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   桑原靖夫のブログ

画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(7):ジャック・カロの世界

2013年05月11日 | ジャック・カロの世界

ジャック・カロ 『リムプルネッタの市』
Jacques Callot. L'Impruneta.
クリックして拡大

L'Impruneta, details.
同上詳細 

 度々の中断で、このシリーズ、思考の糸が切れ切れになっている。多少(?)横道に入るが、少し修復作業をしてみたい。

カロの精密な仕事ぶり
 
ジャック・カロの作品を見ていると、これは制作に際してかなり強度な拡大鏡などを使わなければとても無理ではないかと思うようになった。たとえば、上掲の作品は、カロのフローレンス時代の代表作のひとつである。毎年、聖ルカの祭日にトスカーナの小さな町イムプルネッタで繰り広げられる市の光景を描いたものである。全体の構図、そしてその細部を見ていると、とても人間の目と手
だけでこれだけの細密な銅版の彫刻をやりとげられるとは考えがたい。拡大鏡の助けを借りても、恐ろしく大変な仕事と思う。

 それでは、カロはどうやってこのような精密な銅版彫刻を続けられたのか。管理人の考えたひとつの仮説をご紹介しよう。

 ジャック・カロ(1592-1635)は、43歳という当時でも比較的若い年齢で亡くなった。その短い生涯に驚くべき多数(およそ1400点)の作品を残した。1592年にロレーヌのナンシーで生まれたが、1608-1621年のほぼ13年間をイタリアで過ごした。最初はローマで修業と制作の活動に没頭した。自ら選んだ職業とはいえ、カロの仕事ぶりは今でいうワーカホリックに近かったのではないかと思うほど超人的だ。これもシリーズ前回までの繰り返しになるが、後半はフローレンス(フィレンツェ)へ移り、若いトスカーナ大公コジモII世付きの画家として働いた。その経緯を少し詳しく記すと次のようなことである。

 1611年、著名な銅版画家アントニオ・テムペスタ Antonio Tempesta がカロの力量を見込み、スペイン王妃、マルゲリット・オーストリアの葬儀のためにギウリオ・パリジ Giulio Parigi とテムペスタ自身が制作した装飾を版画化するため、カロを雇った。マルゲリットは、スペイン王フィリップIII世の妃であり、トスカーナ大公コジモII世の妻マリア・マグダレナの姉であったが、1611年11月3日に逝去し、葬儀はフローレンスのサン・ロレンゾ教会で執り行われた。

 カロはパリジのサン・ロレンゾのための装飾を版画化し、マルゲリットの人生のイメージから選び出して描いた26枚のグリザイユ(灰色の焼き付けによる画法)画の15枚を受け持って銅版画として制作した。これらの銅版画は1612年、フローレンスでスペイン王妃の追悼譜として、アルトヴィト・ジョバンニ Giovanni Altovit のまえがきとともに刊行された。葬祭の儀式の次第も追悼譜も、コジモII世の依頼によるものだった。


 この仕事によってカロは初めてメディチ家との縁を得た。そして、その後さらなる庇護の関係へと広がり、1614年にはフローレンス・メディチ家大公コジモII世付きの画家に任ぜられた。コジモII世の治世下、フローレンスは文化的に繁栄し、さまざまな祭典が行われた。それらの多くは、宮廷画家となったカロの手で、詳細な銅版画に制作された。

 この後、1621年3月、コジモII世が31歳で早世されたことで、後援者を失ったカロは、仕事の場を失い、故郷のナンシーへ戻ることになった。

ガリレオ・ガリレイとコジモII世
 ここで思い浮かぶのが、ガリレオ・ガリレイである。フローレンスでは1608年に自分の教え子であったコジモII世がトスカーナ大公になられた。生涯、いつも金策に頭を悩ましていたガリレオは当時ピサに居住していたが、フローレンスへ移る可能性が生まれたことを知り、大変喜んだようだ。1608年のコジモの結婚式には、大公妃クリスティーナの招きで出席もしている。そればかりか、若いコジモに数学を教えるべく、夏をフローレンスで過ごすことにした。滞在費以外は支払われなかったらしいが、ガリレオは宮廷とのつながり強化に賭けたのだった。

 さらに1609年には、オランダで眼鏡職人が遠方の物体が3-4倍に見える望遠鏡を製作したとの噂を聞き、自らのアイディアではるかに性能の良い望遠鏡の製作に成功した。天体望遠鏡発明の栄誉は誰に帰属するかについては、多くの論争があるが、ここでは立ち入らない。すでに、1590年代にイタリアで製作されたとの説もある。

 そして、1610年5月、彼はフローレンスに近いピサ大学で授業をしなくてもよい首席数学者に指名された。加えて、トスカーナ大公付き哲学者兼首席数学者に指名された。9月にはふたりの娘をともなって、フローレンスへ移った(1631年にはフローレンス郊外アルチェトリの修道女となった娘がいる修道院近くの別荘に移り住んだ)。フローレンスとピサは管理人も何度か訪れたが、車があれば簡単に移動できる距離だが、せいぜい馬車しかなかった当時は、移動するにかなり苦労したことは間違いない。

 ガリレオはすでに大変著名な人物となっていた。同じ宮廷に大公付き画家として雇われていたジャック・カロが、そのことを知らないわけはない。恐らくさまざまな折に、二人は宮廷その他で会っていたと思われる。この時点では、天文観測に使うほど精密ではなくとも、数倍の拡大レンズは、宮廷内では見ることができたのではないか。もし、この仮説が成立しうるならば、カロがあれだけ精密な作品を製作した秘密の一端も推測できることになる。

 まもなく、文学座でベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』 の上演が始まる。ブレヒト・フリークの管理人にとっては大変待ち遠しい(ブレヒトについては、このブログでも何度かとりあげた)。ここに記したカロとブレヒトのレンズについての仮説は、管理人が想像したものにすぎないが、ガリレオがこの時期をいかに過ごしたかという点を舞台上でも見られるのは、きわめて楽しみなことだ。

 さらに、カロばかりでなく、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールへもつながる仮説が生まれてくる。長くなるので、それはまたの機会のお楽しみにしよう。


Reference
Georges Sadoul. Jaccques Callot :miroir de temps, Paris:Editions Gallimard, 1990.

 

 

 

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