サンドロ・ボッティチェリ《東方3博士の礼拝》1475, テンペラ・板、111 x 134cm, フローレンス、ウフィツイ美術館 (元来、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂内にあるラーマ家の祭壇画であった)。
この絵画作品はかなり有名なので、ご存じの方もおられよう。しかし、作品の依頼者、主題、大きさ、色彩、スタイル、描かれている人々などを決めたのは誰かとなると、かなり難しいはずだ。イタリア美術史専門の友人でも直ぐには答えられないだろう。
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北方への旅に出る直前、読み終えていた一冊の本がある。ヤマザキ・マリさんの最近著『リ・アルティジャーニ:ルネサンス画家職人伝』(新潮社、2022年)である。卓抜なマンガの描写力で15世紀ルネサンスの画家群像が描かれている。この時代、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどで知られる巨匠が活躍した画期的な時代であった。しかし、当時の画家たちは「画家」という認識がなく、あくまでも「職人(アルティジャーニ、Gli Artigiani)であると自他共に考えていたという。
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大変興味深く読了したが、読者としては率直に分かりにくい点もあった。この時代の画家たちがなぜ「職人」であり「画家」ではなかったのか、そして次の時代には彼らがいかにして「画家」へと自立していったのか、という論理が画家群像の影に隠れて読み取り難いという印象を抱いた。今回はその点を少し記してみたい。
商業的な絵画市場、私的なコレクターなどが生まれるまでの時期には、教会や公的な場所の祭壇画や装飾のためには、パトロン(クライアント)が画家や彫刻家に制作を依頼し、画材などを含め制作費用を支払った。彼らの存在なしには画家は存立が難しかった。イタリアの場合、パトロンは金融、商業、毛織物業などで蓄財した富裕な商人、製造業者が多かった。彼らは同職組合を結成し、互いに勢力を競い合った。フィレンツェの場合、メディチ家の庇護、支援を確保するために、パトロン間の競争も激しかった。他方、画家、彫刻家などは職人層に含まれ、彼らからの仕事を得ることで存立していた。
メディチ家の特別な地位
上掲のポッティチェリの作品を例に、パトロンと画家の関係を考えてみたい。ボッティチェリはメディチ家と親しかったパトロンの銀行家ガスパーレ・ザノビ・デル・ラーマの依頼でメディチ家の繁栄を願い、この祭壇画を描いた。フィレンツェの門閥貴族であったメディチ家は15世紀に全盛を迎えていた。商業、金融などで勃興し、ルネサンスの学問、芸術の保護者であった。パトロンたちはメディチ家の繁栄と庇護の下で、自らの事業などを展開していた。メディチ家の存在は、他の地域とは一線を画す特別な存在であった。パトロンとメディチ家の繁栄は、表裏一体の関係にあったといえる。
ポッティチェリは人気のある画家ではあったが、自らの芸術的発想で自由に画面に絵筆を振るえた訳ではなかった。主題から描きこまれる人物まで、パトロンの要求する条件でがんじがらめになっていた。この点は本ブログでも取り上げてきた17世紀以降の画家たちの制作環境とはかなり異なっている。彼らにとってもパトロンの存在は重要ではあったが、自らの創造性、技量の発揮によって、芸術家としての独立性を確立していた。
15世紀イタリアの場合、パトロンの求めた諸条件は画家との間の契約書、文書などに記載されている。今日まで多くの史料が残されており、確認できるものもある。この点を補充する具体的事実を知るには邦語文献では下掲の研究*が充実している。
*松本典昭『パトロンたちのルネサンス:フィレンツェ美術の舞台裏』日本放送出版協会、2007年
さて、この作品ではテーマの《東方3博士の礼拝》の下に、描かれた対象はさまざまな条件が盛り込まれている。背景左端の壊れた古代遺跡は異教の終焉を象徴し、右端の孔雀はキリスト教会の勝利を象徴する。
描かれている人物の幾人かは、誰であるか判明している。3博士と従者には、メディチ家のコジモ(完成時故人、最初の賢人の姿)と息子ピエロ(故人、中央赤色衣装)、ロレンツォとジュリアーノ兄弟、ラーマや画家自身、さらにポリツィアーノ、プルチ、アルギュロプロスなどロレンツォを取り巻く文化人などを描き込ませている。画面左側に赤い帽子を被った若者はアンジェロ・ポリツィアーノという有名な詩人である。彼は左側の貴人に礼拝を促している。描かれている人物の多くは、メディチ家に関連する重要な政治的・文化的なグループに所属したと想定されている。ちなみにこの祭壇画が完成した翌年の1476年、ラーマは詐欺罪で有罪判決を受け失墜した(松本 171ページ)。
上掲図部分
15世紀イタリアでは依頼者であるパトロンは画面のどこか目立たないような所に傍観者などの形で顔、姿を描かせることは珍しいことではなかった。時には妻や子供など家族も描きこませた。この作品ではパトロンのラーマは右側後方に観る人の方に顔をむけて描かれている。彼の前に青い衣装で描かれているのは、ロレンツォだろう。画面右側、黄色の衣装の人物は、画家ボッティチェリの自画像とみられる。
上掲図部分
これらの諸点から見ても、パトロンが画家に要求した条件は数多く、画家の裁量を厳しく支配していた。画家はその制約の中で、自らの技量を誇示するしかなかった。職人といわれる所以である。それでもポッティチェリは、その天賦の才を発揮している。
親方が運営する工房が依頼者であるパトロンから注文を受けると、職人が分業で作品を仕上げていく。その中で特異な能力や技能を保持する者が、新たなアイディアに基づく作品や技法を展開し、それまでの芸術の歴史を大きく変革していった。ルネサンスと言われる時代であった。
画家の自立に向かって
パトロンの関心は、時代とともに顔料、絵の具など画材の質、量から、作品の質そしてその制作に当たる画家の技能の評価へと重点が移行していった。パトロンの立場は依然として強かったが、その過程で画家は次第に自らの主張を強め、芸術家としての独立した立場を獲得して行く。ブログ筆者は、このアーティストとしての自立の過程を重視したい。
15世紀イタリアでは、絵画や彫刻などアートを鑑賞する側の人々は何を基準として作品、そして画家のスキルの優劣を判断したのか。この点が次の課題となる。
続く
親方が運営する工房が依頼者であるパトロンから注文を受けると、職人が分業で作品を仕上げていく。その中で特異な能力や技能を保持する者が、新たなアイディアに基づく作品や技法を展開し、それまでの芸術の歴史を大きく変革していった。ルネサンスと言われる時代であった。
画家の自立に向かって
パトロンの関心は、時代とともに顔料、絵の具など画材の質、量から、作品の質そしてその制作に当たる画家の技能の評価へと重点が移行していった。パトロンの立場は依然として強かったが、その過程で画家は次第に自らの主張を強め、芸術家としての独立した立場を獲得して行く。ブログ筆者は、このアーティストとしての自立の過程を重視したい。
15世紀イタリアでは、絵画や彫刻などアートを鑑賞する側の人々は何を基準として作品、そして画家のスキルの優劣を判断したのか。この点が次の課題となる。
続く