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何でも日本語にしてしまう

2015年02月13日 | 雑記帳
 今日は妄想モードではなく…少しまともに読み、考えたことを。

 書家石川九楊氏が自著『日本語とはどういう言語か』の出版に際して書いた文章を読んだ。
 自著紹介の意味もあったのだろうが、その体裁は一つの説明文であって、冒頭部に次のような問いが入っている。

 本当に「日本語」という単一の言語は存在するのだろうか。

 著者は、小中高に「日本語」という教科がなく、「国語」としていることを指摘し、さらにその二つが同義でないことを述べている。
 そして大学受験科目としての「漢文」「古文」「現代文」があることの事実を重くみるし、それらは単なる歴史的な並びではなく、文字と切り離すことのできない関係であると言い切っている。

 そして問いに対応する結びをこう書いている。

 「国語」の受験科目は、日本語が、漢字語とひらがな語とカタカナ語の語彙と文体の入り交った言語であることを告げ続けていたのだ。

 いわば「集合体」としての日本語。
 これは明らかに増殖しているように見えるし、一方、最近の子どもの名づけに見られるように意味が繚乱しているような気もする。

 日本語の奥深さといえば聞こえはいいが、底なし沼のような気配が漂い、興味深く、考えさせられる事柄が次々に目に入ってくる感じもする。

 そう言えばと思い出したのが、先月号の「漢字雑談」という高島俊男氏の文章。
 「日本新名詞」と題して、明治期に出来たたくさんの熟語が中国に逆輸出?され、外来語として根づいているというような話だった。

 日本が西洋語を訳し作った熟語については、そんな情報を見聞きするたび、当時の発想の豊かさ、面白さに感心する一方である。
 今回も、えええーっ、知らなかったという情報があった。

 積極的の「的」は、英語の-ticを音訳した日本語である。

 そうか「音訳」という手もあったのか。
 音訳は、クラブを倶楽部、パリを巴里とするようなものと思っていたが、それだけではないのだった。

 日本人、恐るべしである。

 何でも日本語にしてしまう人こそ、日本人か。

 いや、言葉だけではない。それは…