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橋の上のやるせなさ

2013年09月09日 | 読書
 『橋の上の「殺意」』(鎌田慧 講談社文庫)

 この読後感をどんな言葉で表せばいいかと思って浮かんだのは「やるせなさ」だった。

 2006年春に秋田県で起こった,二人の児童が亡くなったこの事件を,犯人である「畠山鈴香」という名前とともに記憶している人はいるだろう。
 まして県内に住んでいる者であれば,きっと多くの人がまだ忘れられないはずだ。
 私にしても,「畠山鈴香逮捕」というニュースを,どこに居てどういうタイミングで聞いたか,今でもはっきり思い起こすことができる。

 それほどマスコミはこの事件を煽ったし,自分も含めた視聴者,購読者はそれらの情報に大きく影響されていたことを,今さらながらに感じる。

 希代のルポライターである筆者の丹念な取材は,この事件の本質を見事に焙りだしている。
 それは犯人に関わる成育歴や病歴といった個人的な面だけではなく,地方が抱える社会構造や検察・警察の管理的な体質,そして司法制度をめぐる根本的な問題まで,全てが絡み合ったような絵柄で提示されていると言っていい。

 もちろん,その中心に据えられるのは畠山鈴香という人物なわけだけれど,それはもしかしたら似たような境遇にあった「シングルマザー」の誰かの可能性もあったし,それほど具体的ではない,今という時代を生きる誰かであったかもしれない。

 事件から逮捕,取り調べ,裁判…と続く一連の流れは,一歩引いて眺めれば,誰しもが「魔女」にされてしまう危険性を孕むものと言える。
 そういうふうに取り込む糸は見事に複雑に絡まっているゆえに,その方向を定める初期の有り様というのは本当に大事だ。
 この事件で言えば,直接的には警察の初動調査の「失敗」であることは明らかだ。そしてもちろんそこにも地方が抱えていた大きなハンディがあったのだと思う。

 犯人の子ども時代のエピソードの哀れさ,「立場」による精神鑑定の露わな違い,著者が強調する死刑制度の問題点等々,どれもやるせない気持ちが先に立って今一つ括った見方ができない。
 ただ,この事件に関わった人の多くは,きっといまだに痛みを抱えているのだと思うが,それが何かバラバラな違う方向の痛みであるようなイメージが湧いてきて哀しい。当たり前のことかもしれない。

 言葉をいくら尽くしても,けして理解しあえない場に立っている人がいる。
 赦すというくらいなら,痛みを抱えたままでいいと言いきる人もいるだろう。
 その間に橋がかけようとする人がいて,仮に架け橋が届いたとしても,当事者が足を進ませることは容易ではない。
 やるせなさが募る。