すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

表現づいて週が始まる

2015年11月09日 | 教育ノート
 雨模様の週初めとなった。今日は結構スケジュールがいっぱいだ。朝はすべきことを確かめてから、さっそく昨日のミニバスケ大会の写真を学校ブログにアップする。それも含めて、先週の見学やら体験活動などを学校報に書き始める。半分は仕上がったので、次は昼過ぎの読み聞かせで使う本やデータなどを確かめる。


 6年生から「朗読発表会」のご招待を受けていたので、他の職員とともに、4時間目の第一部を参観する。題材は『やまなし』。六つのグループがそれぞれ物語の後半つまり「十二月」を読む。短時間の練習だったろうが、それなりの朗読に仕上がっていた。発表会の折に群読をやっていた子も多く、成果が出ている。


 廊下に算数コーナーがあり、「難問」が掲示されていた。職員参加(笑)もあるということなので、最高レベルのプリントを1枚もらい、挑戦してみる。給食の検食をしながら考え始めた。めどがついたなと思った頃、あっ読み聞かせの機材(プロジェクタなど)の準備をしなければいけないと気づき、一時中断する。


 午後になって、読み聞かせのボランティアの方々が3名来校。賢治に縁のある花巻のお医者さんからいただいた貴重なお手紙を見せていただく。六年生の「やまなし」の話などもしているうちに、時間になる。今日の読み聞かせは2年生。春に4年生に聴かせた「りんごかもしれない」を中心に構成しようと決めていた。


 林檎の実物を見せながら、「りんご園」に関する写真集を一つ紹介する。りんご園にフクロウが来る話に驚いてくれた。メインの「りんごかもしれない」は、プロジェクタの電源が落ちるアクシデント!程なく復旧して読み始めると、予想以上にウケてくれた。反応があると嬉しい。読書は個のものだがライブも楽しい。


 6校時目は再び6年生の朗読発表会。全部終わってから講評をする。といっても朗読に関する本を紹介しようと決めていた。漫画『花もて語れ』を使って短い文でも読み方の種類が膨大になることや、『朗読を楽しもう』を使って文章の目の付け方などを話すと、深く頷いてくれる子が多い。これも学習の成果であろう。

苦悩する往復運動

2015年11月08日 | 読書
 【2015読了】112冊目 ★★★
 『談志が死んだ』(立川談四桜 新潮文庫)


 広辞苑によると「小説」の意味①は「市中の出来事や話題を記録したもの」とある。②として「作者の想像力によって構想し、または事実を脚色する叙事文学」が出てくる。自伝的小説という言い方もあるし、実録小説もあるので、この著はその部類と言える。いずれ作者から見た「立川談志」の末期までが描かれる。


 テレビ世代と称される年齢なので、立川談志が『笑点』を仕切っていた頃のことはよく覚えている。当時のことも記されていて、小円遊との確執の部分など非常に興味深く読んだ。ゴシップ記の要素もあるが、落語家、芸能人としての苦悩が赤裸々に出ている気がして、ふだん知り得ない部分が掘り起こされた著だ。


 談志が「小説はおまえに任せる」というほどの文才の持ち主は、言うなれば絶えず苦悩している印象をうける。談志によって落語に目覚め弟子入りし、文壇的なつき合いを知る中で筆を磨いていったのだが、そこには必須な内省力が備わっていたのだろう。だから、談志との末期における関わりをこんなふうに描ける。


 あとがきで書評家がこう書く。「小説家であるために重要な魂の護持と、落語家であるために必要な情の間で苦悩し、表現を磨き上げた結果が作品として残ったのである」。この表現から、職業に就きながら小説を書く場合のある面の普遍性が導きだせると思った。魂と現実の間を苦悩する往復運動が核なのだ。


 作者の場合、その核を刺激するのが「談志」であり何者にも変え難いパーソナリティである。壮絶な生き方の典型という言い方は不遜だが、人生をそんなふうにしか生きられない哀しみの塊のようだ。少し似た方々を身近に思い出す時がある。みんな鬼籍に入られた。切なく思えてくるのは晩秋のせいだけではない。

