白老のウポポイや苫小牧などについては記したいことは多いのだが、旅の途上でもあり、あきらめて近くの登別温泉に向かう。秋の山々は美しいが、コロナ禍の影響で人影は少ない。タクシーの運転手さんが問わず語りにコロナ禍前後の町の変化を語ってくれた。一時はインバウンドの観光客目当てのコンビニ、ドラッグストアまで開店し、大変盛況だったようだが、今はほとんど廃業してしまったとのこと。ホテル、旅館が林立する有名温泉街も昔日の面影はなく、多くの店が入り口を閉めており、昔日の賑やかさは想像もし難いほどで寂寞感が漂っていた。直後の旅行制限の撤去がどれだけ改善効果を発揮するだろうか。
旅の徒然に
林芙美子と内田百閒
旅に出る時は、若い頃からの習慣で途中で読む本を持っていく。大体肩の凝らない随筆とか短編が多い。今回は刊行されたばかりの林芙美子(1903年〜1951年)『愉快なる地図』(中公文庫、2022年)と内田百閒(1889年〜1971年)『蓬莱島余談』(中公文庫、2022年)の2冊にした。戦後書籍の出版数が少なかった頃、林芙美子、内田百閒、獅子文六などの作品は両親、更には両親の友人の蔵書まで借りて読んだ。その記憶が残っており、長らく読むことがなかった著者の名前が懐かしく久しぶりに手に取った。戦後生まれの若い世代の人たちは、ほとんど手にとることのない著者であり、作品だろう。
林芙美子と内田百閒
旅に出る時は、若い頃からの習慣で途中で読む本を持っていく。大体肩の凝らない随筆とか短編が多い。今回は刊行されたばかりの林芙美子(1903年〜1951年)『愉快なる地図』(中公文庫、2022年)と内田百閒(1889年〜1971年)『蓬莱島余談』(中公文庫、2022年)の2冊にした。戦後書籍の出版数が少なかった頃、林芙美子、内田百閒、獅子文六などの作品は両親、更には両親の友人の蔵書まで借りて読んだ。その記憶が残っており、長らく読むことがなかった著者の名前が懐かしく久しぶりに手に取った。戦後生まれの若い世代の人たちは、ほとんど手にとることのない著者であり、作品だろう。
今回読んだのはいずれも広く紀行文の内に入る作品といえる。この作品は、1930年から1936年にかけて、台湾、樺太、パリなどへの旅に関わるエッセイである。『女人芸術』、『改造』などに寄稿された短い印象記などが後に編集され、一冊となっている。代表作ではないが、林が文壇に登場した頃の飾り気のない人生の時期が記されており、波瀾万丈であったこの作家を理解する上で得難い作品である。
林は昭和3年「改造社」刊行の自伝的小説『放浪記』がベストセラーになり、一躍文壇に登場した。彼女自身が幼い頃から貧窮な生活を経験しているがゆえに、貧民街に泊まることなどを物怖じしない、率直で飾り気のない文体で記されている。今の時代の若い人たちも抵抗なく読めるのではないか。文庫版表紙のイメージは、着物と下駄で旅先を走っていた林芙美子の時代、人生とは違和感を覚える今風のものになってはいる。
樺太を除くと、ブログ筆者も訪れたことのある場所があり、懐かしい思いがした。台湾の旅は林にとって初めての海外旅行でもあり、婦人作家との団体旅行だった。帰国後、『放浪記』(改造社)が予想を上回り売れに売れて、女性の新人作家としては異例のベストセラーとなった。
彼女は『放浪記』の印税が思いがけず入ったことで、3百円の現金を腹巻に、パリに始まるヨーロッパ大陸への旅に出た。インド洋を経由する海路もあったが、月日も費用もかかることもあって陸路を選んだ。時は昭和6年満州事変の最中であった。スポンサーも出版社などのアテンドもあるわけではない、女ひとり、3等列車の旅の情景が描かれている。
ブログ筆者の時代には、ヨーロッパへの旅の主流は航空機に転換しつつあり、モスクワ経由でヨーロッパへ旅する経路が一般化していた。シベリア鉄道を利用するのは、安価な学生旅行など、例外的になっていた。その意味でも、林が経験した大戦直前の中国、ロシアの庶民の日常の光景がきわめて興味深い。次々と入れ替わる乗客たちの描写は、何の飾り気もない粗野で貧しい庶民の振る舞いそのままだが、旅を終わってみると、彼女にはロシア人が最も人間らしく好感が持てる存在として残る。ブログ筆者の友人にもロシア人(カナダへ移住)の親友があり、20代から今日まで交友を続けてきており、同感することが多々ある。ロシアのウクライナ侵攻が、ロシア人一般へのマイナス・イメージを作り出したことに深い悲しみを感じる。
パリでの生活では、貧困な日々ではあったが、フランス語習得に「アリアンス(AllianceFrançaise)に通ったり、努力を怠らない人であった。
林は旅行好きで前後8度中国大陸に渡航、その中に2度は従軍して戦線に向かった。しかし、その思想、言動の故にかなり嫌な体験もしたようだ。戦時中は『放浪記』などは風俗撹乱の恐れある小説として発禁になったこともあった。貧困に背中を押され、原稿依頼を断ることがなかったこともあってか、林芙美子の著作数はきわめて多い。実生活では毀誉褒貶ただならぬ人生であったが、林本人としては最後までひたすら走っていたのだろう。
人と人とのつながりも、いまはあまり魅力を感じなくなった。私は旅だけがたましいのいこいの場所となりつつあるのを感じている
