時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

王義之の力

2013年03月10日 | 午後のティールーム

  

行穣帖 原跡 王羲之筆 (部分)
唐時代、7-8世紀模
プリンストン大学付属美術館


  うっかり予定表に書き込んでおくことを忘れていた。東京国立博物館の『書聖 王義之』特別展(2013年3月3日終了)である。いつもならば、開幕早々楽しみにに出かけていたはずだった。これまで何度かあった『王羲之展』は、1度では到底鑑賞しきれずに、2度、3度と繰り返し出かけたことも珍しくない。しかし、今年はその歯車が狂っていた。予定に入れることすら忘れていた。いつものような楽しむ気持ちがなんとなく失せていた。どこかで尖閣諸島問題などが影響していたのかもしれない。

 2月が近づくと、大陸や台湾の友人たちから送られてくる例年の春節の挨拶状も、お定まりの中華世界特有の赤や金色の多い華やかなものではあったが、付け加えられている手書きの部分には、両国間に突如として勃発した紛争への複雑な思いが感じられた。別に、日本を批判している文言が含まれているわけではない。ただ、なんとなく、この話題に触れることを避けているような感じも受けた。管理人はかなり直裁なコメントを付したのだが、いつもと違った雰囲気であった。

 彼らは中国では数少ない親日家、知日家である。腹蔵なくお互いに疑問とする問題を聞くことが出来る貴重な友人たちだ。一緒に長い旅をしたこともある。ほとんどが日本への留学経験があり、時には日本人以上に日本のことを知っていた。そして、管理人はそうした交流を通して、中国は日本人以上に「信頼」が大切な社会であることに気づいていた。人と人との間に真の信頼が生まれないかぎり、なにごとも円滑には進まない社会なのだ。しかし、ひとたび、信頼関係が生まれれば、こちらが驚くほど楽々とすべてがはかどった。この関係を築き上げるには、長い、長い年月が必要だ。一朝一夕にはとても無理である。今回、この関係をいたく損傷したのが、日中いづれであるかについては、すでに多くの議論がある。読者それぞれに考えねばならない。

 少し振り返ってみると、なんとなく気がかりなこともあった。中国側には数年前から緩んできた体制を締め直そうとも思える動きが、各所で進んでいたことに思い当たった。教育の分野にかぎっても、とりわけ、大学では共産党の指導体制が、学内でも急速に強化されているように感じた。この問題は友人・知人たちが折に触れて話していたことでもあった。日本に関連する研究テーマ申請を、学内で却下された友人もいた。学内で別の部門へ配置換えになった友人もいた。

 大学はいずれの国でも、政治的プロテスト、騒乱の源となったことが多い。そのためか、新体制への移行を見込んで、あらかじめ準備を進めていたのかもしれない。日中で共同研究をする場合にも、共通テーマが決めにくくなった。それまでは日本の物心両面の援助が、研究推進の大きな力となっていたこともあった。しかし、もう日本の協力、とりわけ資金的協力は必要としないとまでいわれたこともあった。

 現在進行中の「尖閣諸島問題」に象徴される日中両国間に生まれた対立・緊張は、どちらに責任があるかは、簡単には論じ得ない。しかし、中国側指導者にとって、この問題は国民の貧富の格差拡大、指導者の汚職を始めとする国内の難題などを、国民の目からそらす材料として格好なものとなったことは、かなり確かなようだ。中国の国内問題を見ていると、現在の両国の対立が早期に緩和、解消することは想像しが
たくなっている。中国政府はことあるごとに、この問題を外交上の武器とするだろう。管理人が生きている間に、事態が大きく改善することはないとあきらめている。ここに書いている余裕は筆者にはもうないが、事態の根源はあまりに深く、複雑になっている。

 かくして、さまざまなことがあり、『書聖 王羲之』展のことを、ほとんど忘れていた。気がついて閉幕間際に出かけたところ、予想外の混雑である。日中国交正常化40周年、東京国立博物館140周年の記念特別展と銘打たれているから、その看板に惹かれてこられた方もいただろう。しかし、筆者には看板がどこか空しく感じられた。

 落ち着いて、鑑賞する環境では到底ない。あまりの混雑ぶりに、作品に接すること自体、かなりの努力を要する。絵画と違って、書の展示は掛け軸などにされた作品を別にすると、ほとんど、ガラスの展示台の中に作品が収められている。仕方なく、出展作品の中で、特に見たいものだけを選び出し、日本に所蔵されている作品などは一部を除き、あきらめた。

 前述のような環境でも、王羲之への関心が高いことに改めて驚くとともに、ある意味で安堵の思いがあった。政治面でいかに激しい対立が存在しても、国民が冷静に問題を切り離し、純粋に芸術作品として鑑賞したいという意識は、きわめて大事なことと思った。文化の持つ力を強化することは、衰退傾向にある日本が、世界で一定の尊敬を確保しながら、今後を生きる道として欠かせない。多くの悔恨の思いを背景にした展示ではあったが、作品を見る人々の顔には、常軌を逸する人混みに疲れながらも、この書聖の作品に接しえた喜びの色が感じられた。わずかな救いであった。


 

 
 

コメント
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