すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

分けられないところまで分ける

2015年02月15日 | 読書
 注文した本は届いていないし、一週間ばかり書店にも寄っていないし…ということで書棚を眺めていたら、文藝別冊で「まど・みちお」の特集をした号の背表紙が目についた。

 ぺらぺらめくると、河合隼雄の書いた「魔法のまど」というページの端が折られている。
 ああ、あのことだなと思い出した。
 「分ける」と「分けない」ことについて、少し感じたことを書き留めたはずだった。

 このことは時々思い起こしておくべきだなと改めて思う。

 と、周辺のページをぼんやり読みだしてみて、河合の一つ前、詩人三木卓が「拾い屋さんの感想」と題して書いている文章に興味を覚えた。
 まどさんが「子どもと同じ視角」で書かれていることはよく言われているが、肝心なことはその継続である。三木はこんなふうに記している。

 まどさんはずっとその視角を保ち、深めながら書いてきている。


 そして「じゅくし」(熟柿)の詩を引用し、その見方の流れを想像しながら、こんなふうに結論づける。

 こういう想像力の働きは、世界を見る訓練からでてくるもので、けっして素朴というようなものではない。まどさんの世界への角度が、さまざまな種類と質の想像力を発揮するのは、その修練が長く続いていて、現実をふわけしていく、そのこまやかな切っ先がいつも光っているからである。

 この考えは、以前自分が書いたことを揺さぶる。

 徹底的に分けることを「ふわけ」と呼ぶならば、現実のふわけを通して、これ以上細かく分けることができない地点まで思考を及ぼさせることによって、万物は「分けられない」貌を見せていくというのか。
 「分けない」のではなく、「分けられない」ところまで「分ける」ことによってあの世界観が立ち上がってくるのかもしれない。

 詩人には近づくべくもないが、まどさんの書く詩のような一種の安らぎに憧れは感じる。
 そういう歩みをしたいなら、何より現実を、目の前の事物を、どんな角度で見るのかが決定的と言えるだろう。

 誰かに決められた角度でしか目に入らなくなっているとする状態は、しなやかさを失っているということだ。
 予防策は、自然にといったことではなく「訓練・修練」が必要であることを肝に銘じたい。