマス・ペイン Thomas Paine が12月19日に刊行した『アメリカの危機』The American Crisis のように独立を希求する人たちを鼓舞した小冊子が熱意をもって受け取られた。ワシントン将軍もその一人で、彼の兵士の誰もが読むべきだと命じた。

この状況で、彼は思い切った作戦計画を考えた。デラウエア川の対岸のトレントン(ニュージャージー州)は、当時1500人のドイツ軍(イギリス軍のために戦うために雇われたヘッセン人)によって占領されていた。これに対し、ワシントン将軍は2400人の兵士を擁し、加えて2中隊が援軍に駆けつけることになっていた。12月25日、ワシントンは万端準備を整え、氷が張ったデラウエア川の渡河を試み、悪天候に悩まされながらも、先頭を切って深夜に川を渡った。渡河地点は、現在のマッコンキー波止場、McKonkey’s Ferry付近と推定されている。(現在はWashington Crossing Btidgeという橋がかけられている。両岸にはそれぞれ歴史公園が設けられている)

この渡河によって大陸軍はニュージャージー州のトレントンにおける戦いでドイツ傭兵隊を急襲した。ワシントンの率いた軍は戦闘に勝利し、翌日のトレントンの戦いで、アメリカはイギリスに勝って、その後のアメリカ独立への道につながることになった。

N.B.
画家はドイツ生まれのエマニュエル・ロイツェ(1816年−1868年) であり、アメリカで成長し、成人してドイツに戻り、1848年革命の時にこの作品を制作することを思いついた。制作後まもなくアトリエの火災で損傷し、その後修復されブレーメン美術館に買い上げられた。その後第二次世界大戦中にイギリス空軍による空襲で破壊された。
その後、原寸大の写しとして1850年に制作された。1951年10月にニューヨークで展示された。その後所有者が何人か変わり、最終的に1897年にメトロポリタン美術館に寄贈され、今日にいたっている。

作品の構成
ジョージ・ワシントン将軍が激しい天候の中、デラウエア川を兵士、農夫、など、後にアメリカを形成すると思われる人々と渡る場面を描いている。スコットランド風の帽子を被った男性、前面に座っているアフリカ系、舳先と船尾に座るライフル銃射手、広い縁の帽子をかぶる農夫、赤いシャツを着た女性のようにみえる人物などが描かれている。

ワシントンの後ろに立ち、旗を持つのは、ジェームズ・モンロー中尉で、後の大統領である。描かれた人物は、当時のアメリカ植民地の断面を象徴しているとみられる。

現実にワシントンが渡河した地点の光景、天候や河川の厳しさ、描かれている船、アメリカ合衆国国旗のデザインの不自然さなどが指摘されてきたが、作品の持つ力強さもあって、多くのアメリカ人にとって極めて感動的な作品として受け取られている。ペンシルベニア川の記念館には、デラウエア川を軍隊が渡河した際に使用した船なども再現されている。

アメリカは旧大陸からの独立を目指したころと比較して、人種の構成も政治や文化的環境も大きく変わった。このたびの大統領選で、ペンシルベニア、デラウエアでの激しい選挙の実態を見て、しばしこの国の行方に思いを馳せた。『デラウエア川を渡るワシントン』の絵画は多くの模写が存在し、そのうちの一枚はホワイトハウス内にも掲げられているといわれる。トランプ大統領は作品を見ただろうか。

デラウエア川の主要領域



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記念郵便切手の概略
独立200年記念郵便切手のシートは下掲の4枚から成り、1シートは5枚の切手に使えるようになっているが、購入者が切手として使うことはほとんどないだろう。切手の一枚、一枚に歴史上の人物が割り当てられている。

Washington Crossing the Delaware From a Painting by Emanuel 
Leutze/Watmn Johnson



Washington Reviewing His Ragged Army at Valley Forge From a paonting by William T. Trego




The Surrender of Lord Cornwalls at Yorktown from a Painting by John Thumbell




The Declaration of Independence, 4 July 1776 at Philadelphia From a Painting by John Trumbell





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コロナ禍の先に:待ち受ける「認知症」の危機

2020年09月19日 | 特別トピックス


'The perils of oblivion' The Economist August 29th-September 4th 2020
「忘却の危機」The Economist  「認知症 dementia」特集カヴァー

新型コロナウイルスの世界的感染拡大は、歴史観を変えるほどの衝撃を世界に与えた。人間社会の健康面にとどまらず、経済、政治、科学、文化など、ほとんどあらゆる面に深刻な影響を与えている。現在でもその収束の見通しは明らかではない。しかし、これまで世界に影響を与えた感染症の多くは、治療薬、ワクチンなどの開発で、ほぼ抑止されてきた。新型コロナウイルスに対する医療・介護・看護など、医療従事者を中心の多大な努力で、前方にかすかに光が見えてはきた。安全で有効なワクチンが実用化されれば、収束への道は大きく開かれる。

日本では成立したばかりの新内閣が、新型コロナウイルス感染の克服を第一の政策目標に掲げている。そのことは1~2年の短期を視野に入れれば、妥当と考えられる。しかし、より長い時間軸で未来を視野に入れると、新型コロナウイルスよりもはるかに困難な問題がすでに存在することに気づかされる。それは「認知症」dementiaへの正しい理解と国家としての政策樹立である。

「認知症」への正しい認識を
新しい世紀を迎えた頃から、ブログ筆者はこの病に侵された人々の話を聞く機会が増えてきた。親子などの近親者の間でも、しばらく顔を見せないと「あなた誰?」といわれるというような話は、何度か聞いている。こうした話をしている本人は苦笑いしているが、心の中の例えようもないつらさ、悲哀は痛いほど分かる。認知症は残酷な状態を作り出し、人々から喜びと希望を奪い去る。新型コロナに対するロックダウン中における日常的、社会的な接触の遮断は、認知機能の低下を早めた。認知症が原因として特定された死亡者数も増加した。

この問題にはかなり前から関心は抱いてきたが、新型コロナウイルス問題以上に、正しい認識と政策対応が必要になっている。現実は厳しく、新型コロナウイルス問題の比ではないとブログ筆者は感じている。メディアでも「認知症」への関心は高まっている

たとえば、NHK連続ドラマ「ディア・ペイシャント 絆のカルテ」(なぜことさらに分かりにくい英語を使うのだろう)でも取り上げられていた。やや拙速に問題を作り上げ、結論に導くという点はあったが、認知症の難しさは伝わってきた。ドラマは最終回ハッピー・エンドに近くまとめてあったが、むしろ答えのない「オープン・エンド」にした方が問題の厳しさを客観的に伝えることができたのではないか。

世界がコロナ禍の中で右往左往しているさなか、長年にわたり購読してきた雑誌 The Economist が、The perils of oblivion (’忘却の危機’)と題して「認知症」特集を組んでいる。改めて、その悲惨さ、深刻さ、影響の大きさを実感させられた。世界では今やcovit-19に次ぐ死者数が記録されている。

