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桜と絵本と豆乳と

ほどよい油であるために

2013年09月28日 | 読書
 『人間にとって成熟とは何か』(曽野綾子 幻冬舎新書)

 冒頭のニュージーランドについての記述に納得した。
 端正で道徳的な国づくりをよく理解したうえで,こんなふうに書いている。

 私の心の五パーセントか,十パーセントほどの部分が,こういう国はほんとうに退屈だと思ったことも告白しなければならない。

 アフリカなどの未開発な国々を足しげく訪問しその実態を深く心にとめて,安穏に暮らしている私達に向けて鋭く発信する著者ならではの心情に思える。

 著者の「成熟」は,例えばこのような文章の中に沁み込んでいる。

 世の中は矛盾だらけだ。だからいいことだけがいいのではない,時には悪いことも用意されていて,その中から選ぶ自由も残されていた方がいい。

 この幅の広さをどんなレベルで受け止めることができるかも,成熟が試されるのだと思う。
 人は弱いものだ。良くないものと知りつつ選択していることは日常で,だんだんと感覚が麻痺して,染まっていくことがある。そのことを自覚できない人さえいる。

 面白い喩があった。
 おからの調理法について箇所である。炒るための油についてこんなことを書いている。

 豚カツなどを揚げた汚れた油はだめだ。あくまで精進揚げ一,二度程度のものを使う。これはやはり人生の姿勢にも繋がるような言葉だ。まっさらで現実を全く知らないような人には,おもしろみがない。しかし世の中の悪さに汚れきって平気な人も,使い物にならない。

 自分を油に譬えれば,現実のどの部分をどの程度揚げるかによって,汚れ具合が決まる。受け入れねばならない事項をカラリとよく揚げることができたとしても,そのことによってどう自分が変化したのか見極めることも大事だ。

 むろん,だまっていても古油にはなっていく。変質していく。
 (こう書くと,この喩えの苦しさがわかるが)
 しかし,油は足すことができる。汚れを濾したり,入れ替えたりすることも可能だろう。そのためにするべきことは,ほぼ決まっている。

 しっかりとした目の細かい金網のようなこの著は,ある意味の濾し器になりえるだろう。
 日常生活から地球規模のどんな現実に目を向けるべきか。
 本当の自分を認識するために著者が繰り返し語っていることを受けとめれば,粗悪な汚れも少しは浄化できるかもしれない。