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「鬼」と「福」は対ではない

2015年02月03日 | 雑記帳
 新品の電子辞書を触っていたら,俳句歳時記も充実していることに気づいた。
 そこから気のおもむくままに…


 節分や灰をならしてしづごころ(久保田万太郎)

 生まれ育った家に囲炉裏があった。灰ならしという道具もあり、退屈まぎれにそれを触っていた記憶がある。当時、長い冬に耐え続けていた家族は節分の日にそんなことをして、春を待っていたのだろうか、と書いてはみたがそれは雪国に合わない。そしておそらくその頃、囲炉裏はコタツに利用されてたように思う。



 節分や海の町には海の鬼(矢野渚男)

 面白い句だ。何を「鬼」に喩えるかは、場所によってずいぶんと違うだろう。この句は漁村をイメージすると嵐などの自然現象が思い浮かぶ。山村であるならば「山の鬼」だが、これも寒風、吹雪といったところか。そこに人間模様を加味すれば、ドラマのような感じになる。「都会の鬼」はまさしくそれになるのか。



 節分の雪が田を飛ぶ山を飛ぶ(雨宮きぬよ)

 疾走感のある句だ。雪国では、風雪のピークを迎える時期でもあるし、イメージは容易い。しかし、「飛ぶ」に込められているのは、早く過ぎ去ってほしいという願いではないか。田から山へという方向性にも意味があるかもしれない。山から田へだと厳しく迫ってくるが、反転すれば、追っていく気持ちが生まれる。



 鬼は見え福は見えざる節分会(江川由紀子)

 自嘲の句か。それとも世相を揶揄しているのか。いずれにしても言いたいことはわかる。問題は、具体的に「鬼」が見えていたとしても追い払うすべがないことではないか。もしくは、見えているようで実は「鬼」に気づかないのではないか。これは「福」にも言えること。従って「鬼」と「福」は対ではない気がする。