「認知症」については多くの誤解もあり、正しい知識の普及が必要だ。「認知症」とは病名ではない。ある特有の症状や状態を総称する概念である。よく誤解されているように、「もの忘れ」とも峻別されねばならない。中心は加齢に伴って増加する症状だが、若年者層でも起こる症状でもある。今日の段階で、完治が期待できる有効な治療薬はないが、症状を改善したり、発症を遅らせることはできる。

コロナ禍の裏側で
世界が新型コロナウイルスに翻弄されている裏側で、静かにしかし冷酷に人類に迫っている認知症への正しい理解と取り組みが必要ではないか。日本は世界でも際立って高齢化が進行し、人口の28%は65歳以上、90歳以上の人は240万人、100歳以上は7万人を越えている。日本は世界でもこの問題の最前線に置かれ、最も厳しい対応を迫られていることを認識すべきだろう。問題を正しく理解するための知識の普及と指針の提示が必要ではないか。認知症は加齢にともなう「物忘れ」ではない。人間の究極の本質、倫理的な領域に深く関わる問題と理解すべきだろう。

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N.B. 
認知症は高齢化ととともに急増する。世界で最も高齢化が進んだ日本では、認知症の深刻さも最も厳しく国民に迫っている。
認知症は世界で5000万人以上に影響を及ぼしている。有病率は年齢、とともに増加する。
65-69歳層の1.7%に認知症があり、発生率(新しい症例の数)は5年ごとに2倍となるとの推定もある。ある推計では85歳時点で3分の1から半分が認知症を発症している。
認知症のタイプとしては、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症の3つが知られているが、他にもある。日本人ではアルツハイマー型が最も多いとされる。



患者数は厚生労働省によると、認知症である人の数は2012年時点で462万人と推計されている。これは高齢者の約7人に1人に相当する。団塊世代が75歳以上となる2020年時点では700万人前後、高齢者の5人に1人に認知症の症状になるとされている。認知症は日本人にとって一段と近い存在となる。

健常な状態から認知症にいたる中間の段階として軽度認知障害(MCI)という概念が設定されており、この段階から適切な治療や予防に取り組めば、認知機能の改善や症状の進行を遅らせることができる。この段階にある人は厚生労働省が2014年に公表した結果によると、軽度認知障害(MCI)または認知症の高齢者は約862万人とされる。65歳以上の4人に1人に相当する
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認知症という人間の根幹的、倫理的領域にかかわる問題への対応は、新型コロナウイルスなどの感染症とは異なる視点が必要である。ここでは、The Economist 誌にならって、この問題を考える場合に考慮すべきいくつかのテーマを記しておこう。


認知症の治療法の探求はうまくいっていない
現在の段階では、症状の根本的改善に効果がある感染症の場合の治療薬、ワクチンのような治療手段は開発されていない。

認知症ケアは誰がそれをするか
 「神の待合室」ともいわれる認知症の段階では、医療・看護・介護者などのケアの必要度が年々増加する。
 すでに長寿への道が良いことばかりではないことに、国民は気づいている。しかし、医療を中心に有効な手段は限りがあり、高齢化の進行に伴う認知症の増加に医療、看護、介護などの分野に従事する人々は顕著に足りなくなっている。

認知症ケアに資金は誰が提供するか
高齢化にともない治療薬などの開発費用、医療・看護・介護などに当たる従事者が増加の一途をたどる。必然的に認知症ケアに必要な資金が増加するが、その負担を誰がするかという大きな問題が発生する。必要な資金額はほとんど不可逆的に増加する。

低賃金経済へのケア依存は増えるか
ヨーロッパの一部には、ケアに必要な負担を軽減・回避するために、東南アジア諸国への観光旅行の名目で看護・介護費用の負担軽減をはかる動きもある。しかし、これは富める国、富裕層などの一時的逃げ道に過ぎず根源的解決にはつながらない。

認知症の人の基本的権利をどう守るか
認知症への対応には苦悩に満ちた倫理的ディレンマの問題が生まれる。人間としての尊厳をいかに守るか。認知症への対応として安楽死、自殺支援などを認める国では、問題は最も先鋭化し激しく対応は困難を極める。認知症になった人が、自らの判断で、今が正しいと思う時に、最後の判断をできるだろうか。たとえ、認知症についての安楽死が認められている国でも、未だ人間である患者の最後を心にわだかまりなく決断できるだろうか。目の前にいるのは、死者ではない。生きている人間 Humanなのだから。


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’Special report Dementia: The perils of oblivion’ The Economist, August 29th 2020




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1929年大恐慌のイメージ断片

2020年07月18日 | 特別トピックス


John Kenneth Galbraith, The Great Crash 1929, Boston & New York, Houghton Mifflin, 1997

今世紀に入っても世界はリーマンショック、そして今回の新型コロナウイルスが生み出した世界的不況など、相次ぐ衝撃的な経済・社会的破綻に相当する状況を経験している。小さな動揺はさらに多い。こうした場合に、ひとつのメルクマール(判断指標)として想起されるのは、1929年のニューヨーク株式市場で起きた株価暴落に端を発した「大恐慌 」the Great Depressionとして知られる深刻な危機的事態だ。1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所での株価大暴落で始まり、同年10月29日までにダウ・ジョーンズ工業平均株価は24.8%下落し、アメリカ史上最悪の低落となった。そして、ウオール・ストリートの信頼を失わせ、「大恐慌 」として知られる世界的不況につながった。


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N.B.
経済的危機、恐慌、不況、停滞、不振、後退などを表現する言葉には、crisis, depression, panic, crash, recession, stagnation など多くの表現かある。1929年の経済危機については、the Great Depression, Crash, などが使われることが多い。時代の経過と共に経済専門家の間では、depressionとrecessionの区分など、一定の合意が成立しているが、しばしば恣意的に使われる。
通常、depression(不況、恐慌) は経済活動の縮小が、recession (景気後退)よりも長期にわたり、より破壊的である。前者は年単位、後者は4半期単位で計測されることが普通である。ちなみに、「1929年大恐慌」では、GDPが10年の内6年がマイナス成長だった。1932年には、12.9%という記録的減少だった。
失業率は25%に達した。国際貿易は3分の2以上減少し、価格も25%を越えて下落した。大恐慌が経済社会にもたらした荒廃は大変大きく、それが終わった後でも長らく続いた。
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ウオールストリートの崩壊
この恐慌に関わる3つのウオールストリートの株式市場での主な取引日は、通称Black Thursday, Black Monday, and Black Tuesday の3日である。最後の2日はダウの歴史記録に残る最悪の4日に含まれる。その後とめどない株価の暴落が始まった。一夜にして、多くの人々が事業の破たんを経験したり、資産を失い、大恐慌と言われる段階へ突入した。

