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「時間」と「私」が共鳴するとき

2014年03月21日 | 雑記帳
 『ちくま』の2月号に、「美術、応答せよ」という連載をしている美術家森村泰昌氏が、その最終回にこんなことを書いていた。


 あの頃のカメラとのつきあいを想い出しながら、写真撮影って昆虫採集に似ているな、とはたと気づきます。


 そして「撮る」と「採る」、カメラボディと虫かご、アルバムと標本箱などと並べ、その経過をたどることで「酷似」していると述べている。
 そういういわば物的なことだけでなく、次の点において、見事に重なっていると書かれたので、ハタと膝を打ってしまった。


 双方の体験がもたらす快感の在り様によって、両者は見事に重なって感じられます。


 そこから語られることに、深く惹きつけられた。

 昆虫採集に夢中な子供にとって、追いかけている蝶は、じつは蝶ではなく、「蝶という形状に仮託された『時間』の推移」だという。
 その「時間」を網で生け捕りするのが昆虫採集、カメラによって捕獲するのが写真ということである。
 人は、その「時間」の息づかいと、その場にいる自分の息づかいが瓜二つであることに気づく瞬間がある。

 そして、森村氏は、こう記している。


 とらえられた「時間」とは、とらえられた「私」のことなのだと無意識にうちに悟る。


 昆虫も写真も、その「存在の証」としてあるのだと。


 こう書いてから3週間が経って、依然としてそのままの状態が続いている。

 切り取るに値しない「時間」だけが流れていたわけではない。
 ただきっと、求めが弱く、「私」と「時間」が共鳴しないということではないか(なんだか、格好いい言葉を書いているけど…気力衰退ってこと?)


 昆虫採集に喩えれば、昨今のデジカメ全盛の流れは、その場全部に大きな網をかぶせてしまうやり方と言っていいのかもしれない。

 バチバチと広範囲にシャッターをきり、そこにたまたま素晴らしい一コマがあったとしても、それは「時間」と「私」が重なる瞬間とは言えず、他所事のように思えてくるのである。
 その繰り返しではいけない。

 と,なんだか本物の写真愛好家のようなことを書いてしまった。