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桜と絵本と豆乳と

発明も括約筋も

2014年03月10日 | 読書
 「2014読了」28冊目 ★★

 『生きることの発明』(片山恭一  小学館文庫)


 「初めて読む作家シリーズ」(と気まぐれに名づけてみた)第1弾。

 この人はあの『世界の中心で愛を叫ぶ』だな、という程度は知っていた。
 だが、手にした文庫本の内容は恋愛ものとはほど遠い、自身の体験をもとにした親の「老い」と「死」をテーマにしたものだった。

 『図書』3月号で読んだ、香山リカ×中澤正夫の対談で親の看取りということが出ていてちょっと考えたり、知り合いの介護の問題を聴いたりしたことが重なっていたので、少し切実な思いに包まれながら読み進めた。


 そもそもこの題名に惹かれて手にした著だった。
 内容はその表題作をはさんで、「無限に小さな生」と「括約筋の問題」と題された作品があり、いずれも年老いた実父や義父・義母の生と死を見つめ、自分なりの解釈を試みていると言ってもいいだろう。

 三つの題は、作者の考えや括り方そのものであり、それ以上でも以下でもない。

 本文中から、私がもっとも感銘をうけたのは、次の文章である。

 私たちは個人ではじまるわけでもなければ、個人として終わるわけでもない。人生は未完であり、私たちを超えてつづく。起源においても同様に、私たちは誰かの、何かのつづきとしてはじまっている。


 この認識について今まで思ってもみなかったということはないが、これほど明確に言いきられたと感じたのは初めてである。

 とすれば、生きていくことは些細なゆえに、「発明」が必要であったり、「括約筋」をどう働かせたりするかが、大きな問題になってくる。

 この比喩的な意味に関しては、読んでみなければわかりにくいだろうが、いずれ自分という存在を形作ってきた様々な要素と強い関わりを持つことは確かである。


 モデルとなった作者の実父や義父の固執された言動をみるとき、つくづく自分にはいったい何が残っていくのだろうかと、不安な気持ちになってくるのを否めない。
 つまり、自分には「発明」したことがあったのか、きちんとした「括約筋」の働きを制御していることがあるのか…ということ。


 真摯に身内と向き合いながら、思索しただろう作者の最終行はこう結ばれる。

 死は美しくない。だが死後は美しい。

 この哲学的な表現の前では、ずっと立ち止まってしまう。