「今現在の生産力と生活水準を即座に引き上げるために、将来を担保に自由に信用に頼るという戦時の慣習が戦後も続いた。途方もない大量の信用が使われ、乱用されることもしばしばだった。乱用自体は目新しくないが、創造される信用の規模はかつてないものとなった。紙の上での利益を人々が現実にお金に換えだすと、肥大化した信用が収縮しだし、多くの投資家が浮かれた夢から目を覚まし、我を取り戻した。そしてパニックが起きた」 エドウイン・F・ゲイ 
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N.B. 大激動の1週間 
最初の大下落は10月24日、暗黒の木曜日だった。ダウは305.85から始まったが、直ちに11%の下落となった。株式の売りは通常の3倍以上となり、ウオール・ストリートの銀行家、投資家たちは下支えに必死になった。その効果は現れ、10月25日金曜日、ダウは0.6%戻し、301.22となった。
暗黒の月曜日、10月28日、ダウは13.47%下落し、260.24となった。そして、暗黒の火曜日、10月29日、ダウは11.7%下落し、230.07となった。パニックとなった投資家は16,410,030株を売却した。
暗黒の月曜日、火曜日はダウの歴史で最も悪い日だった。2日共に大きな衝撃の日となった。株式大暴落の初期には、新聞などのメディアが生み出した扇情的な記事は、投資家たちの間に投機とパニックをもたらした。

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株価に翻弄された投資家たち
株価の上下動に伴う利鞘の獲得をめぐって、多くの人が投資に走った。そのかなりの人たちはブローカーから融資を受け投資した。彼らは10%の利益が見込めれば売買に走り、市場は投機化した。こうした投資行動は、大恐慌に先立つ「活況の1920年代」soaring 1920’s に進行していた不合理な動きを助長した。株式市場が下降局面に至ると、人々は争ってわずかな利鞘稼ぎに狂奔した。そしてウオール・ストリートを信頼しなくなった。

大恐慌はアメリカ経済を荒廃させた。1929年から1933年にかけて賃金は42%減少し、失業は25%上昇した。アメリカの経済成長は54.7% 減少、世界貿易は65%減となった。デフレの結果、価格はこの間10%以上低下した。
この不況の影響は長く後を引き、1930年代末まで続いた。失業率は1933年まで25%近く、5,000以上の銀行が破産した。
フーヴァー大統領は、産業再生金融会社 Reconstruction Finance Corporationのような手段で経済の再生を図ったが、著効は得られなかった。

ニューディールへ
は1932年に大統領に選出されたフランクリン・ローズヴェルトは、1933年3月に就任、ニューディールの名で知られる新たなアプローチで大恐慌に対処しようとした。



フォートペックダム工事で働く労働者
(by Margaret Bourke-WhIte)

大恐慌の最悪期には、アメリカ人のおよそ4人に1人が失職していた。ローズヴェルト大統領はNational industrial Recovery Actに署名し、経済の再建を図った。多くの連邦機関を通して公共事業を実施し、ビジネスの活性化を実施した。およそ60億ドルを投じ、34,000のダム、橋梁、飛行場、学校、病院などを建設した。その中でも巨大な建造物の一つ、モンタナ州、バッドランドのフォート・ペックダムは1934年から1940年にかけてミスリー川の制御のために工事が行われた。湖岸の長さはカリフォルニアの沿岸を超える巨大なフォート・ペック人造湖が造られた。ダムの建設のためにおよそ11,000の雇用機会が創出され、デラノ・ハイツ、ニューディールなどの名のついた新たな町が生まれた。このダムはロースヴェルトのニューディールの最大の成果のひとつとして今日まで継承されている。

しかし、この時代の政策評価は功罪相半ばするところがあった。恐慌の初期は、株価の上下動に投資家たちが翻弄されたが、まもなく実体経済の悪化が拡大した。
大恐慌の間、その進行を阻止しようと、連邦準備局は利子率を低下すべき時に引き上げることも行った。金準備制を維持しようと試みたためだった。今日、世界は金準備制を放棄している。
連邦準備局はデフレに抗するためとして、貨幣供給を増加しなかった。銀行の破綻にも有効な手段を導入できなかった。時系列に添って見直すと、そうした対応がいかに誤りだったかが分かる。
実体経済の回復にはかなりの時間を要し、その決着は日本の真珠湾攻撃に始まる世界大戦へと繋がっていった。

「1929年大恐慌」も年月の経過とともに、理解や解釈が大きく変化した。このたびの「新型ウイルス大不況」は、後世いかに評価されるだろうか。激変の渦中にいる若い世代の人たちの分析に期待したい。

Reference
John Kenneth Galbraith, The Great Crash 1929, Boston & New York, Houghton Mifflin, (1954) 1997

エドウイン・F・ゲイ、Classic Selection 1932, 大恐慌 The Great Depression
FOREIGN AFFAIRS & CFR PAPERS, 2008 n0.12
この論文は1932年に掲載されたが、今日読んでも多くの示唆に富んでいる。












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車はいくらで売れただろうか:大恐慌の一コマ

2020年07月13日 | 特別トピックス


For sale, after the crash
New York City, 1929
Source:A Story of AMERICA in 100 Photographs, LIFE, New York, vol. 18, no.13, June 20, 2018

この写真はいかなる状況を写したものでしょうか。

1929年10月16日、イエール大学の経済学者アーヴィング・フィッシャー は、New York Times の論説で次のように述べた。 「株価は長く続く高い水準の高原状態に達したようにみえる」しかし、その後1週間もしない10月24日、暗黒の木曜日、株価は急落し始め、金融市場の崩壊は広範に及び、復元し難いものとなった。ウオール・ストリートは壊滅した。
 
これに先立つ10月半ば、投資家のウオルター・ソーントン氏は、彼のピカピカのクライスラー・シリーズ75、ロードスターを誇らしげに運転していた。
10月30日、水曜日、彼はニューヨークのダウンタウンの街角で、自暴自棄になって愛車を100ドルで買うものがいないか、探し求めていた。この写真は、「大活況の1920年代」の突然の終幕と1930年代の大恐慌の幕開けを示すシンボル的な一コマといえる。

自動車産業はアメリカ最大の産業であり、1929年までは売り上げは上昇一辺倒で、そこまで5,358,420台を販売していた。しかし、市場は一挙に破綻し、デトロイトはその後長く荒廃した。

ソーントン氏が彼の車をいくらで売ることができたかは分からない。しかし、デトロイトが1929年に生産した台数に達するまでには20年ちかくを要した。

これは、資本主義社会が初めて経験した古典的ともいえる恐慌、大不況の象徴的光景であった。しかし、世界はその後同じような破滅的事態を大小含めて何度か繰り返すことになる。

この「1929年大恐慌」については、今日まで多くの研究成果が蓄積されてきた。世界を大きな不況が襲うごとに、この時の経験がさまざまに論じられてきた。いわば一つの判断基準(ベンチマーク)の役割を果たしてきた。リーマンショック、さらに今回の新型コロナウイルスがもたらした世界的不況においても、論及されることが多い。ブログ筆者はこれまでの人生で、「1929年大恐慌」を経験した人々の体験を聞き、多くの知見を得ることができた。その断片をここに記しているが、もう少しだけ続けてみたい。
続く



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恐慌の中に花開く生活文化

2020年06月30日 | 特別トピックス



世界レベルでの新型コロナウイルスが蔓延するに従って、混迷の度は日に日に高まり、将来への不安も強まっている。偶然に見たTV番組『ズームバック 落合陽一/エコノミー」(教育TVl2020年6月25日)で考えさせられた。といっても、ブログ筆者は、教育、メディア・アーティストその他の分野で多彩な活動を展開しているこの人のことをほとんど全く知らない。

