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何が伏線になるのか

2015年02月11日 | 読書
 【2015読了】19冊目 ★★
 『ダンスホール』(佐藤正午  光文社文庫)

 全5編。短編が4つと中編1つ(これが表題作品)で構成されている。名前は知っていたが、初めて読む作家である。冒頭の「愛の力を敬え」から読み始めたが、なんだか妙に読みにくい。これはなんだろうと読み進めていくと、ふと「冗長」という言葉が浮かんだ。文章そのものが長いということではなく、不必要な感じられる情報が目立つような気がした。


 例えばこんな文章。「その店はカタカナ表記にすれば『ワ―ズ』、看板の文字を正しく記せば『WORDS』という名前の店だった」や「スポーツ新聞の見出しには『吉岡引退』の文字があったが、吉岡が誰でどんな競技から引退するのか西聡一には想像がつかなかった」。当然作家としては意味を持たせたに違いないだろうが、どうも読み手の自分に伝わってこない。


 それを冗長と言ってしまうのは早計か。解説の池上冬樹はこんなふうに書いている。「背景はかなり複雑なのに情報を小出しにして関係と状況の一端を見せていく。この情報の提示の仕方が抜群である」。なるほど、そういう見方もあるのか。とすれば小出しにされた情報を関連づけられない読解力の問題か。見えてくる背景に自分が関心を持てないからだろうか。


 5編の作品にある人間模様は、特に劇的なわけではない。ただごく日常的、平凡なこととも言い切れない。一つ間違うと雑誌や新聞に載ってしまいそうな部分も見受けられる。いわばスキャンダルすれすれで留まっている不安定さが感じられる。もしかしたら、そういう部分の人間臭さといったものを自分は読みきれないのかな。経験か感性か,単なる未熟か。


 語り手、主人公を作家にした場合、実際に基づいた設定もあるだろうが、これらの小説はどうなのか。精神を病んでいたり、様々な問題を抱えていたり、そういった面倒さが端々に出てくる。そういう状況に照らしてこれらの作品を読んだとき、不必要と感じられた部分が人生の面倒くささとつながるのかもしれない。何が伏線になるのかは、人生もまた同じだ。