図書館で真砂女の句に唸る

2015年11月07日 | 雑記帳
 2年生が町立図書館へ見学に行くというので、後からのこのこ付いていった。利用したことのある子、初めての子と様々なようだが、ふだん入れない書庫などにも入れていただき、興味を持って調べているようだった。私はと言えば、書棚を眺めて、あらららこんな本まであるのかと…一日のんびりしたい欲求を持つ。


 目を転じて、館内には実に沢山の貼り物も目立つ。漢字能力検定協会の「今年の漢字」募集箱もある。そういう時期だなあ。確か今年は20周年。傍にあった『漢検ジャーナル』なる小冊子には「20周年を迎えた『今年の漢字』」が特集されていた。始まりが1995年、いろいろな意味で変化の激しかった年である。


 95年の「震」に始まり、昨年の「税」まで、確かに世相に合う字が取り上げられているようだ。ふと、2位の漢字に目をつけてみた。95年から数年間は実に特徴的だ。95「乱」96「菌」97「破」98「不」99「乱」00「乱」と二十世紀が終わる。まさに世紀末だったのか。そして幕開けの01は「狂」。これも象徴的か。


 ひとしきり見て、学校へもどろうとしたら、玄関ホールのコーナーに「町を訪れた文士の色紙展」があり、しばし目をとめる。井上靖や高橋治は知っていた。藤原審爾の石碑があるので、その関わりで色川武大も来町しているではないか。色川の「狂人日記」の結末の幻想が、西馬音内盆踊りだったことは知らなかった。


 当然、盆踊り絡みが目立つ。文士でなくとも有名人の来町は非常に多い。おおぅ鈴木真砂女がいる。あの情熱的な女性俳人は、91歳の高齢で訪れて盆踊りを観たという。その折の句が色紙に残されていた。解説によると真砂女の代表句の一つになっているそうだ。「鴨引くや人生うしろをふりむくな」ううむ、沁みる。

タイカレーうどんを食しながら

2015年11月06日 | 雑記帳
 昨日は東北福祉大学から上條晴夫先生をお迎えして町の秋季研修会を実施した。会長権限(笑)で本校を会場にしてもらったので、ほとんどの職員が参加できた。テーマは「リフレクションで伸ばす授業力&教師力」。4年前にお招きしたとき、最後に触れられた内容が頭に残っていて、その部分を焦点化してお願いした。


 研修については校内報等でまとめるとして、ここでははみ出し情報的なものを…。湯沢駅に到着なされたのがちょうどお昼。昼食はお任せということだったので、名物の稲庭うどんを、しかも「タイカレー二味セット」でどうでしょうか、と言うと大変喜んでくださった。なにしろ超のつくタイマニアの上條氏である。


 車中で聴くお話のなかにも、年に数回訪れるタイでの暮らし方や、最近タイ仏教にはまっている話など、その傾倒ぶりがうかがわれた。おそらくは空気感が合うのだろう。で、肝心の「タイカレー二味セット」はというと…満足していただけたようである。盛んに写真を撮られ、ツィッタ―発信なされていたようだ。


 どこに出かけてもタイ料理の店を探すとおっしゃる。また、あまり味についてこだわりはないとも口にされた。つまり旨いとか不味いではなく、タイ料理であればいい、具体的には何かの味つけ、エッセンスに惹かれるということか。自称グローバル喰い人は旨けりゃいいが基準だが、ある意味その拘りも羨ましい。


 時間に余裕があったので、某有名うどん屋の本店まで足を伸ばしたのだが、さすがブランド力を感じた。大型バスが3台、結構車も止まっている。県外ナンバーが目立つ。平日にこれだけ入るとは、少しびっくりする。地方のメインストリートに人は少ないが、集まるところには集まるというのは普遍の姿であろう。


 たしか4年前は秋田ふるさと村で横手やきそばを食しながら、話し込んだ。その折に私が話した内容を結構覚えてくださっていて驚いた。多くは「秋田の学力」の話題だが、同じ問いに対する自分の答が少し変化していた。現状にどう向き合っているのか、自分の構えが確かめられた気がした。問われてわかることもある。