林は旅行好きで前後8度中国大陸に渡航、その中に2度は従軍して戦線に向かった。しかし、その思想、言動の故にかなり嫌な体験もしたようだ。戦時中は『放浪記』などは風俗撹乱の恐れある小説として発禁になったこともあった。貧困に背中を押され、原稿依頼を断ることがなかったこともあってか、林芙美子の著作数はきわめて多い。実生活では毀誉褒貶ただならぬ人生であったが、林本人としては最後までひたすら走っていたのだろう。
人と人とのつながりも、いまはあまり魅力を感じなくなった。私は旅だけがたましいのいこいの場所となりつつあるのを感じている
(『私の紀行』序、新潮文庫、1939年7月)。
1951年(昭和26年)6月28日心臓麻痺で急逝した。享年47歳。
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1951年(昭和26年)6月28日心臓麻痺で急逝した。享年47歳。
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內田 百閒(1889年- 1971)も、その軽妙洒脱な筆致で肩が凝らない作品が多く、『 百鬼園随筆』『阿房列車』など、かなりの作品を読んだ。
百閒が 陸軍・海軍関連の学校、法政大学などで教鞭をとった後、しばらく失職していたが、友人辰野隆の計らいで1939年(昭和14年)、 日本郵船嘱託(文書顧問 - 1945年)の職を得た。今回の『蓬莱島余談』は、その間の出来事を台湾旅行を中心に関連する旅行談、周遊記、交友談などをまとめたものだ。
嘱託といっても実に優雅な勤務で、午後2時から半日づつ、水曜か木曜は休み、月二百円の手当だった。公務員の初任給が月70円か80円くらいだったといわれるので、大変恵まれた仕事だった。郵船側も百間になにか特別な期待をしていたとも感じられない。良き時代の大会社郵船の「社会サーヴィス?」だったのだろうか。
時には郵船の大型船の船上に当時の著名文士や知名人を招き、社費で盛大な宴会を開催するなど、金繰りに奔走したなどと言いながらも、優雅な仕事?を楽しんでいたようだ。大型豪華客船の一等船室に泊まり、豪華な食事に好物の麦酒(ビール)を飲み、日常の些事はボイ(ボーイのこと)に頼んで旅を楽しむ光景は、どう考えても借金に苦しむ貧しい生活とは見えないのだが。
点描
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借金と錬金術
旧制岡山県立中学校在学当時から父の死により実家の造り酒屋が倒産し、以後金銭面での苦労が多かった。著作には借金や高利貸しとのやりとりを主題としたものも多く、後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。
宮城道雄との縁
今回の『蓬莱島余談』にも、頻繁に登場してくるが、百間は岡山時代から箏曲の名手宮城道雄と親しく交流していた。逆に宮城道雄の著作については百閒が文章指南をしていた。百閒と宮城は、ロシア文学者の米川正夫や童謡作詞家の 葛原しげる らともに「桑原会」(そうげんかい)という文学者による琴の演奏会を催していたこともある。
旧制岡山県立中学校在学当時から父の死により実家の造り酒屋が倒産し、以後金銭面での苦労が多かった。著作には借金や高利貸しとのやりとりを主題としたものも多く、後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。
宮城道雄との縁
今回の『蓬莱島余談』にも、頻繁に登場してくるが、百間は岡山時代から箏曲の名手宮城道雄と親しく交流していた。逆に宮城道雄の著作については百閒が文章指南をしていた。百閒と宮城は、ロシア文学者の米川正夫や童謡作詞家の 葛原しげる らともに「桑原会」(そうげんかい)という文学者による琴の演奏会を催していたこともある。
1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城が大阪行夜行急行「銀河」から転落死した後、百閒は追悼の意を込めて遭難現場となった東海道本線刈谷駅を訪問し、随筆「東海道刈谷驛」を記している。
円本
1926(大正15)年末から、改造社が刊行し始めた『現代日本文学全集』を皮切りに、出版各社が次々に刊行し始めた、一冊一円の全集類のことだが、これによって出版業界に製本から販売までのマスプロ体制が確立されたといわれる。印税で円本成金になった文士たちが相次いで海外旅行などに出かけたようで、百間もその例に漏れなかった。
林芙美子さんとの出会いもあったようだ。新造船八幡丸に神戸から林さんが乗船されるとのことで、高名な巾幗(キンカク:女性の意)作家をご招待し、歓待しようとしたが、そっけない対面だった。どうも波長が合わなかったようだ。このくだりも百間は記しており、読んでみて面白い。林芙美子の側にはこの時については何も記述も残っていないようである。スポンサーに恵まれ、苦労もない贅沢文士にしか見えなかったのだろうか。
1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳
老衰で原稿が書けなくなっていたと伝えられる。