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二人の共鳴の物語

2013年09月15日 | 読書
 『いねむり先生』(伊集院静  集英社文庫)

 伊集院小説は文庫本が書店に並べばすぐ買うようにしている。
 今回も何気なくとり,家に帰って改めて本の帯を見直して,おっと思った。
 この頃,結構多い「ドラマ化」なのだが,9月15日と書いているではないか。たぶん見るだろうし,これはその日まで読了しないと…。
 ということで,風呂場読書オンリー,三日間で読み切る。

 最初,ちょっとストレスを感じたのが,KさんとかIさんとかアルファベッド名,さらに結構使われている******といった伏字。
 なんの意味があるのだろう。そもそも自伝的といっても小説なのだから,実名でなくてもいいわけだし,本人自体はサブローなんて全然関係のなさそうな名前をつけているし…と思いながら読み進めていった。

 しかし途中から,これが事実と小説の際どいバランスのとり方といってもよいのかなあと感じ,あまり気にならなくなったから,まあそんなものかもしれない。
 いねむり先生の本名も著名なペンネームも一貫して******で通していることが,書き手として一つのこだわりがあることは間違いない。

 二人の「共鳴」がこの物語を貫いている。
 いくつも印象的なシーンがある。
 特に「描写」という話題で,サブローが言ったこの言葉に先生が反応する箇所がいい。

 「子供の頃,絵を描いている時に,蜜柑をそっくりというか,なるたけ蜜柑のように描きたくて描くんですが,精巧に描けば描くほど違っていってしまうのと似ている話ですかね」

 ここには,どうしようもない「自分」という存在の喘ぎ,というようなものを凝視できる人間の感性がある。それを激しく感じ取れる人間はよい小説を書けるかもしれないし,また精神を病むかもしれない。
 そのぎりぎりのところで作品を仕上げてくるのだとしたら,安易にその世界へ足を踏み込むことも躊躇われるが,それゆえの魅力も感じる。
 『狂人日記』(もちろん魯迅でないほう)に手を伸ばそうか,どうか。


 もはや伊集院は「無頼」というキャッチフレーズは似合わないほど,メディアに露出している。
 ただ,人生のどん底の時期における「いねむり先生」との邂逅によって小説家という生業に就いたことは,たえず本物か贋物かを人に問いかける彼の存在を,使命としてまた役割として明確にしたのかもしれないし,今の状況もそう悪くは思えない。

 鮮烈なエピソードに彩られるこの物語をどんな脚本に仕立てるものか,ドラマ化はちょっと楽しみである。