すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

乗り越えていくという胆力

2013年07月07日 | 雑記帳
 震災の時に,あの大槌町の中学校長をしておられた小野先生の話を聴いた。

 様々なメディアに丹念に目を通していたわけではないので言い切れないが,なかなか報道されにくい非常時の現実を,生の声で語っていただいたように思う。

 例えば…
 最初に避難した墓場で迎えた夜,暖をとるために燃やしたのが卒塔婆であったこと。
 避難所での若者の行動パターンを見て,職員や地域の方々による自警団が組まれたこと。
 間借り教室での指導において,いかにPTSD対応が優先されなければいけないか。


 個人的に印象深かったのは,やはり混乱する避難所において,なかなか規律を守らない大人たちが,子どもたちが規律を守る姿,呼びかける姿によって秩序を維持していった件である。

 これは,小野先生が一躍有名?になった避難所での卒業証書授与を支えた大きな要因であることがわかる。
 多くの避難所において,狭いスペースのなかで住民たちが寝床を寄せ,その場を作り上げてくれたのは,子どもたちのそうした動きに対応した結果であることだ。
 不謹慎かもしれないが,このような体験の質は見舞われた災害の大きさゆえに高まる。困難な時期だからこそ強く心を揺さぶられる。

 最後に「非常時のリーダーの心構え」といったことを質問させていただいた。つまるところ「優先順位の判断と断固とした実行」に集約してもいいと思うが,これはいわば胆力を要する。

 今回の話のなかで,小野先生のそれが強く感じられたのは,行政対応とマスコミ対応だった。
 
 それは相手の意図を乗り越えて,今何を為すべきかを実現していくということだ。

今週のさえずり

2013年07月06日 | 雑記帳
 休み時間に避難訓練を実施した。事前指導から予想をつけて?開始前に集合場所のグラウンドに出てくる子供もいる。始まると当然最初に集まってくるが、もちろんそこに何の意味もない。放送の内容も聞かずにただ駆け寄ってくるだけだから。その子たちを相手に、もし本当だったら…と1分間揺さぶり続けてみた。



 PTA全体会挨拶では、ここ数回デジタルを使ったので、少しひねってアナログ的に絵本の紹介から始めることにした。使ったのは「うえきばちです」。これは、のっぺらぼうを植木鉢に入れて水をやると「めがでました」と始まる実に面白い話だ。学校も家庭もどこか植木鉢に似ているところが…なんて話し出す。



 若い頃、お世話になったO先生の訃報を知った。葬儀に参列した家人によると不慮の事故だったらしい。明るく、厳しく、やさしく、大らかで細やかな人だった。そう言えるのは、思い浮かぶ表情、語りかける声の豊かさがしっかり心に残っているから。「乏しくなっていないか、それでいいか」…O先生は問い続ける。



 変な夢を見た。勤務する?学校の前にかかる橋に、数人が倒れている。周囲の様子から毒物のような気配。乗っているバスが倒れた人を避けながら橋を渡りきると、多くの人がその橋へ向おうとする。大声で止めるがいっこうに人の動きは止まらない。と思うと向こうに花火が揚がる。それを橋の上で大勢の人が見上げる。

スタートラインを思い出す

2013年07月04日 | 読書
 もう一つ『滝山コミューン一九七四』(原武史 講談社文庫)から

 読み終わってふと思い出したことがあった。
 この頃、そんな質問をうけることはめったにないが、以前は「なぜ、学校の先生になったんですか?」などと訊かれたことがあった。

 その時、多少のバリェーションはあるにしろ、こんな言い方をしていた。
 「子どもに1+1や文字の書き方を教えたかったから。」

 それをどんなレベルで語るかを考えれば、また面白い問題だが、それはさておく。
 初等教育を目指すという方向をシンプルに伝えようとして、そういう返答をしたはずだ。もっとも地方における安定した職業である事実も大きな要素であることは隠せないのだが。

 ところが、自分が「先生」を目指した本当の最初のきっかけは、実はあの頃にあったこと(実は前に一度思い出したことがあったが、今回この本でまたよみがえった)を強く意識した。

