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小林永濯『菅原道真天拝山祈祷の図』
1860-90年頃、綿布墨画着彩 一幅
181.1 x 98.2cm
ボストン美術館
閉展間近かとなった『ダブル・インパクト:明治ニッポンの美』展に出かける。ボストン美術館・東京藝術大学の所蔵する明治ニッポンの美術・工芸の名品の同時展示である。このところ、内外で見てみたい美術展が多く、かなり忙しい。東京藝術大学美術館のある上野公園・根津権現地域は数多くの由緒ある社寺、名所旧跡が多く、目的地に到着するまでに寄り道をしたい誘惑にかられる。今回はできるかぎり一直線に藝大美術館に向かった。
藝大美術館は深い緑に覆われていた。前回訪れた時は明るい新緑だったが、時間の過ぎる速さに驚かされる。同じ所がまるで違ってみえる。キャンパスは美術学部と音楽学部が道を隔てて対している。美術学部の門付近には昔懐かしい教員の出講名札(小さな木板に墨で名前が書かれている)が残されていたりで、気持ちのなごむ場所だ。学生食堂、カフェテリア・レストランをのぞいたりして、展示室に入る。
展示品は適度な数だが、その内容、とりわけ質の高さに驚かされる。特に、明治期に日本からアメリカへ流出した美術工芸品は、初めて見てどうしてこうした作品が流出してしまったのだろうといまさらながら考えさせられる。アメリカのメトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリーなどの基礎ともなった作品にも、同様なことがあった。フランス画家の秀作が流出してしまい、責任を問われたフランス政府が答弁に困惑したこともあった。今改めて、ボストン側から出展された作品を見ると、それが日本にないという残念な思いとともに、作品の保存状態の良さに安心する。
開国から明治にかけての時代、西欧などの先進国に追いつこうと、日本には清新なエネルギーが溢れていたようだった。1867(慶応3)年、開成所画学局のメンバーのほぼ全員が、パリで開催された万国博覧会に油彩画を出品している。フランス人を初めとする西洋の目の肥えた鑑賞者の水準には到底及ばない水準であったが、その物怖じしないチャレンジの意気込みは今では到底考えられないものだ。
高橋由一
花魁(美人)
1872(明治5年)
重要文化財
東京藝術大学
パリ万国博から5年、1872(明治5)年、高橋由一は、当時次第に廃れ行く花魁という存在を記録に留めたいとの依頼で、稲本楼の花魁「小稲」を描いた。上掲の作品だ。高橋由一は、1861(文久元)年,来日したイギリス生まれの「イラストレイティッド・ロンドン・ニュース」の特派員・報道画家として来日したチャールズ・ワーグマンから油彩画・水彩画の技術を学んだ。
洋画を専門としたわけではなかったワーグマンだが、西洋の画法を学びたいと訪れた多くに日本人に、惜しみなく持てるものを伝授した。彼に画法を学んだ画家たちのその後の活躍を考えると、その功績はきわめて大きい。
さて、高橋由一のその後の日本の風土でこなれた作品と比較して、この作品は、油彩の技法で描かれてはいるが、ひと目見て日本画でもなく油彩画でもない生硬さを感じる一方で、画家が取得した技法を最大限駆使してみようとの意志が伝わってくる。やや異様な感じさえ与えるこの作品は、日本が過ごした過去へのオマージュのようだ。
その後、画家高橋由一がいかに西洋の油彩技術を日本の風土を描くに際して駆使したかは、今回出品はされていなかったが、後年の名作『鮭』(東京藝術大学蔵、重要文化財)などに明瞭に表れている。ちなみに高橋由一の手になる『鮭』は、この他に2点余りあるようだ。
黒田清輝
『婦人像』(厨房)
東京藝術大学
明治ニッポンのエネルギーはとてつもなく大きかった。「和魂洋才」のスローガンの下に、日本で画法を学ぶことに充たさされなかった多くの日本人画家が、ヨーロッパへ渡った。上掲の作品、最初見た時はフランス人の作品かと思ったほどだった。近代洋画の父とされる黒田清輝の作品である。1890年パリ郊外グレー村に住み着いた黒田清輝は、ビヨー家の離れ家を借り、暮らした。同家の娘マリアをモデルに描いた作品とされる。和やかな色彩をもって、静かな光景が描き出されている。西洋油彩画の技法でモデルもフランス人ではあるが、当時フランス人画家の描いた雰囲気とは異なった、和洋折衷的ともいわれる外光派として、日本の洋画教育に大きな役割を果たした。
最近では美術家や美術品の国境を越えての移動についても、migration (移動、移転)という表現が使われるようになったいるが、この展覧会は日本が開国(1854年)してから日露戦争(1904年)にかけて、大きなエネルギーを発散させていた時代の美術・工芸界の一端を、ボストン美術館、東京藝術大学という2大拠点が所蔵する作品を移転することをもって、構成したものだった。
幕末・明治における日本の清新なエネルギーをもらって、満ち足りた気分で、昔の面影をそこここに留める根津、不忍界隈を楽しみながら帰路についた。