すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「授業力をみがく」~国語教育研修講座

2013年07月19日 | 雑記帳
 以前,告知した研修会案内です。
 まだ席に余裕があるということなので,もう一度再掲します。

 授業,国語教育に関心のある方にとっては見過ごせない内容と思います。


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期  日   8月2日(金)                      
会  場   秋田県羽後町三輪  町文化交流施設「美里音」
主な日程  9:50~10:00   開会行事               
       10:00~12:00 照井孝司先生による模擬授業と講話
       12:00~13:15 昼食・休憩 ~ビデオ放映等の予定   
       13:15~15:15 堀裕嗣先生による模擬授業と講話
       15:30~16:20 Q&A、講師によるトークタイム  
       16:20~16:40 ふりかえりタイム        
       16:45~16:55 閉会行事               
会  費   1500円
懇親会    18:00より湯沢市「柳澤」(会費5000円)
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 申込先は以下のところまで「学校名・氏名・懇親会参加の有無」を知らせてください。(★を@を変えてください)

 事務局  大内秀朗(34727★sch.city-yuzawa.jp)
 または 沼澤晴夫(h-numazawa★nifty.com)

 多くの方々の参加をお待ちしています。

努力についてさえずる

2013年07月18日 | 雑記帳
 いつの頃からだろう。「努力」という言葉をあまり見かけなくなったのは…。年に数度通知表の所見をみているが,その文字を見かけるのは数えるほどと言ってよい。時代とともに使われなくなった気がするが,努力する子がいなくなったわけではあるまい。口にするとちょっと恥ずかしい雰囲気を誰かが作ったのか?


 愛読している橋秀実の連載『とかなんとか言語学』の第19回のテーマが面白い。「才能」と「努力」。冒頭に「才能は人心を惑わす」と記され,前半は才能について語られる。才能は「できちゃう」ことを表しているが,できちゃったで終わるわけがない。才能は放置されず,「努力」が求められるのだという。


 ここからが興味深い。橋曰く「つまり『努力』とは道徳なのである」「早い話,『努力』とは不自然に動くということだ」。わかる人は10秒でこの意味を呑み込めるだろう。努力を伴わずに行った行為など道徳的価値はないのである。自然にできちゃった人を不自然に導く。それでかえってできにくくなったりもする。



 「そもそも『努力』は字面からして「力」が重複しており,無駄に力を込め過ぎる印象がある」というのも頷ける。短距離走で腕に力を込めて振っているような感じだ。それでは最大限の力を発揮できない。どこで脱力するか,それが重要なことは今や常識。となると,いかにも厳めしい「努力」は遠ざけられるね。


 しかし,努力している人間が報われない世の中はおかしいし,それは譲れない。上手な努力,下手な努力という言い方は,いかにも評論家風なイメージがつきまとうが,報われるような努力の仕方がきちんと広まることは大切だ。それを先導していくべき方々…どうなんだろう。貴方達の「努力」は伝わっていますか。

夏到来の実感は

2013年07月17日 | 雑記帳
 家族小旅行で隣県の県庁所在地を訪れた。日中はそれなりの賑わいだったが,休前日にも関わらず夜は閑散としている。繁華街ではないけれどそれなりに飲食店が並ぶ通りでも人は数えるほど。「復興寿司」でも食べるかと大きい看板の鮨屋に入ったが,なんと先客はゼロ。今年の初ホヤは美味しかったが,寂しい。


 テレビドラマのクールが変わる時期,多くの新しい番組が始まっている。いくつか選んで初回を観て,その結果二つ三つ継続する。今回も連休中にまとめて視たが,気になることが…。この頃子役を使うドラマが妙に多くないか。視聴率が取れるから?前はそれほど気にならなかったが,見ていると少し落ち着かない。


 連休明けの火曜日はきつかった。ラストスパートは覚悟していたが,予定外がいくつか入り,若干右往左往した。こんな時には「あせらない」と念じているが,何事も解決,決着モードに傾いていることを反省する。夏休みが近づいているからだろうか。区切りをつけたいのは性格だが,自分で区切っちゃ駄目でしょ。


 今朝は曇り空。峠の温度計は21度を示し,暑さも一段落かとトンネルを過ぎたら,突然の蝉時雨。おっ,今年初めてだなと思う。河川敷の樹木からも聞こえる。学校につき校門へ向うまでの桜並木でも…。気温は先月からずっと高かったが,「夏だ」と思ったことはなかった。夏到来の実感は,やはり蝉の声なのだ。