番組の目的は混迷した時代の「半歩先を読む」ということにあるらしい。稀代な天才と言われる若者がその課題に挑戦するというのがウリのようだ。番組自体は詰め込み過ぎで、理解するには苦労した。テーマに掲げられた時代の「半歩先を読む」ということは、「一寸先は闇」といわれる複雑怪怪な世の中で、いかなる天才であっても科学的な意味では不可能に近い。しかし、ブログ筆者も多少記したことはあるが、長い歴史軸の延長上に起こりうるリスクをある程度の確率で予想することは全く不可能というわけではないと思う。

進行のテンポが早すぎ、理解にやや困難を感じたが、番組の中で落合氏が「大恐慌の時に人々がいかなる生活をしていたか」ということを知りたいと述べていたことに、あれと思った。最近、このブログで筆者が細々と試みていることは、1930年代のアメリカに始まり世界に拡大した「大恐慌」the Great Depressionの時代に立ち戻り、人々の生活実態など、実際にいかなる時代であったかを不完全ながらも推察してみたいということにあった。

これまで残っていた記録や伝承に見る限り、この時代は大恐慌の最中であり、企業の倒産、破産、失業、病気など暗いイメージで塗りたくられていた。

しかしウオール街の株式大暴落から始まった1930年代の現実に見る限り、アメリカでは株式市場の低迷、失業者の増大などの暗い実態が存在したにもかかわらず、「1930年代文化」と称されるように、文学、演劇、音楽、スポーツなどの文化活動は予想を裏切り、さまざまに花開いていた。

今日、われわれの生活に溶け込んでいるさまざまな技術、製品なども、この時代に発明、発見されているものが多い。建築分野でも、歴史的建造物として今に残るクライスラービル、コカコーラ本社、ゴールデンゲートブリッジなどもこの時代に建造されている。さらに、この大恐慌期を締めくる1941年の真珠湾攻撃から始まる世界大戦に備えた軍事的開発が多方面で展開していた。

当時の日本は迫りくる大戦の予兆を感じつつ、国民は暗く不安な時代を過ごしつつあったが、アメリカの大恐慌期は、圧倒的な軍事力を背景に世界に君臨していたこともあり、大恐慌期にあっても、独自の豊かな文化的発展があったことが最近の研究で明らかになったいる。前回記したのは、その中での文学的側面であった。

生活文化の開花
さて、このたびの新型コロナウイルス感染を避ける自粛期間の間に目立ったことのひとつは、TVや新聞などのメディアで、家庭における調理や料理の番組が急増したことだ。ウイルス感染を防ぐためにできうる限り、不要不急な外出を避け家庭に留まるという必要から、ある意味では当然のことであるかもしれない。
そんなことを考えながら、古い資料を片付けていると、少し興味深い記事が目に止まった。アメリカ人の好きなホット・ドッグ、グリルド・チーズ・サンドウイッチ、ミルクシェーキ、チョコレート・チップ・クッキーなどは、ほとんどが大恐慌期の1930年代に生まれた食べ物らしい。

人気を呼んだクッキー
今回取り上げるチョコレート・チップ・クッキーは、今からおよそ82年前の1938年にマサチューセッツ州ウイットマンにあった著名なレストラン、トルハウスを経営していたルース・ウエイクフィールド夫妻が作り出したレシピから生まれたといわれている。このクッキーは最初はアイスクリームの付け合わせとされていたが、その後急速に独自の菓子として有名になった。1939年末、夫妻はこのレシピによる商品化を図るが、無償でネスレ社にレシピを譲渡してしまった。夫妻にとっては、取り立ててユニークさを誇示できないと思ったらしい。実際、その頃までには評判を聞きつけて、およそ75種類のクッキーのレシピが世に出ていた。

こうした夫妻の謙虚な考えにもかかわらず、クッキーの評判は高まるばかりで、アメリカ人にとって大好物なスナック、果てはワインのつまみとして、大変な評判を勝ち得たのだった。

話題のToll House レストランは1984年の大晦日に火災で焼失してしまったが、レストラン店主は店の中に小さな展示場を設置してウエイクフィールド夫妻とトル・ハウスの功績を今に残している。

史料の筆者は、店でクッキーを頼むのもいいが、まず家でレシピに従いこの歴史的なクッキーを自分の手で作ってみなさいと勧めている。ネットで調べてみると、確かに多くのレシピが公開されている。ご関心のある向きは試してみられると、1930年代のアメリカ食文化の一端に触れることができるだろう。


Source:
’SWEET MORSELS: A HISTORY FO THE CHOCOLATE-CHIP,’ (By Jon Michaud, December 19, 2013


[Vintage chocolate chip cookies recipe | BBC Good Food](https://www.bbcgoodfood.com/recipes/vintage-chocolate-chip-cookies)
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大恐慌期を彩った二人の偉大な女性作家:マーガレット・ミッチェル と パール・バック

2020年06月13日 | 特別トピックス

自書を手にするマーガレット・ミッチェル


新型コロナウイルス感染拡大の最中で起きたアメリカの人種差別反対騒動の影響を受けて、6月11日、米ワーナーメディア社が映画『風と共に去りぬ』Gone With the Wond の動画配信サービスを停止した。同作はアメリカ南部に住む白人の目線で書かれたものであり、奴隷制を肯定するような描写も含んでいるというのが理由のようだ。今後、歴史的背景の説明や批判を追記したうえで再掲するとしている。差別表現の削除や差し替えは、偏見の存在自体を否定することになるとの理由で、行わないとのこと。著者マーガレット・ミッチェルが既に世を去っている今、この判断は妥当と思われる。

『風と共に去りぬ』は世界的名作だが、実はあまりしっかりと読んだ記憶はない。教師だった母親の書棚にあったことは覚えているが、読みふけった記憶はない。しかし、ストーリー自体はかなり知っているので、その後見た映画の影響が残っているのだと思う。1939年12月15日に映画化されて以降、世界的に大ヒットを記録した。

「大恐慌期の文化」
実はこの作品、小説自体は1936年の刊行であり、このブログで最近話題としているアメリカの1930年代「大恐慌期の文化」New Deal Culture の中心的作品のひとつなのだ。『風と共に去りぬ』はいうまでもなく、この時期を代表する作品だが、1920年代「恐慌前」のアメリカのように希望と未来への期待を爆発させるような力を持つと評されていた。そのことは、出版後直ちに映画化されると共に、現在まで続く一大ロングセラーであることからその影響力を知ることができる。

今回の人種差別反対運動の高まりの中で指摘された、マーガレット・ミッチェルの奴隷制への肯定的な叙述などについては、どうして今になってという気がしないでもない。こうした大作家といえども、時代が加える制約から逃れ得なかった。「奴隷制を基礎とした時代への郷愁」のごときものが混入していたことはありうることでもある。そのことを現代人の視点から追求、否定し、削除したりすることは、作品の評価にも影響しかねない。

