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心動かされる信念の言葉

2013年09月17日 | 読書
 『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』(浅利慶太 文春新書)

 巻末についている「美しい日本語の話し方」教室台本から読み始めてみた。
 学校現場に直接いって,子どもたちを対象に教えるときのマニュアルである。三人の俳優が,進行役やモデルとなって発音法を中心としながら,指導していく道筋は実に明快だった。

 「母音法」について多少の知識はあったが,具体的に例文,段階が示されたので,これはかなり参考にできる。
 発音指導について一年生止まりにしない工夫が「話し方」を教える基本的な考え方であることを,私達はもっと意識しなければいけない。自省を込めてそう思う。

 さて,一章から四章までの「日本語について」「母音法」「呼吸法」「フレージング法」もそれなりに面白く,新しい知見も得られたが,個人的には五章の「劇団四季の歴史」がとても興味深かった。

 世の多くの四季ファンを惹きつけてやまない理由が,その章に書かれてある著者自身の決意と歴史に詳らかに表れている気がした。
 目的がぶれずに,しかも現実的な采配をこれだけ長い期間ふるってきたことはある面で驚異と言えよう。

 貫いてきた信念は「言葉」へのこだわりであったことは言うまでもない。
 私は演劇論,俳優論などじっくりと読んだことはないが,そうであっても,著者のこの言葉がかなり一方の極に位置しているものであることは予想できる。そして,心動かされる。

 伝えるべきは正確な言葉。表現すべきは作家の感動。
 感情は観客の中に宿ればよく,俳優に宿る必要はありません。


 俳優におけるリアリズムとは何か。これを強く考えさせられる。
 自分という器の存在をどう広げ,磨いていくのか…鄙に住むゆえ観劇する機会は頻繁ではないが,また少し見る目が加わった気がする。


 気になる一言があった。
 著者が恩師として心酔していた加藤道夫という方がよく話していたことだと紹介されていた。

 「東北弁は美しい。もしこの言葉が標準語だったら,日本語のオペラと詩劇の完成は一世紀早まっただろう」

 この文章にある具体的な意味での「美しさ」とは何か。
 そこに住んでいる自分がはたして捉えられているのか。響かせる場にその意識があるのか…。
 方言調べはよくするけれども,自分自身の実感の頼りなさが浮かび上がってきた。