「アカンヤンカ」で風を

2013年07月16日 | 読書
 佐藤可士和×小山薫堂の対談を見終わって,ふと思い出したことがあった。

 以前,NHKのプロフェッショナル仕事の流儀に登場した高知のデザイナー,梅原真のことだ。
 このブログにも感想を書いている。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/s/%C7%DF%B8%B6%BF%BF


 小山の新書とともに何か著書はないかと検索して,手ごろな?一冊を一緒に注文した。

 『梅原デザインはまっすぐだ!』(梅原真×原研哉 はとり文庫)

 原研哉という名前にも見覚えがある。岩波書店の『図書』で読んだときがある。確か建築家かデザイナーだったと思う。

 この本は,『ニッポンの風景をつくりなおせ―一次産業×デザイン=風景』というがっしりとした単行本の「副読本」という位置づけで,対談記録が文庫化されたようである。
 本の題名のように,原が主に聞き役という位置づけであるが,双方ともなかなかいいことを語っている。

 一昨日書いた小山の「もったいない」とほとんど通底している言葉があった。
 それは梅原のトレードマーク?的な一言とされている。

 「アカンヤンカ」

 関西,大阪的なノリで叱りつけるこの一言で,多くの仕事が動かされていく。デザインが始まっていく。
 梅原が手掛けるのは,地方の一次産業に関わるものが多い。
 やはりそこにあるモノが生かしきれていない,眠っている価値に目をつけて,「アカンヤンカ」で目覚めさせるような働きをしていることがわかる。

 漁師が焼いたカツオのタタキ,原材料から商品に昇格させた青のり,間伐材を利用した入浴グッズなど,すべてが当てはまる。まったく「もったいない」の発想と同じである。

 違いがあるとすれば,梅原の方が「地方」にこだわるという点になるかもしれないが,それもこの対談で語られている「東京も,日本もローカル」という視点に立てば大差はない。
 またそういう視点こそが,価値を掘り起こすことに結びつく。

 疲弊した地方…こうした言い方もパターン化されているように思う。
 そういったイメージを押しつけられていないか,慎重に目配せするべきだ。
 それと同時に,淡々と元気な日常を作っていこうとする動きを大事にしたい。本県で言えば,「あきたびじょん」よりは「のんびり」という発想の方がより共感できるなあ。

 さて,梅原のまっすぐで豪快な語りも面白いが,それを受ける原の言葉にも感じ入った。

 みんなデザイナーになって飛ぶ側になろうと思わなくとも,風になればいいと思うわけ。

 「アカンヤンカ」で風を巻き起こす人も大事だが,それを飛ばし続けさせる風の存在はもっと大事だ。

「もったいない」と働きかける

2013年07月14日 | 読書
 録りためておいた番組のなかに,NHK「switch インタビュー 達人達」があって,注目している佐藤可士和と小山薫堂が対談する回を興味深く見た。

 佐藤可士和の『超整理術』を読んだ時には,頷きとため息ばかりが出たのを覚えている。番組後半にその仕事場が撮影場所になっていて,写真でみていたその通りであったことにまたため息だった。

 一方の小山薫堂は,正反対とはいわないが,どこかごちゃごちゃしている,物がなかなか捨てられないそうで,一気に親近感が湧いた。

 新書が出ているというので取り寄せて読んでみた。

 『もったいない主義』(小山薫堂  幻冬舎新書)

 番組でも語っていた「もったいない」という考え方を展開したものだ。


 小山が語る「もったいない」は,いわゆる節約とは異なる。
 モノを大事に使うというより,使いこなす,新しい価値を見出すといったことに視点が向いている。
 単純に言えば「発想法」の一つといっていいだろう。

 顕著な例が,この本でも番組でも冒頭に出てきた,事務所の受付でパンを販売していることだ。
 受付にただ人を置いておくことの「もったいなさ」を感じることは,言われてみればもっともなことだけに,凡人には本当に難しいと思う。

 常識ということに安心を感じたり,受動的な仕事に慣れたりしてしまうと,とことん見えなくなってくる。
 かなり意識的に日常の行動習慣や思考習慣を変えて,やっとほんの少し見える程度なのかもしれない。

 実に読みやすい内容だった。
 そして,なんとなくその気にさせられるから,小山の「もったいない」は徹底している。たかだか新書一冊で読み手を満足させられるのだから。

 引用したい,いくつもの文章がある。
 変な話だが,もったいないから載せないのではなくて,みんなに知ってもらわなければ読んだことがもったいないと思う発想を持つことがこの本の核にあったと今思った。

