すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

未熟性という回路

2018年10月10日 | 読書
 俳人坪内稔典の句は、授業をするときによく使った記憶がある。
 なんといっても「三月の甘納豆のうふふふふ」は衝撃であった。
 それから今目にしているエッセイのなかにある「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」も、初めて見た時、ほほおっと声が出た。


Volume.120
 「私の内に生きている未熟性、じつはそれが小学生の言葉との回路なのではないか。(略)彼らといっしょに、同じ地平で考える。そのときの拠り所が未熟性、知識や体験は二の次だ。」


 稔典さんは、七十代になった今も年に何度か小学校に出向き俳句の授業をしている。
 それを続けられる訳をそんなふうに語っている。

 「未熟性」とはあまり使われない言葉だし、肯定的にとらえることは少ないと思う。
 ただ、小学校や保育園などで子どもに接する場合には、とても大切な要素と思える。

 「指導者」として意図的に進めるのは当たり前なのだろうが、子どもの動きや言葉を本気で面白がる感性がないと、どこか薄っぺらな時間になる。
 そして子どもたちは結構そのことを見抜いている。
 一緒に遊べる感覚が、学びを広く深くしていくような気がする。



 ちょうど昨年の今頃に、地域の子ども園で授業の真似事をさせていただいたが、あれは何か楽しかったなあ。
 稔典さんの言う「未熟性」つまり回路がつながっている可能性は、まだ残っていたのか。

 しかしまあ、いろんな部分がかなり未熟性だらけであることはこの齢でも自覚するわけで、結局そういう部分は熟さないまま朽ちていくのか、と複雑な心境にもなる。