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歌う心と秋の空

2013年09月07日 | 雑記帳
 歌心…そもそもは和歌の意味や和歌を嗜むといった意味だと思う。
 しかしこの頃は、歌の上手い下手にかかわるような言葉といった方が一般的のようだ。

 今ではカラオケなど一年に一回あるかなしが関の山だが、頻繁に飲み歩いていた頃は、生意気にも他人の歌っている姿に対して、歌心の有無などと口にして評価していたように思う。
 声の質や音程がどうのこうのとは、またちょっと違うセンスのようなものだ。

 どちらかと言えば素人に対する評価言だとは思うが、失礼ながらプロの歌い手に対しても、心の中でそんなふうに聴いてしまう自分がいる。


 絢香は歌心があるなあと感じる一人である。
 今回発売されたカバーアルバム『遊音倶楽部』を聴くと、なるほどと思う。
 
 あの歌唱法は、歌をどうつくっていくかということが強く意識されている。
 独特の声の張り上げかたはもちろんだが、今回は特に低音部が強調されている曲があったり、逆に高めのキーで押していったり、バラエティに富んでいる。


 かつて宇多田ヒカルが、歌い方についてこう語ったという。

 簡単に言うと音符一つ一つの、入り方、のばし方、終わらし方、だよね。
 フィギュアスケートのジャンプでいうところの、ステップからの踏み切り、回転、着地、みたいなもんか。


 これは面白いたとえだと思う。
 このイメージでみると、ジャンプに入る直前の滑りは非常に緊張感が漲る慎重さが要求されるし、なんといってもしっかりとした着地の占める重要性は大きい。
 素人はそんなことを意識したら楽しめないかもしれないが、プロはそれを天性でできるか、練習によって獲得していくか、どちらかであるはずだ。

 曲一つを、全体としてフィギュアスケートの演技にたとえれば、仮にミスが一つ二つあろうが、優雅にもしくは躍動的に、つまりは個性的に空間を染め上げた方が、見ごたえ(聴きごたえ)があることは確かだろう。

 極端な話、歌心のある人は、自分の個性(持ち味と言ってもいいか)で、その歌をとらえる(素人はその意気込みだけで結構)ことができる人だ。
 その個性、持ち味を自分でわかっているか、気づかずにいるか…そのあたりが現実的に歌の巧拙と関係してくるのだろう。

 絢香の「空と君のあいだに」を聴きながら…
 歌心が沁みる。今日の秋の空は泣きそうだ。