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民主主義って、どうよ

2018年10月08日 | 読書
 朝日新聞の「論壇時評」をまとめた新書となれば、信頼感を持って読む人もいれば、逆の先入観から入る人もいる。無理もないことだけど、問題なのはそういう固定観念に囚われている思考だ。自省しつつそう思う。2011年4月からの4年間、ここで提起された問題がいかに重要であったか、再読して痛感している。


2018読了95
 『ぼくらの民主主義なんだぜ』(髙橋源一郎  朝日新書)




 当然ながら東日本大震災の話題から始まる。そこで提起されたのは「ことばもまた『復興』されなければならない」。7年半が経過し現状を見たときにどうなのか。我々を取り巻くことばは、確実に軽く薄くなっている。中央政党レベルだけでなく、本県知事の先週の放言もその例だし、ますます列島全体に浸透した。


 この書名をどう捉えるか、が一つのポイントだ。こんな一文がある。「文体(言い方)が違うと、そこに流れているマインドも違う気がしてくる」。まさしくこの口語的な題名が示している考えを、どんなふうに受けとめるか。政治の言葉は様々に「新しい〇〇」を流布しているが、そのマインドはどうなのかが問われる。


 直接に民主主義のあり方を示すいくつかの文章のうちで、一番心に残るのは、台湾の学生運動を引き合いに、次のように書かれた文章だ。「『民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも「ありがとう」と言うことのできるシステム』だという考え方だった」。この国の現在の情けない状況がふと頭に浮かんでくる。


 「いまこの国の人たちの中に、『みんなで無知でいようぜ、楽だから』というメッセージが蔓延しつつある」と怖い指摘もある。政治家のレベルは選んだ私たちのレベルであることは疑いようもないからだ。しかし、民主主義の「民」は紛れもなく自分の中にあるから、考えることを止めない以上、可能性は残っている。