『最後の小学校』(秋山忠嗣 講談社)
先週参観した国語の授業は,男の子ばかりの2年生4人だった。
授業者は元同僚なので,反省の宴では勝手なことを言わせてもらったが,その中の一つに,いわゆる極小人数を相手にする教師の働きかけという問題がある。
私自身も複式学級解消の学習担当として,3人,4人,5人と一定の経験は持っている。担任としての経験ではないが,ある程度実感を伴っている結論である。
極小人数においては,教師の「圧力」コントロールをより慎重にしたい。
どの規模の学級においてもそれは言えることだ。しかし人数が少なければ少ないほど,その優先順位は上がると考えられる。
そこで,この著である。
昨年3月に休校となった島の小学校。
前年度に併設なっていた中学校が廃校となり,残された6年女子児童との1対1の一年間の教育を綴った記録である。
テレビドラマとして描けそうな場面もあるにはあるが,かなり現実的な葛藤や混迷もしっかりと綴られている。
こう書いてみて,ふと「対」とは何かと考えてしまう。
辞書にある「向かい合う,相手にする」という意味を,私たちは日々教育現場で具現しなければならない。
そのために,子どもの心を察し,その声も,声にならない部分も受け止めて,応じていく。
一人の教師のキャパシティには限界があるし,時間制限の中でやりくりしていく。
その意味ではやはり1対1という条件がずいぶんと濃いものになることは言うまでもないだろう。
だからこそ,この物語が生まれ,この著ができた。
しかし,それはその条件を厳しく受け止めるという覚悟なしには生まれてこない。
著者が入院中に考えた次のことは,この著全体と重なるからこそ輝いてみえる。
ぼくは,さつきと向かい合いながら,だれよりも,ぼく自身と向き合わなくてはならなかった。さつきは言葉ではなく,ぼくの姿を受け取っていく。
とすれば,「対」に息づくのはまさしく「鏡」。
人数の多少に関わらず,教師の姿は子どもに映り込んでいく。
そして人数が少なければ少ないほど,より濃くなっていくと言えるだろう。
鈍感である場合,またその姿から目を背けている場合,そんな時に教師の圧力は増していくか…そんなことを思った。