 それは小学校5,6年の頃だ。
 「班づくり(班分けと言ったかな)」の時に何かしらの不満を持ったのだと思う。
 その時に「オレならこんな班分けはしない」と浮かんだ。
 これがスタートラインだ。
 そして「この場合は~~して、そうすれば全員が不満がなく~~できる」と改善案を考えていたのだった。ただ現実としてそれを全体に提起したかどうか定かではない。
 しかし、記憶の中ではいずれそこが出発点である。

 当時の教師が選択した方法がどのようなものか分からないが、子どもなりに自分も集団づくりの手続きのこと、個との関係を考えていたようだ。これはやっぱり普遍的な課題なのだろうか。


 さて、勝手に著者を「鉄道オタク」と思っていたが、案の定、鉄道に関する記述は非常に多く、話の筋と直接関係ないことも少なくない。
 だから極端に言えば、そっくり抜いても「滝山コミューン」自体に大きな影響はない…いや、そうだろうか。

 著者が小学生時代に見つめた鉄道の発展は、「街」の成立と無関係なわけではない。
 人の移動を背負った交通機関の発達は、生活を規定し、行動パターンを作り出していく。それが多くの家族、地域、そして学校に与えた影響は小さくないだろう。
 鉄道の姿を描くことによって、当時の首都近郊の外観を見せたとも言えるか。

 「移動手段」に惹かれる著者は、空間を基盤にしているが、きっと時間も意識している。

 始発駅をどこにするかを決め、目指す方向はあるのだが、なかなか終着地の名は明かさない。
 ただ経由地ははっきりしているようだし、場所や時刻を明示しながら話を進めているようなパターンは、やはり鉄道マニアのなせる業かと、ちょっと感心している。

見過ごしてきた自分に

2013年07月03日 | 読書
 『滝山コミューン一九七四』(原武史 講談社文庫)

 この著者の名前には見覚えがあった。講談社の雑誌『本』で「鉄道ひとつばなし」という連載を続けている。なんとなくその方面の専門家かと思っていたが、今月号を改めて読むと専門が「政治思想史」とあるではないか。毎月見てはいたのだろうが、関心がないと目は向かないものだ。

 さて、この本は著者の小学生時代に過ごしたマンモス団地の学校が舞台となっているドキュメンタリーである。
 そこで繰り広げられる教育の試みに違和感を抱いた一人の少年、それはまさしく著者自身なのだが、その眼が当時と現在を行き来しながら、真実を求めていく。

 学校教育に携わる一人として、ここに書かれている実践の潮流を知らないわけではない。しかし詳しく語れるほどの知識はない。
 ただ自分に引き寄せてみれば、この本で批評される対象の一つである「水道方式」は、三十数年前の初任の頃の自分の支えとなった一つであったし、遠山啓が大きな存在だったことは否定できない。
 そして組合活動のなかで、全生研の考え方を標榜した研修に何度か参加した記憶もある。
 80年代前半当時、まだ残っていたボロ班、ビリ班という名づけは自分には抵抗が大きかったし、積極的に進めようとは思わなかったが、そのエッセンスは部分的に残っているかもしれない。

 ここで、いかにも中途半端な教師人生を送ってきたことを白状しなければならないが、それらの実践、実践者の変わり目の肝心なところを見過ごしていたのかもしれない。

 教科指導でいえば「水道方式」と検定教科書のタイル(及びタイルもどき)の使われ方の相違はどう解釈するのかとか、児童会などで「選挙」という方法がとられなくなった意味を複層的にみるとどうなるのか、とか。
 こうした些細に見える変化への注意深さを持てなかったのは何故か、今なら少しは自己分析できる。

 さて、著者の過ごした年代、地域条件等…複数の要素が絡み合って、典型的な姿を見せたのが、この「滝山コミューン」だとして、問題はけして小さくないその流れと同様のものが、全国各地にどの程度影響を及ぼし、どんな功罪をもたらしたか、である。

