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トキタマ,猿に出会う人

2013年09月12日 | 読書
 「トキタマの意味はこれでいいのかな」…職員のつぶやきが聞こえた。何かのアンケートの選択肢としてその言葉がでているらしい。「『時々』より頻度が低い」という位置づけになっているとのこと。「時々」と「たまに」とが混ざっているのでそういう解釈だろうか。これは辞典を引いてみねば!追究が始まる。


 広辞苑では「時おり。時々。たまに」と載っている。これではわからない。明鏡も同じだ。漢字では「時偶」である。そうだった。「たまに」とは「偶」なのか。偶とは「人形」を表わす。「似たもの→仲間→二人並ぶ→2で割り切れる」という意味の流れは自然だが、それから「たまに」への変化はどう解釈する。


 そもそも「禺」とは、大型の猿、獣をあらわした象形文字である。そこに「人」が隣り合う「偶」。この意味に「予期せず両方が出あう」とは、ある意味で宗教的でもあり、どこか哲学的でもある。「人」の部分と「禺」の部分との出合いが「偶」だとすれば、なんと意味深なことか。理性と本能まで飛躍する。



 禺と関わる漢字の意味はどうも不安定に見える。「遇」「寓」「隅」…あまり統一感がないことにも何か訳があるのだろう。いやそれは「たまたま」ですよ、と言って収めてしまおうか。とにかく「トキタマ」に決着をつけるべく類語辞典を開く。そこで「時偶」の解釈はこうだ。「『時時』の、より口語的な言い方


 関連する熟語を間隔が短い、頻度が高い順に並べてみると、こうなるようだ。「間間」→「時時」「時偶」→「時折」…このあたりを意識的に使い分けてみる学習なども面白いだろう。「時」に関しても次の三つがある。「時に」「時には」「時として」。この三つの違いも興味深い。時偶、やってもよくないか。