 従って,以下は勝手に選んだ名言集ベスト3。


 過去に失敗したことに再チャレンジしてみて,やっぱり失敗したら納得がいくし,うまくいけば成長の喜びが味わえる。過去の失敗も,そのままにしておくと「もったいない」わけです。

 僕が腹が立つのは,前年比うんぬんという言い方です。これこそ,閾値を挙げていく発想です。(中略)「前年比を下回っちゃいけない」というような考え方を吹き込まれているうちに,どこもかしこもいつの間にか拡大路線をとってしまう。

 ネガティブな感情に時間を奪われているのは「もったいない」。(中略)人生は有限です。ご飯だってあと何回食べられるかわからない。そのことだけ考えても,ネガティブな感情に駆られている暇なんてないと思うのです。



 優れているデザイナーやディレクターと称される人たちは,まず自分の時間や空間をデザインしていることに気づく。

今週のさえずり

2013年07月13日 | 雑記帳
 朝、登校してきた最後の班について校門から校舎へ向うが、会話がなかなか面白い。「ああ、今日はプールに入りたい」と一人が言えば「ほんとに心の底から入りたい」と強調される。「えっ心の底かあ、すごい」と驚いてみせると、さらにエスカレートする。「人生一度のお願いだから入りたい」…それでいいの。


 休み時間、異学年交流活動で3年生と4年生がドッジボールをしていた。均等のグループなのにどういうわけか一方的な内容。片方の、当てられて外野に回る子が全然動けていない。偶然に来るボールしか待っていない感じだ。昭和の小学生はこんな場面を見るとナンダナアと思うが、経験不足だからやむを得ないか。


 ある団体の方が学校に見えて談笑していときに、改めて気づいた。年配のご婦人方と「夏休みの宿題や自由研究」の話題になって,休み後半が近づくと心配になってくるという。工作など提出を迫られていることにドキドキしてくるのは今は親でなく祖父母だ。親は責任者だが下請けさせられる。これは変な現実だ。


 研究大会で、浅利香津代柳葉敏郎の対談?があった。浅利のしゃべりの量と速さはさすがだったが,柳葉の朴訥さも捨てがたいものがあった。PTA役員として学校と関わりあうなかで,一番訴えたかったのは「何のために先生になったのか」の一言だったか。彼も欽ドンの良川先生であったことを忘れてはいまい。

鈍感ではいけない,慌ててはいけない

2013年07月11日 | 読書
 『みんなで考えよう 世界を見る目が変わる50の事実』(ジェシカ・ウィリアムズ  草思社)

 著者はイギリスのジャーナリスト。各種のデータをもとに世界の現状を若者向けに紹介しているものだ。
 扉の裏には「明るい話題から深刻な話題まで」と書いているが、編集者?は50項目のどれを明るいと形容しているのか、わからなかった。

 1 日本女性の平均寿命は85歳。ボツワナ人の平均寿命は34歳

 から始まる内容は、

 50 貧困家庭の子どもは、豊かな家庭の子どもにくらべて、3倍も精神病にかかりやすい

 で終わる。
 これだけでもある程度の予想がつくだろうが、地球規模における格差の問題、資本の偏り、問題の大きい法律、風習などが取り上げられている。

 事実の多くは、若者でなくとも日本人の大半は知らないだろうし、ふだん意識もしないことだろう。
 正直読んでいて、けして明るく気持ちよくなったりする内容ではなかった。しかしそういう多くの現実に囲まれて、自分の暮らしがあることを時々考えるのは無意味ではない。


 最近読んだ雑誌の書評で、かの内田樹氏が、不完全な社会に暮らしてきた人類が長く努力してきた末にその「歴史的経験」が私達に教えてくれたこととして、二つのことを挙げている。
 一つは、こうだ。

 人間は制度改革において長期的には「わりとましな」方向に向かっているということ。

 これを正しい判断とみるか、能天気とみるかは意見が分かれるだろう。
 富と貧困、平穏と紛争…例を挙げなくとも明確にわかる世界の現状は「わりとましな」と言ってもいいか、迷うところだが、少なくとも『みんなで考えよう~~』といった類の本が出版されるという一点をとってみれば、制度確立の動きは常に進んでいるといっていい。