コンテンポラリーの視点
このブログで強調してきたコンテンポラリーの視点とは、作品が生まれた時代と現代人の時代とを明確に区別して見ることである。歴史上の出来事である以上、そこには連続性が存在する。しかし、作品が生み出された時代はしばしば遠く離れた過去であり、その時代を律した価値観が、現代人のそれとは相違することは当然ともいえる。可能な限り作品の制作された時代へ立ち戻り、その環境に生きた同時代人の視点に立って見る努力の必要性を指摘してきた。

NB.
マーガレット・ミッチェル Mitchell,Margaret(1900-1949)は、ジョージア州アトランタに生れ、およそ10年を費やして執筆した『風と共に去りぬ』は生涯唯一の長編として1936年に刊行され、ピューリッツァー賞を受賞した。さらに、1939年には映画化もされた。名作の題名は 南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあった アメリカ南部の 白人たちの貴族文化社会が消え「去った」ことを意味するとされる。作家は、1949年8月16日、アトランタで自動車事故のため死亡した。赤信号に気づかず道路を横断したとも伝えられている。

北と南の差異
南北戦争というと思い出すことが、いくつかある。ブログ筆者、生涯の友人であるアメリカ人のB夫妻は、夫は北部ニューイングランド育ち、名門ダートマス・カレッジ卒のスポーツマンで熱心な共和党支持者、妻は南部サウス・キャロライナ生まれ、長じてニューヨークに移住、これも名門女子カレッジ卒業の文学好き、リベラルな民主党支持者で、長らく新聞雑誌切り抜き会社の管理職・経営者を務めていた。ブログ筆者は両家の両親、親戚などとも親しくなったが、いつの頃からか北部育ちと南部育ちの人の間には微妙な考え方や気質の差異があることに気付くようになった。それは食事、育児などを含む生活の仕方にも反映していた。どちらかというと、南部の人の方が家族や親戚の人間関係が密なような感じがした。近年はそうした地域的差異は、かなり薄れていることも確かなようだ。B夫妻の夫も人種差別については、政治的立場とは別にかなりリベラルだった。

北部と南部の差異については、1960年代末、木綿工業の南部移転の調査で、いくつかの工場町を訪れた時の光景を思い出すことがある。ニューイングランド(東北部)とは全く異なる国であるような印象を抱いた。 当時はAFL-CIOの南部組織化キャンペーンが遅々として進まないことも、議論されていた。白人至上主義、黒人に対する制度化にまで到っていた歴史的差別が生んだ断絶ともいうべき事態を深く考えさせられた。

南部文化の片々
ある時、B夫妻の縁で、ニュージャージーの銀行頭取Mc氏の邸宅で開催された新年会に行ったことがあった。頭取は南部生まれの生粋の南部人とのことだった。自宅である大邸宅でこうした会を開くこと自体、当時すでに珍しくなっていたので、連れて行ってくれたのだった。

頭取夫妻はスーツやドレス姿であったが、シャンパンなどのサービスをする人たちの中に、頭に白い帽子を被り、黒い衣服に白いエプロンをかけた黒人の女性が2、3人目についた。友人の目にも留まったようで、今でもこうした人たちがいるのだなと、自分に言い聞かせるように説明してくれたことを記憶している。彼女たちは同家で働く使用人で、かつてのような奴隷ではないのだが、映画『風と共に去りぬ』に出てくるような黒人女性の召使のイメージが立ち居振る舞いのどこかに残っていた。この家の娘さんたちの結婚披露にも行ったことがあったが、盛大なガーデン・パーティで多くの人が招かれ、友人が大変な出費なのだと言っていたのを覚えている。図らずも南部富裕層の文化の一面を目にした思いだった。

もうひとりの偉大な女性作家
話は飛ぶが、実は筆者が魅せられたのは、マーガレット・ミッチェルの『風とともに去りぬ』よりは、パール・バックの『大地』The Good Earthを始めとする一連の著作だった。女史の著作は大変数多く、正式には何点になるのかよく分からないほどだ。100点近くになるのではないか。

彼女の人生経歴からすれば、1930年代「大不況期の文化」を代表する2大女性作家といえるはずなのだが、そうした指摘は見たことがない。二人ともピュリツアー賞を受賞し、パール・バックはノーベル賞も受賞している。

NB.  
パール・バック・サイデンストリッカー(Pearl Sydenstricker Buck
(1892-1973)米国ウェスト・バージニア州に生れる。宣教師の両親と共に幼くして中国に渡り、そこで育つ。高等教育を受けるため一時期帰国したのち再び中国にとどまり、中国民衆の生活を題材にした小説を書き始める。 処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表し『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作The Good Earthを構成すると考えられた。本作でピューリッツァー賞を受賞、1938年に米国の女性作家としては初めてノーベル文学賞を受賞した。1934年、日中戦争の暗雲が垂れ込めると米国に永住帰国。以後、執筆活動に専念し、平和への発言、人種的差別待遇撤廃、社会的な貧困撲滅のための論陣を張った。
1941年にアメリカ人、アジア人の相互理解を目的とする東西協会、1949年に国際的養子縁組斡旋機関ウェルカム・ハウス、1964年に養子を生国に留めて保護育成することを目的とするパール・バック財団を設立。1973年、米国バーモント州で引退生活を送り、80歳の生涯を閉じる。

企業は衰退、創作活動は隆盛
1930年代始めは、経済界の不況を反映して、とりわけ印刷、出版などの活動は著しく停滞、不振を極めたが、新たな創作活動はむしろ活発化した。この時期に生まれ、活躍した小説家、劇作家などは数多い。枚挙にいとまがないが、ランダムに記しておくと、
ユージン・オニール、クリフォード・オデット、マックスウエル・アンダーソン、ソーントン・ワイルダー、リリアン・ヘルマン、ウイリアム・サローヤン、ジョン・スタインベック、ウイリアム・フォークナー、ジョン・ドス・パソス、ゾラ・ニール・ハーストン・・・・・・。

これらの中には、ブログ筆者がごひいきの作者も多く、1930年代アメリカという時代の際立った特徴をあらためて思い知らされる。

その他、音楽、映画、デザインなど、多様な分野で創作活動は活性化し、繁栄し、ニューディール・カルチュアとして知られる独自の次元を生み出した。

新型コロナ期の日本あるいは世界に、後年記憶されるような独自の文化や創造性が見出されるだろうか。次の世代に預ける課題ともいえる。

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静かに考える時:全米人種差別暴動の底流

2020年06月06日 | 特別トピックス

W. E. B. Du Bois, The Souls of Black Folk(original: 1903), with a new introduction by Jonathan Scott Holloway, Yale University Press, 2015

W. E. B. Du Bois(1868–1963)、アメリカではデュボイスと呼ばれることが多く、本人もそれを好んだと言われる。20世紀で最も重要なアフリカン・アメリカン・インテレクチュアルズのひとりとされる。

 

ブログという枠を超えて、時空の軸をさまよっていると、最近起きている出来事の多くに、「デジャブ」(deja vu: 既視感)を抱くことがある。その多くは映像などで見た印象などが脳裏に残っているためだが、稀には自分がその場に居合わせ、強い臨場感が残っていることもある。

