すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自然も社会もなかった世界

2017年12月19日 | 読書
 コトバって、不思議なものだ。
 時折「この頃あまり使われなくなった方言」を家人と話題にすることがあるが、コトバが消えていくにつれて、そのモノだけでなく、動きや感情などまで薄くなっていることに気づく。
 だから、今ふだん何気なく使っているコトバも、実はいつかどこかで出来ていて、そのモノやコトやカンガエが生まれてきたと改めて思う。



Volume90
 明治中葉から、私たちが使う言葉は大きく変わっていった。たとえば「自然」。それまでの日本語には自然は存在しない。なぜなら自然界、人間界という二分法的に世界をとらえる発想を人々はもっていなかったからである。(中略)たとえば「社会」。この言葉も伝統的な日本語には存在しない。なぜなら社会を客観的な構造体としてとらえる発想が人々にはなかったからだ。


 『ぼのぼの名言集(下)』の解説を書いた哲学者内山節の言葉である。

 いわゆる明治期に大量につくられた「翻訳語」として、自然や社会があることは知識として持っていたが、他の様々な言葉(自由、権利、個人、恋愛など)と同様に、ふだんそんなことは意識しない。

 簡単に口にするとすれば、本当なら自分がそのことをよくわかっているべきだけど、自然や社会なんて、実は一番つかみきれないものではないか。

 自然と人間、社会と人間(個人)、これらは対立する関係か。けしてそうではないだろう。
 しかし、私たちはそんなふうに思考することに慣れてしまった。

 山があり川があり、鳥がいて花が咲く…それらと同等に人がいる。
 人と人とはつながって暮らす。関係性の違いをことさらに構造化した、別の何かを、まるで「神」のように君臨させることはあるまい。

 少し寝ぼけたような戯言を並べているのかもしれない。
 しかし、そんなふうに生きられた世界を夢想してみると、どことなく「懐かしさ」が湧いてくることも事実だ。

 そういう時間に浸ってみるぐらいは、赦されていいことだ。
 「ぼのぼの」の名言はそんなことも考えさせてくれた。