 しかし、その制度が進むなかで問題が拡大している面があることは認めざるをえまい。

 35 毎年、10の言語が消滅している

 世界中の言語が約6000あるといい、その半数が絶滅寸前だという。
 この事実が物語っていることを、どう受け止めるか。
 進歩発展を遂げるということは、片方に必ずこうした事実を抱えるということを認め、それとどう折り合うのか。

 内田氏が挙げた二つ目は、こうだ。

 短期的には取り返しのつかないほどひどい間違いを何度も犯したということ。

 歴史を見る観点が違えば、具体的に何を指すか差があるだろうが、戦争や開発に伴う環境破壊などは洩れることはないだろう。

 そうした視点を今理知的に、冷静に提示できる人が少なからずいるという事実を、明るくとらえたい。
 「世界の見る目を変える」のは、共感をもってそういう方々とつながろうとする姿勢のなかに生まれてくるものだと思う。

 今、その姿勢は「慌てないこと」だと内田氏は言う。

 慌てている世の中では、案外難しいことでもある。
 この地方の小さな町でも街頭で訴えかける人たちが目立つこの時期。
 鈍感ではいけないが、慌てていない人を見きわめよう。

振り返れば,よつがある

2013年07月10日 | 雑記帳
 振り返れば奴がいる
 
 振り返ればよつがある

 単なるダジャレもどきです。
 20年前の名作ドラマ「振り返れば奴がいる」が、BS深夜枠で放送されていたので、録画して全11話を視聴した。

 好きなドラマだった。
 三谷幸喜脚本だったし、視聴率も高かったはずだ。
 それにしても、それにしても、今見るとさすがに20年前である。
 で、感じたことを「四つ」書き散らしてみよう。

 大病院が舞台のドラマ。一番先に「ああ」と思ったのは、ナースキャップだった。当然、全員が白の看護婦姿。今だと逆に新鮮に感じたりすることがある。
 手術室も頻繁に出てくるが、最近の病院ドラマと比べてその狭いこと、狭いこと。当然モニターなどもないし、上から見られるような部屋もない。この頃の病院ドラマはそれ自体が、ドラマ設定の大きな要素だし、服装・機器・設備等の進歩は凄いものだなあと改めて感じた次第…。


 次にカメラワークが古いこと。人物の顔の取り方やシーンのつなぎなど、あれれっこんなに平板だったかと、ちょっとびっくりした。あまり見ることはないが、今の韓国ドラマってこんな感じだなと思って家族にいったら、頷いてくれた。
 メイクも大げさだ。特に終盤、ガンに冒された石川(石黒賢)の顔色のつくり方など、ドリフのコントを彷彿させるようだった。結構笑えた。


 役者はなんといってもツートップの石黒賢と織田裕二だが、どちらも結構若々しさが出ていて、個性が際立ってよい。
 その後の活躍は当然織田が勝るのだろうが、正直どんな大ヒット作もこの作品のキャラクターを越えていない気もするのだが…。
 あとは患者たちに三谷作品の常連さんがいて、当時のトレンディーな女優たちもいるのだが、丈夫になった松下由樹はともかく、どこへいってしまったんだ…中村あずさ、そして千堂あきほ。


 このドラマの一番の衝撃は、なんといってもラストシーンだろう。
 「振り返れば奴がいる」というタイトルは、主人公二人の対立、葛藤や通低する要素をめぐったものと解釈される。
 その通りに11話が進んで、最後の数秒で「あっ」と思わせる。病院から出た司馬は突然背後から何者かに刺される。振り返れば、そこには元上司の平賀(西村雅彦)の泣き笑いの顔が…。
 「そうかあ、振り返れば奴がいるとは、こういうことなの」と、ごく単純に当時感じてしまったことを覚えている。
 ところが今改めて一つ思ったことは、刺される前の救急の存在。この頃の多くのドラマだと、こんな想定では司馬は病院へもどって救急患者のもとへ行くことを想像させて、御終い(つまり困難にめげす医師稼業は続いていく)という形が圧倒的だろうが、ここでは戻らない。
 これは結局すべての終わりを意味する。
 終止符はいつも西村だなあと思う。

歌のしたたかないのち

2013年07月09日 | 読書
 『大人のための 教科書の歌』(川崎 洋  いそっぷ社)