このたび、アメリカ、ミネアポリスで起きた警官による暴行で黒人ジョージ・フロイドが死亡した事件とその後の全米への暴動拡大を報じるTV中継を見て急速によみがえってきた光景があった。その記憶のひとコマは1967年のニューアーク暴動に関わるもので、 このブログでも、映画『デトロイト』が語るもので記したことがある。

黒人を英語でなんと呼ぶべきかという点については、アメリカでは長い歴史があり、今日でも必ずしも統一されていない。公的にはAfrican American, Afro Americanなどが多く使われるようになっているが、議論は収束しているわけではない。今回の暴動では「黒人」Blacks と表現しているメディアが多いようなので、当面これに従っておく。

「1967年、長く熱い夏」の記憶 
1966年から1967年にかけて、ニューアーク、デトロイトなど全米にわたる一連の暴動が起きた。そのひとつの発端となったのは、1967年7月12〜17日にかけて起きた今回と類似する出来事だった。7月12日、ニュージャージー州ニューアークで交通違反をした嫌疑で、黒人のタクシー運転手を二人の白人警察官が殴打し、死亡せしめたという噂から発した出来事であり、今回と同様に投石、火炎瓶などによる放火などを含む暴動に波及した。大規模な範囲での商店の破壊、略奪も起きている。7月15日には、鎮圧に当たっていた警官の一斉射撃で、女性が死亡する事態もあり、激しい抗議や破壊があった。

たまたま、この時ニュージャージー州エセックスフェルズ(エセックス郡最小の自治体、当時の住民数2,000人くらい、白人中層、上層の住宅地)にあった友人の家に滞在していたブログ筆者は、暴動が収まりかけた時、友人と共に現場を見る機会があった。1950 年代以降、急速に高まりつつあった公民権運動について着目し、調査を続けていた。ニューアークはエセックス郡 Essex County の郡都でもあった。このニューアーク暴動に先立って、西海岸ロスアンゼルスでもワッツ暴動として知られる事件が発生していた。全般的に、黒人の仕事の機会の減少、劣悪化によって、彼らの経済状況が悪化の度を深めていた時期であった。

今では、この時代のアメリカを知る世代は少なくなり、ましてや事件を体験したり、記憶する日本人はきわめて少ないだろう。今回の全米に及ぶ暴動記事でも、日本のメディアでこのニューワーク暴動に論究したものは少ない。黄色い衣を着たヒッピー(記憶に残る限り、ほとんど白人)が、街の各所で目についた時代だった。それでも敗戦国から立ち直りつつあった日本人にとっては、全般には豊かなアメリカというイメージが強く残っていた時代であった。

N.B.
 1950年代]以降、 マーティン・ルーサー・キング]などを指導者に、アフリカ系アメリカ人をはじめとする被差別民族に対する法的平等を求める公民権運動 civil rights movement が盛り上がりを見せる。その結果、 1964年 7月2日 に法の下の平等を規定した市民権法が制定された。

しかし法的な 差別が撤廃され、それゆえに「自由な国家」であることを標榜する現在においても、白人が多数を占めるアメリカ社会で黒人に対する差別意識は根強く残り、白人に比べて低学歴の 貧困層が多い。

ワッツ(ロスアンゼルス)暴動
1965年8月に起きたWatts Riots は、現在はロスアンゼルス市に併合されているワッツ市で起きた暴動であり、白人のハイウエイ・パトロールが道路上を蛇行運転していた黒人男性を尋問したことから発生した。警官が本人と弟、母親を逮捕したことから暴動が発生し、警察官の襲撃から、商店の集団略奪にまで発展した。州側は州兵を投入し、鎮圧する事態にまでいたった。
暴動のあった6日間で死者34人、負傷者1,032人を出した。逮捕者約4,000人、損害額は3,500万ドルと推定された。

戦車が破壊した街
ニューアークの暴動現場には事態鎮圧のため、当時州兵 New Jersey Army National Guardsmen、New Jersey State Policeが出動し、戦車が黒人が多かった地域の建物を砲撃し、街の一画は完全に破壊され、凄惨な地域になっていた。当時の記録では死者26人、負傷者727人、逮捕者1,465人に及んだ。この時は州兵が出動している。

この時見た街の凄惨な光景は今でも目に焼き付いている。市の中心部に近い一帯が見渡す限り文字通り瓦礫の塊のようであり、煙のようなものが至る所に漂っていた。戦車が砲撃した残骸だった。かなり高層の建物もあったと見られる場所だった。

この時代のニューアークは、ニュージャージー州最大の人口を擁した都市であったが、脱工業化と郊外化が人口構成に大きな変化をもたらしていた。工業化で生活環境が変化したことから、白人の中流階級は州内あるいは州外へと移動していった。当時アメリカ最大規模の「白人の逃避」white flight といわれていた。第二次大戦からの白人の帰還兵 たち veteransは、ニューアークから郊外へと移住し始めていた。州を跨ぐハイウエイ、不動産ローン 普及 の恩恵だった。彼らが去った後、市の中心部は黒人の流入で埋められた。しかし、仕事や住宅面での差別は厳しく、彼らの社会的地位や生活水準は貧困のサイクルへと組み込まれていった。そして、1967年の時点では、ニューアークは全米でも黒人が多数を占める大都市のひとつとなっていた。しかし、政治分野は白人が優位を占めていた。

こうした人種面での格付け、教育、訓練、仕事などでの機会の不足で、黒人の住民たちは政治的パワーもなく、経済的には下層市民の地位に押し込まれていた。さらに、彼らの居住地自体も劣悪化し、都市再開発の対象として破壊されていった。住民はしばしば警官の暴力的行為に虐げられていた。住民の50%近くは黒人であり、当時では警察官幹部にも黒人が採用、登用された数少ない都市のひとつだった。

この事件の後、全米各地で暴動の域に達したプロテストが起こっている。警官との対決ばかりでなく、警察や政府機関、商店の破壊、略奪など、ほとんど暴動といってよい状況が生まれた。参加者には若者が多いが、人種の点では黒人に限らず、多くの人種が参加している。


主要な事件だけでも次のような出来事が知られている:
1968年4月キング牧師暗殺、1980年5月マイアミ暴動、1991年3月ロスアンジェルス暴動、2014年5月ファーガソン暴動、2015年4月ボルティモア騒動 

暴動がもたらした破壊の後には、いくつかの改善もあった。市民に占めるニューアーク市の黒人比率は半数近くに上昇した。例えば、ニューアーク市警察本部の警察官に占める黒人の比率は一時期50%近くに上昇したが、その後35%近くであまり変化はない。

ニューアークに限ったことではないが、人種差別問題の根底には様々な要因が働いており、時代の変化とともに社会の根底でダイナミックに動いてきた。脱工業化や郊外化の動きもその要因だった。白人が郊外へと流出した後へ黒人が流入して集住化が進む「インナーシティ」といわれる問題は、ニューアークに限らず、全米の多数の都市で見出されるようになった。ヨーロッパでもイギリスなどの都市で長らく問題になってきた。

