すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉はいつも現実と

2013年09月02日 | 雑記帳
 ラジオを聴いていたらアナウンサーがこう喋る。「九月になったので~~、食欲に気をつけて~~」。少し違和感がある。食欲は気をつけるものか。食欲の有無とか、減少、増加、変化といった言葉があるべきだろう。つまり「食欲の秋」のイメージが先行し「増す」ということが暗黙の了解事項のように省略された。


 亡くなった旧友が発刊した作品集を取り上げ、有名な作家が書評をこう結んでいた。「天国での冥福を祈る」…普通のようにも感じるが自分にはどうもひっかかる。「天国」と「冥福」がしっくりこない。「冥」という字は「冥土」「冥界」の意味があるだろう。そうすると「場」が重なる、微妙にずれるのではないか。


 日本を代表する料理研究家のエッセイに「米を洗う」という表現が出てくる。「米を研ぐ」と教えられてきた者にとっては、どうしたものかと思う。もちろん精米の技術が上がってきていること、筆者が題名に「洗い米」と表わすほど強調している点を考えると、無下に否定できない。しかし「洗う」には抵抗がある。


 「研ぐ」の意味に「水の中に入れた米などをこするようにして洗う」があるので、上位語として「洗う」は間違いではない。しかし「洗う」にある「汚れを落とす」発想には馴染まないのではないか。「研ぐ」にあるみがく感覚がぴったりする。ただ「無洗米」の名称は既に一般的だし、もはや「研ぐ」が死語なのか。


 気になって検索すると「研ぐ」「研がない」でも意見が分かれていることを知る。つまり精米技術の進歩があるので軽くすすぐ程度が旨みを残すのだ派、そして、きちんとこすらないと農薬が取れません派…これはシビアである。そうなると稲の生産そのものと調理方法のつながりだ。言葉はいつも現実と結びつく。