 ちょっと驚いてしまった。
 この本には戦後の音楽教科書に掲載された歌の中から66編が紹介されている。
 その66編全曲を自分が口ずさめるということは意外だった。

 教科書で習ったのだから当然ではないか、とも思えるが、三社の音楽教科書から選ばれているものだし、そしてもうすでに40年も50年も経過しているということを考えれば、歌の力って凄いと思うのである。

 どこかの放送局の「音楽のチカラ」などという商業ベースのこととは同様ではない。
 純粋に「覚えている」ことの素晴らしさ。66編全部だったのでそれは痛切に感じる。


 著者である川崎洋が、こんなふうに表現している箇所がある。

 「歌」のしたたかないのち

 「仰げば尊し」を子供にもわかる言葉に直そうと新しい歌詞を作った児童文学者がいたが、どうにも不評だったという事実から、長く残る「歌」というのは詞と曲が一体化しているからこそ、生き永らえるんだろうなと、確信できた。


 この本は、66曲を著者が解説しているわけではなく、多少関わりのあるエッセイ風の文章を添えて構成されている。
 それぞれに趣がある文章になったのは、四季の際立つ変化や生まれ育った時代という背景があるからだ。

 それをある程度の共感を持って読める自分の世代、つまりは66編をすべて口ずさめる世代(おそらく50代半ばあたりがぎりぎりではないかと思う)が「歌のしたたかないのち」から、どれほどのものを感受できているか、甚だ自信がない。

 遠い昔、長髪をなびかせながら(笑)、ギターをつま弾いて唄ったことを今思い出した。
 いったい、どんな世界を想ってステージに立ったのか。
 (さっぱりわからん)

 シャボン玉飛んだ
 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで
 こわれて消えた

 シャボン玉消えた
 飛ばずに消えた
 産まれてすぐに
 こわれて消えた

 風、風、吹くな
 シャボン玉飛ばそ


 歌に込められる世界観は様々であろう。
 そのどの部分を不変なものとして担っていくか。

 そんな観点で「したたかないのち」を見つめてみれば、案外大切なことに気づくかもしれない。

40字で多面体を言いきる

2013年07月08日 | 読書
 『上杉隆の40字で答えなさい』(上杉隆 大和書房)

 こんな副題が小さく表紙に書かれている。

 きわめて非教科書的な「政治と社会の教科書」


 政治やメディアに関するフリージャナリストとして有名な著者、結構過激なことを書いているなあという印象を持っていた。しかし雑誌記事などを読んだだけの印象なので、単著ではどうだろうか。

 国内政治、外交、社会問題等に私達が何気なく使っている言葉を、辞典、事典的な解釈ではなく、現実現場主義でずばりと言い切っている著といっていいだろう。
 たとえば、「国会議員」の仕事とは何か?という問いに対しては、次のような文言が引用される。

 一年生議員は二年生議員になること。
 二年生議員は三年生議員になること。


 旧田中派で言われていたこの言葉を皮肉めいて紹介したわけでない。
 これにはこれなりの真実があり、意義づけ(地元を回り有権者の声に耳を傾ける)もできるというのである。
 その真実に読み手がどれだけ近づけるか共感できるか、または反発するか、そういった揺れもあったりして、なかなか興味深かった。

 政治、外交、社会…いずれも多面体で成り立っていることはわかる。私たちが見ている(見せられている、といった方がいいだろうか)のはその一面に過ぎない。
 だからその現実に慣れっこにならない。その程度の決心しかできないが、その程度がまた大事かと思う。

 
 実は、一番考えさせられたのは前書きだ。
 「私たちの情報にはフィルターがかかっているのです」と題された「はじめに」に書かれてあることは、ある程度予想されていたこととはいえ、驚いた。

 フィルターのかかる元凶として「記者クラブ」の存在があり、そのまとまり方はどこまでも「日本社会」だなあと感じられる。それゆえ、取り除くための困難は計り知れない。著者はずっと闘っている一人なのだろう。

 その前提を知ると「メディアリテラシー」などをいくら学習しても、どれほどの効果があるのかとそんな疑問も湧いてくる。
 こういう現状を知り、どんなふうに実際の「行動」を変えていかなければいけないか、考えれば考えるほど深刻になってくるような問題だ。
 それを打破する一つの手がかりは新しいメディアの活用だとは思うが、その選択をためらっている自分もまた歯がゆい。


 それにしても、40字でたいていのことを言いきれるものだなあと感心してしまう。
 しかしまた、その表現にたどり着くには、水面下の見えない部分がいかに広く深くあるかが決定的だということを、この人にも教えられた気がする。