公民権法の成立によって、公共分野などでのあからさまな差別行為は見えなくなった。アメリカ史上初めてカトリックの大統領としてのJ.F.ケネディ、初めての非白人のオバマ大統領の誕生など、アメリカの偉大さ、立派さを感じさせることもあった。しかし、それと逆流する動きも依然として強い。法律ができたがために逆差別と言われる現象や陰湿で表面に見えない差別が生まれ、拡大した面もある。

この問題、日本にとっても無縁ではない。少子化による人口の減少に伴い、日本で働いたり、定住を目指す外国人も増えた。しかし、彼らの多くは日本人労働者の下に形成される最下層の市場へと組み込まれてゆく。差別の制度化ともいえる現象だ。

20世紀の問題はカラーラインである(W.E.B.デュボイス)
アメリカの場合は、奴隷制度の過去が根強い影響力を持っている。奴隷解放から今日まで、きわめて多くの主張、運動や論争が行われてきた。アメリカの文化的潮流のひとつを形作っている。この問題に深く立ち入ることなく、今回のような出来事を正しく理解することはできないと言っても過言ではない。

このたびのニュースを見ながら、最初に脳裏によみがえってきたのは、1967年ニューアーク騒動であり、大学院の公民権法(政治思想史)セミナーで、アサインメントとして最初に手にしたのは、20世紀初頭最も影響力を持ったアフリカン・アメリカンの政治的指導者で学者でもあったW.E.B.デュボイスの著作であった。より詳細を紹介する機会があるかもしれないが、この著作で彼は「20世紀の問題はカラー・ラインである」と喝破し、黒人の歴史、人種差別主義、そして奴隷解放以来の黒人の闘争について述べ、道徳、社会、政治、さらに経済の領域における平等について、迫真力ある論説を展開している。その思想は大変強く記憶に残った。新型コロナウイルスと黒人騒動に揺れるアメリカを理解する上で、現代人が手に取るべき一冊ではないかと思う。




☆  たまたま送られてきたNational Geographic 誌が次のタイトルの論説を掲載していた。

Systemic racism and coronavirus are killing people of color. Protesting isn't enough.
After the protests end and the pandemic passes, will anything change for America's communities of color?
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他の人たちの生活: 危機の時代に生まれる文化

2020年05月31日 | 特別トピックス

ケンブリッジ大学キングス・コレッジ前 (Kings Parade St)             YK Photo


新型コロナウイルスの蔓延で、自宅に閉じ込められた生活を強いられた人は多い。急に増えたゆとりの時間の使い方に悩み、フラストレーションがたまったりする人もいるようだ。この期間、人々が何をして過ごしたかという点について、いくつか報道があった。1)「家財の断捨離・掃除」、2) 「家の中でできる運動」、3) 録画や本など眠るコンテンツの消費、  4)動画配信サービスの利用、5) 飲食店のテークアウトの活用などが上位を占めていた(『日本経済新聞』2020年5月30日)。

興味深いことは、こうした大不況期においても、人間の文化活動は衰えることなく、独自の文化遺産が残されていることが知られている。1930年大恐慌時代のアメリカでも、文学や映画、演劇、音楽、建築など多くの領域で後に「ニューディール・カルチャー」と呼ばれる独自の時代文化の形成があった。

長年購読している雑誌のひとつに、危機の時期に記された日記類には、後代の人々にとって慰めや新たな発想の源となりうるものが含まれているとの短い記事が掲載されていた。

 ’The lives of others’  The Economist May 23th-29th 2020

第一次大戦期の日記
そこでひとつの例として挙げられていたのは、ヴァージニア・ウルフ Virginia Wolf *の日記であった。約30年にわたる日記が残されている。この作家の日記はしばしば戦争によって、ブックエンドのように区切られている。彼女が未だ若かった頃、第一次世界大戦(1914 年7月から1918年11月)の時期に記された日記では、他の人々、場所、書籍についての観察は、しばしば意地悪く、偏見が含まれていた。時には歪み、辛辣でもあった。今は知る人も少なくなった1917年のロンドン大空襲の時、彼女は自宅のキッチンで仕事をしていた。

The Diary of Virginia Woolf, Volume 1: 1915-1919 , 1979

N.B.
 ヴァージニア・ウルフ Virginia Woolf (1882年 -  1941年)は、 [イギリスの 小説家 、 評論家、書籍の出版元であり、20世紀 、モダニズム文学の主要な作家の一人。両大戦間期、ウルフはロンドン文学界の重要な人物であり、 「ブルームズベリー・グループ」の一員であった。ジョン・メイナード・ケインズもそのひとりだった。
ウルフの代表的小説には『 ダロウェイ夫人』 Mrs Dalloway (1925年)、『 灯台へ』To the Lighthouse (1927年) 、『 オーランドー』 Orlando (1928年)などがある。

第二次大戦期の日記
第二次世界大戦(1939年9月– 1945年9月)の時期、1940年10月、モダニストとしての名声を確保したウルフは、イギリス、サセックスの自宅で仕事をしていた。この戦争の時代について、彼女はなんとなく積極的、ポジティブな心を保っていたと振り返っている。村の狭い範囲での生活に小さくなっていた時にはおかしなことではあった。暖房などに使う薪は十分買ってあった。友人たちは暖炉の火で隔離されていた。車もなく、ガソリンもなく、列車の運行も不確かだった。それでもウルフ夫妻は素晴らしい自由な秋の島を楽しんでいたと記している。村での静かな日々に心の癒しや慰めも感じていたようだ。

 それからほぼ5ヶ月後、彼女は別の精神的挫折を感じていた。彼女は遺書を残し、コートのポケットに石を詰め、ウーズ川に身を沈めていた。1941年3月末のことだった。

日記はこうした日々に複雑に揺れ動く微妙な心の動きを記しているが、混沌の中に美も見出していた。1904年の父の死去の頃から、ウルフは生涯を通して周期的な気分の変化や神経症状に悩まされた。大変繊細なところもあり、心は絶えず揺れ動き、「落ち込み」depression は頻出する言葉だった。それでも、文筆活動は一生を通してほとんど中断することなく続けられていた。天才的な芸術家にしばしば見られる性向でもあった。しかし、彼女が終生悩まされた病については議論があり、明らかではない。

ウルフはユダヤ人の夫レナードと幸福な結婚をしていながらも、日記に「私はユダヤ人の声が好きではない。ユダヤ人の笑い方も好きではない」と書いている。また、ウルフはレナードのユダヤ人であることを嫌がった自分は「 スノッブ」だったと回想している。こうした点もウルフの複雑な精神状態を伝えている。

ブログの時代
ヴァージニア・ウルフは、ブログ筆者は特に好んで読んできた作家ではない。しかし、かつて過ごしたケンブリッジでの生活の間、何人かの日本からの英文学研究者に出会ったが、そのほとんどがウルフを研究対象にしていることに驚かされた。そうしたこともあって、暇な折に代表的といわれる小説だけは読んでいた。自分で車を運転してサセックスまで行ったこともあった。日記も公刊されていたことは知っていたが、文学は専門でもなく、立ち入って読んだことはなかった。