 歴史的な検証は行われているのかもしれない。
 しかし、著者以外の多くが当時をほとんど記憶していない現状が何を語っているか。
 それ自体はよくあることで、もっと目を凝らさなければならないのは、記憶していない多くの元小中学生が、どこにその痕跡を残しているか、ということだろう。
 おそらくこの語りつくせない命題は、教育の意義そのものだ。

 集団と個の適切な関係を築く。
 目標として口に出すは容易い。同時に困難であるから現実には…と言い訳することも容易い。
 私達現場にいる者はその結果を見るのでなく、過程をつくりだすことしかできないのだという覚悟、自分の信念がなければ子どもには響かないが拘っていては姿を見失うという自覚…それらを時々口にしてみる大切さを今思う。

開催まであとひと月

2013年07月02日 | 雑記帳
 ちょうど開催一ヶ月前、遅ればせながら近隣校へのチラシ配布を始めた。

 このページでも紹介し、県内外から参加者を募りたい。。


 所属している国語の研究団体で主催する研修講座である。

 岩手の照井孝司先生と北海道の堀裕嗣先生のお二人をお招きし「授業力をみがく」というテーマで実施する。
 実力者お二人の模擬授業と講話をたっぷりと時間をとって行う。
 その後は講師を囲んでの懇親会も計画してある。

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 期 日   8月2日(金)
                      
 会 場   秋田県羽後町三輪
       町文化交流施設「美里音」

 日 程
     9:50~10:00 開会行事               
    10:00~12:00 照井孝司先生による模擬授業と講話
    12:00~13:15 昼食・休憩 ~ビデオ放映等の予定   
    13:15~15:15 堀裕嗣先生による模擬授業と講話    
    15:30~16:20 Q&A、講師によるトークタイム  
    16:20~16:40 ふりかえりタイム        
    16:45~16:55 閉会行事
               
 会 費   1500円

 懇親会  18:00より湯沢市「柳澤」(会費5000円)

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 申込は7月16日まで。

 申込先は以下のところまで。
 「学校名・氏名・懇親会参加の有無」を知らせてください。(★を@を変えて)

 事務局  大内秀朗(34727★sch.city-yuzawa.jp)
 または  沼澤晴夫(h-numazawa★nifty.com)

 多くの方々の参加をお待ちしています。


様々な幸せの形

2013年07月01日 | 雑記帳
 柳家喬太郎とその師匠であるさん喬との親子会があった。喬太郎ワールドはもはや語るまでもないが、今回は久々に聴いたさん喬の持つ雰囲気に酔いしれた。空気感をつくるとでも言えばいいだろうか。語りや仕草によって周囲何メートルかが支配されている印象だ。オーラは初めからあるのではなく、動的に放たれる。

 
 週末に9時半という遅い時間帯に入った居酒屋。カウンターで店主と語らった。料理のことなど話し込むうちに「客には酔っ払ってほしくない」という。日本酒揃えが評判の県内きっての名店であればこその本音だ。「味わう」「楽しむ」が最優先される場にしたいという店主の矜持だろうか。気分のいい夜だった。


 ボーナスが出たからといって特別なモノをすぐ買うことはなくなった。個人的感覚では消費が伸びない一因は、やはり給与や賞与の振込にあると思う。「ボーナスの懐に手を当ててみる(今橋真理子)」という句は遠い感覚だ。時代が違うことは百も承知で断言してみる。その懐の温かさは幸せの一つの形だった。


 2013年も半分が終わった。そう言えば正月は京都だったなあ。年度替わりには大きな変化がなかった期間であったが、どうも慌ただしく過ぎた気がする。寒いままに春が過ぎ、爽やかさを満喫できないうちに暑い季節に入ったからかもしれない。多くの人が語るが、季節の変化が大胆過ぎて、趣がなくなっている。


 資料印刷後に丁合をしている時に、あるページを2枚重ねて綴じたことに最後になって気づく。そんなに多い部数ではないので1部ずつめくってもいいが、厚さに変化がでるのではないかと思い、指先で確かめてみる。厚くないコピー用紙の8枚と9枚の差を見分けられるか。これが意外にできるもので、少し嬉しい。