すぷりんぐぶろぐ

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台風と自分、と包み紙

2018年10月03日 | 読書
 学生時代に『台風の夜』という題の曲を作ったことがある。ブルース調の歌にかぶれていた頃で、出だしはなんとなく今でも覚えている。

 十数年前に勤めていた学校で、「台風のときに歩いて登校してくることは子どもには面白いんだよねえ」と話したら、ある保護者から顰蹙を買ったことがある。



 一昨日の「ほぼ日」、「今日のダーリン」に糸井が次のように書いていた。

Volume.119
「三十歳過ぎくらいのとき、ぼくは台風が好きだと言った。
 たぶん、どこかの本のなかに書いてあると思う。
 いま七十歳を前にしてぼくは台風が好きだとは言えない。
    (略)
 台風と、ぼくとの間にあるものは、ずっと同じままで、
 その包み紙が変化しているだけなのだと思う。
 どちらもあるなと知ることだけが、ぼくの覚えたことだ。」 


 なるほど「包み紙が変化している」ね。
 自分では選ぶことができないかもしれないその包み紙を、過剰に意識することはしたくない。
 しかし、それを意識しながら、心の中を見つめ続けたからこそ、糸井の今の存在感や影響力があるのだろう。

 だから「台風が好きだとは言えない」という形で、「台風が好き」と表現できるわけだ。

 誰しもが持っているだろう「わけのわからない衝動」は、目を伏せて蓋をすることはできるが、無くなるわけではない。
 もっと言えば、それを認め別の形で表現、昇華することが必要なのかなと思う。


 糸井は「包み紙」を開けるときのことをこんなふうに表現した。

 「ただ、それを空気中にさらすときに、注意深くあること。」


 そして「たくさん生きると、そういうことを知る」と結んだ。

 そう、結構な失敗を積み重ねて、自分の外も中も守る術も知っていくのだなあ。