今回、偶然にウルフの日記に言及した記事に出会い、この複雑で揺れ動いた精神状態の持ち主であった優れた女性作家が記した日記は、彼女の最善と最悪の精神状態を包み隠さず、読者にも自分たちだけが悩み苦しんでいるのではないことを知らせてくれる。さらに、暗い時代でも時には喜びの瞬間もあることを伝えてくれる。I T上にブログが溢れる今の時代も、次の世代の人たちから見ると、「新型コロナウイルス」大不況期として、固有な特徴を持ったひとつの時代として回顧されるかもしれない。

 

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政策はまたも不在:新型コロナウイルス経済政策

2020年05月28日 | 特別トピックス

 
緊急事態宣言の解除で、新型コロナウイルス対策は一つの区切りを迎えた。医療面での対応は別として、財政支出が伴う国民ひとり当たりマスク2枚、10万円給付の対応は、未だ実現していない地域もかなり多いようだ。

マスク給付は遅れた上に品質もいまひとつ、ほとんど使い物にならなかったとの感想も多く、これで救われたという声も聞かれず、およそ466億円が支出され、大きな国費の浪費となった。必要な時に役に立てない政策は、厳しく批判するしかない。ひとり2枚のマスクで、このたびのウイルス感染から逃れうると政策担当者が考えたとも思われない。

10万円給付も地域によって大きな差異が生まれ、大人口を抱える都市や区部では、オンラインはたちまちパンク状態となり、郵送書類申請に切り換えるところも増えている。今回の事態で初めてマイナンバーカードの存在と重要さを知った人も多く、その申請、更新、暗証番号の設定などで窓口が大混雑している。ブログ筆者もマスク同様、アクセスを諦めている。

多少、この混乱ぶりに行政側に同情?する部分がないわけではない。マイナンバーあるいはマイナンバーカードの説明不足、誤解、反対などが未整理のままに、今日まで推移してきたところで、突如勃発した今回の新型コロナウイルス感染問題である。多くの問題が一挙に行政の窓口に押し寄せることになった。

備えあれば憂いなし
10万円給付にまつわる諸問題は、いつ来るかもしれない次の危機への貴重な教訓となる。給付事務の渋滞・遅れなどの問題を別にすれば、この給付がいかなる経済効果を生むか、受給者の消費、投資、貯蓄などの面での行動について、しっかりした調査、検討が行われるべきではないか。

今回の給付は一回限りで、同様な給付が続けて行われる可能性は少ない。それだけに、こうした給付の経済効果は、効果を正しく掌握しておく必要がある。現在の段階では、ほとんど議論になっていないが、将来ユニヴァーサル・インカム(UBI)などのプランが地域あるいは全国を対象に構想されるような事態が生まれるとすれば、今回の10万円給付は重要な効果判断資料の一部となりうる。これほど大規模な社会実験はとてもできないからだ。それだけに今回の給付も全国的に遅滞なく実施されることが必須なのだが。

必要なのは政策目的の確立
今回の10万円給付は、政府としては「清水の舞台から飛び降りた」くらいの決断なのかもしれないが、政策目的は判然としない。突然の収入減への手当てくらいの認識なのだろうか。数ヶ月給付継続の案も出ているようだが、それならば一層政策目的の確立が必要となる。

ある国際比較によれば、世界166カ国の中で、日本政府が実施した経済支援は国内総生産(GDP)に占める比率で見ると、約2割に相当する108兆円で世界でも最高位にランクされるという。にわかに信じがたい評価でもある。
しかし、中央銀行の対応などを含めると、こうした順位は大きく変わる
(Ceyhun Elgin, BBC 8 May 2020)。

さらに、国民一人当たりの現金給付額となると、香港£985、アメリカ合衆国(£964)、日本(£752)、韓国(£659)、シンガポール(£340)などの順位となる(OECD, BBC)。

こうした経済支援は多くの国が現在も実施中であり、効果を評価するには、一定期間を限定する必要がある。マスクのように配布が長引くようだと、効果測定も難しくなる。いくら良薬を投入しても、タイミングを失すれば期待した効果は上がらない。

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遠からず来る時を前に(6): 1930年代「大恐慌」のイメージは?

2020年05月19日 | 特別トピックス

このたびの新型コロナウイルスCovit-19の蔓延による経済への大打撃は、1930年代の「大恐慌」the Great Depression 以来といわれることがある。確かに、このウイルスの蔓延拡大とともに、経済面への影響は急速に深刻化の度合いを強め、グローバル危機の様相を明らかにしてきた。

しかし、多くの人々が口にする「大恐慌」が、実際にいかなるものであったか、その現実を体験、あるいは記憶する人々は、きわめて少なくなった。このところ本ブログで数回にわたり記しているのは、「グローバル危機」といわれる世界史的危機が、いつ頃から発生したかという歴史的認識の確認である。その後、この範疇に入ると思われる世界的規模での経済不況の輪郭あるいは断片について記してきた。

「大不況」をいかにイメージするか
1930年代の大不況については、夥しい文献が蓄積されているが、それだけにその全容を、今日改めて視野に収めることはきわめて難しい。この大不況の終幕については、第二次世界大戦へのアメリカの参戦などにより、民需主体の経済政策の効果を確定することが困難に終わっている。アメリカを中心に行われた大規模な公共事業投資などの経済政策が知られているが、必ずしも共通な認識が得られているとは思えない。

こうした状況で、当時の経済、社会状況を体験しうるひとつの手段が映像、写真、絵画など、視聴覚に訴えるメディアといえる。前回、『LIFE』誌を援用し、その一端を記してみたが、今回も別の例を取り上げてみた。

巨大な造形美
この巨大な建造物の写真、アメリカ 、モンタナ州のフォート・ペック・ダム(Fort Peck Dam) である。このダムは、アメリカ・ ニューディール政策の1つの事業として、 ミズーリ川に建設された。雑誌 『LIFE』創刊号(1936年11月23日号)の表紙を飾った作品である。

この写真を撮った写真家は、マーガレット・バーク=ホワイト (1904 – 1971)
という女性であった。 ニューヨークで生まれ、大学卒業後、活気に溢れる産業都市クリーヴランドで工業製品の撮影を開始した。そしてごくありふれた工場の光景を力強く流麗な産業写真として表現し、大きな注目を集めた。『フォーチュン』誌などで評価を高め、1936年『ライフ』創刊号の表紙を飾り、以後同誌の中心写真家として活躍した。撮影対象も戦争や社会問題に積極的に取り組み、世界的なフォトジャーナリストとして、著名になった。日本でも作品集や作品展が開催されたこともある。

彼女がこの写真を撮影するためにダムを訪れた時、およそ1万人の労働者が建設現場で働いていたが、アメリカ経済は依然として不安定で先行きがおぼつかない状態だった。この写真はそこに働く労働者の力とそれが作り出す巨大な建造物によって、アメリカの当時の姿を象徴しようとしたものだった。

アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府は見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが、失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻らなかった。

 

マンガ:『必要なのは新しいポンプ』
1935年近くの作品
ニューディールで政府は経済に呼び水を迎えるポンプを作るが、水は至る所に撒かれるばかりで、期待する効果がないと風刺。
Source: Alan Greenspan & Adrian Wooldridge, Capitalism in America: A History, New York: Penguin Press, 2018

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