すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ことばをほったらかしにして

2017年12月29日 | 読書

(今年の美酒メモリー②)

 「ことば」についてあれこれ考えることは楽しいので、こんなふうに書き続けている。ただ、それに飽きないのは日常の暮らしに、ことば以外の要素があればこそである。新約聖書冒頭「はじめに言葉ありき」(大きく出たな)は絶対なのかもしれないけれど、支配されたくない気もする。達人さえも、こう言っている。

Volume92
 「ことば」によって、理解し、表現し、伝え、交わる。
 このことに、重きをおきすぎているんじゃないか。
 「ことば」を使う仕事をし、「ことば」で遊びながら、
 ぼくは、ずっと思ってきたような気がしています。
 「ことば」でないものを、もっと感じたいです。


 先々週だったか、『ほぼ日』の「今日のダーリン」に糸井重里が書いた文章。
 たぶん、これぐらいの境地を持つ人なら(それってどれぐらいと言われれば、富士山のようでもあるし、グラウンドに盛り土しただけかもしれない…それだけ自由度が高いってこともある)「ことばを大事にする」ということは、「『ことば』でないもの」をもっと大事にしているんではないか、と思う。

 それは、ことばをうまく操る以上に、ことばを表出させるための、ことば以外の部分を働かせている、そんな気がするからだ。
 ある意味、ごく当然のことかもしれないが、時々は意識的にその事象を取り上げて見つめてみることも大切だと思う。

 いずれにしても、糸井が感じたいものは、
 例えば、一流のアスリートやダンサーが、自らの身体で表現するときに、芯から湧き起ってくる流れのようなもの。例えば、身体的なハンディを負っている人が、唯一動く足の指や眼の動きに込める熱いマグマのようなもの……。
 そして、そこから離れたごく平凡な日常生活のなかにあっても、例えば嬰児の笑顔から発せられる、あっという間に空気を柔らかくしてしまうもの…。

 同じようなことを『ぼのぼの』の作者であるいがらしみきおが「できるだけ言葉から遠くに」と言っていた。

 離れすぎてもいけないけれど、「ことば」で操られる出来事、考え事などは、部屋の隅っこにでも丸めてほったらかしにしておく時があってもいい。