文学座『ガリレイの生涯』の公演も来月に迫ったので、もう少しだけ横道に入り、ガリレオ・ガリレイとその周辺の世界について記しておこう。ガリレオについてはすでに多方面での膨大な研究の蓄積があり、それ自体がひとつの研究領域を形成している。
ここで取り上げるのは、ガリレオの新発見、新説に対する旧体制、とりわけ教会、異端審問所などによる厳しい追及から、ガリレオを支援し保護しようとした人々のことである。ガリレオの生涯についての研究や文学作品は多いが、ほとんど取り上げられることがなかった人たちもいる。その一人に、このブログでも短く記したことのあるニコラ・ペイレスクがいる。
ペイレスクは1600-1601年の間、イタリアのパデュアに滞在した時、ピネリのアカデミーに研究の場を置いていた。彼はそこでガリレオに初めて出会った。そして、生涯を通しての友人となった。
生涯に1万通の手紙を書けますか
ペイレスク自身も天文学者であり、考古学に関心を抱き、さまざまな骨董品の収集者であることで知られているが、とりわけ後者については、現代の日常使われている、古くて、市場価値のある品々を集めるという意味とは異なっている。むしろ、この地球や世界を理解するための品々を集め、研究するいわば博物学者の立場に近い。化石、珍しい植物、古代のメダル、書籍など、彼が興味を抱いたあらゆるものを収集していた。
さらに驚くべきことには、ペイレスクは西はマドリード、東はダマスカス、カイロに及ぶ広範な地域にわたって500人を越える有識者、政治家たちと手紙のやりとりをしていた。その書簡の数は彼の死後、確認されたものだけで、1万通を越えるといわれる。そのほか自らヨーロッパを旅することで、多くの知見を積み重ねた。とりわけペイレスクはこうした活動を通して、科学知識の組織化を意図していたとも考えられる。その関心範囲の広さから「芸術・科学革命の時代のプリンス」ともいわれている。科学者、哲学者、政治家などで当代一流といわれる人々と、対等な立場で交流ができるということは並大抵なことではない。
電話、ましてやインターネットなど考えられない時代であり、遠隔地にいる人々との交流はほとんど手書きの書簡による交信であった。それだけにペイレスクのような存在は大変貴重であった。いわば、ヨーロッパ世界における文化交流の中心のようであった。ペイレスクに連絡すれば、ヨーロッパの動向がほぼ分かるという情報センターのような働きをしていた。世界の最高レベルの人々との交流を通して、ペイレスクも時代を代表する教養人であった。
ペイレスクにとって、ガリレオが考え出した新説に対しての反対や非難は、無知と不安の入り交じった典型的な状況に思われた。そして教会内部にいるガリレオの友人たち、とりわけマッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバンVIII世)およびフランセスコ・バルベリーニ枢機卿が、ガリレオを神学的立場から論難することが信じられなかった。
彼にとって、惑星や星座の名前のように、あるいは発掘された古代の宝石がなんであるかを確認することのように、信仰にはいかなる損傷を与えることなく、コペルニクス体系の真偽を論じることができるはずだと考えていた。キリスト教の教義とはなんら関係ない次元での議論と考えたのだ。教会内部にもそう考えている人もいた。たとえば、ペイレスクの友人メルセンヌ神父は「聖書は哲学や数学を教えるように書かれたものではない」と記している。
メディチ家の星々
銅版画家ジャック・カロもそうであったように、貴族ではないが、さまざまな才能ある者(平民)が、それを生かすには庇護者(パトロン)の存在が欠かせなかった。とりわけ、家族その他のことで絶えず金銭的窮乏状態にあったガリレオにとって、有力なパトロンを確保することは、研究を続けて行く上でも重要であった。メディチ家の第4代トスカーナ大公(在位1609-1621年)コジモII世は、人格温厚で教養豊かな人物であった。大公になる前、一時期はガリレオから数学も習っていた。当時の貴族たちは所領の管理などで、数学の知識を必要としており、若い貴族で数学に関心を寄せる者は多かったといわれる。
メディチ家とのつながりを強めたいと考えていたガリレオは、1610年3月4日付のパデュアからの書簡で、自らが発見したばかりの木星の4つの衛星について、1609年よりトスカーナ大公となったメディチ家のコジモ2世に敬意を表して “Cosmica Sidera”(コジモの星々)と命名したいと記した(後に大公の提案に従って “Medicea Sidera”(メディチ家の星々)と改名した。大公だけでなく、メディチ家の4兄弟コジモ、フランチェスコ、カルロ、ロレンツォ全員に敬意を表したものである)。ガリレオは書簡で大公殿下の最も忠実なしもべと記している(ガリレオが大公に送ったこの書簡はメディチ家の継承財産の中に保存されていた)。
ガリレオのこの発見は1610年3月半ば、550部の 『星界の報告』 Sidereus Nuncius としてヴェネツィアの印刷所から刊行された。
1615年3月、ナポリの神父パウロ・フォスカリーニは、コペルニクスの説を聖書に敵対するものと考えるべきではない、と主張するパンフレットを出版した。ガリレオはその著作の写しを受けとり、自らの発見に自信を深めた。(後に禁書目録に入る)。
しかし、世の中、とりわけ教会内部、異端審問所の動きはガリレオにとって不利な方向へと動いていた。さらに、彼が大きく頼りにしていたトスカーナ大公コジモII世が1621年に若くして亡くなり、ガリレオを支える環境は急速に悪化していった。コジモII世は政治力はなかったが、メディチ家が伝統としてきた文化興隆の支援者であり、よき理解者であった。あのジャック・カロもトスカーナ大公のおかげで、その才能を開花させることができた。
ガリレオにとっては、さまざまな出来事が続いた後、1631年2月、『天文対話』がフィレンツェの出版所で刷り上がった。ガリレオの友人たちは感動し、敵対者は恐れおののいた。しかし、予想されなかったことはかつてガリレオの友であり、熱心な支持者であった教皇ウルバヌスが敵側にまわったことであった。その背景は複雑でブログなどでは到底扱えない。この時代の科学、宗教そして異端と正統にかかわる思想環境は、ブログで多少記した魔女審問の世界とも関連している。
その後の展開は、多くの人が知るところでもあり、ブレヒト劇の核心でもあるため、ここではこれ以上記さない。ただ、17世紀という時代、知識人とみられていた人々が、いかなる手段と経路で情報を得て、自らの思考を形成していたか、その一端を紹介してみたいと思ったまでである。
Reference
Peter N. Miller. PEIRESC'S EUROPE: Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Heaven: Yale University Press, 2000.