すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

もう一度注意深く

2017年07月05日 | 読書
 ネットの怖さは、質や量がもはや無限大になっていることだ。
 誰しも自分に都合のいいように利用しているつもりだが、その実、利用されているなあと思う瞬間を感じている人も少なくないだろう。
 さらに利用の仕方や思考方法まで、知らず知らずのうちに操作、誘導されている現実も見えてくる。

Volume58
 「ネットは議論のプラットホームではなくなりつつある。自分が信じたい結論が先にあり、それに合致する情報を探し出す。」

 「共謀罪」をめぐっての報道の中で、ネットが二極化したことを評論した津田大介の言葉。
 ネットという場が議論をするにふさわしいかどうかは、意見の分かれるところだろう。
 どこまでも拡大するメディアは、拡散そのものであるが、集約、収斂とは反する性格を持つだろうから、その役割を担うことはできない。



 かつて、ネットが広がり始めた時期に、欠かせない要件として「信頼」という言葉を掲げたのは、私の知る範囲で言えば、糸井重里と向山洋一であった。
 信頼をベースにして築くべき社会であることには納得する。
 しかし、あまりにも情報過多になり過ぎた現実ゆえに、注意深さや辛抱強さを忘れ、単純な「盲信」が日常的になっては困る。


 信じたい人間がいる。
 それは当然であり、認められることだ。
 しかし、信じたい人間のいうことをそのまま結論にする安易さは危険でもある。

 媒体の限界や弱点にもう一度目を向けたい。