ツッコミをかわして進めるか道徳

2015年11月05日 | 読書
 【2015読了】111冊目 ★★
 『新しい道徳』(北野武 幻冬舎)

 表紙にある書名は、表題に加えて「『いいことをすると気持ちがいい』のはなぜか」と添えられている。ビートたけしではなく、北野武という筆者名にしたのは、副題のイメージを考えてのことだろうか。ただ、北野監督映画を観ても「いいことをする」と単純に結びつかないと感じるのは、自分だけではないだろう。


 案の定というべきか、第一章から五章までに「『いいことをすると気持ちがいい』のはなぜか」の結論は書き込まれていない。「おわりに」の冒頭がその記述となっているだけだ。それを結論のように取り扱うのはどうかと少し疑問を感じた。筆者の出した理由には納得できるが、それが全体を包括しているわけではない。


 「はじめに」に書かれている「結論」を紹介する。「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」である。道徳がどうのこうのということを仕事にしている教員としては、反発を感じる。というより、そういう見方をする世間があることを背負って進めるのが仕事だと再確認できると言った方がいいか。


 参考図書として文科省の出している『わたしたちの道徳 小学校一、ニ年』が取り上げられていて、ツッコミを入れられている。曰く「人生がこれから始まるっていう子どもに、自分を見つめさせて、なんの意味があるのか」「まるでクスリの効能書きみたいに、『いいことをしたら気持ちいいぞ』って書いてある


 ツッコミやすい箇所を選んだなと微笑む。文科省のお役人だったらどんな返答をするものか聞いてみたい気もする。ただ現場に居る者とすれば、一般的な子どもがどれほど自分を見つめられるか想像がつくし、子どもが感じる気持ちよさの厚みみたいなものも把握しているのが普通だ。そこからどう進めるか、なのだ。


 この著が何か「新しさ」を提起しているかと言えば、それは当てはまらない。ただ歴史的な観点や複雑化する社会の見方を示し、道徳を俯瞰視するためには刺激になる。「自分の頭で考える」「自分で作る道徳」を強調はしているが、日本人の思想や価値観に根づいた部分もクローズアップされ、正直歯切れ悪さが残る。

久しぶりのこんな秋

2015年11月04日 | 雑記帳
 今年は好天が続いているせいか、「秋のよさ」を感じられる日が多い気がする。休日に用事が立て込み、紅葉を見に出かける余裕はないのだが、道々で思わずカメラを撮る日もあり、フォトブログを久しぶりに更新した。こんな秋は久しぶりの気がする。今日発行した学校報につれづれなるままこんな駄文も載せてみた。



 今年の秋は例年に比べて、紅葉が少し早い気がしました。
 気温の具合もよかったのか、色鮮やかな樹木が目立ち、名所でなくとも様々なところで楽しめました。
 イチョウももう色づき始め、存在感を増しています。

 若くして夭逝した童謡詩人の金子みすずが「大きな文字」という題名の詩を書いていたことを思い出しました。

 お寺のいちょうの
 大筆で
 だれか 大文字
 かかないか

 東のお空
 いっぱいに
 「コドモノクニ」と
 書かないか

 今に出てくる
 お月さん
 びっくり しゃっくり
 させないか

 イチョウを黄色い大筆にたとえる詩人の感性の素晴らしさにため息がでます。
 空が青く澄んだ日に、子どもと一緒にその樹木をながめながら「空にどんな字を書こうか」と想像できたら楽しそうです。
 冬に向かう季節は一抹の寂しさもありますが、自然の変化を目の当たりにできる絶好の時です。
 どうか散歩などして、残り少ない秋を共に感じる時間を過ごしてください。一枚の葉っぱにも豊かさは感じられるものです。

境遇とは変化していく

2015年11月03日 | 読書
 【2015読了】110冊目 ★★
 『境遇』(湊かなえ  双葉文庫)


 本の帯を見たとき、ああこれはテレビドラマになっているなと気づいた。数年前、松雪泰子主演だったと覚えている。あとがきを見ると、これはドラマのための原作の書き下ろしだったことがわかった。小説を出版して、すぐにドラマ放送というパターンらしい。そのせいか、今まで読んだ話より密度が低い気がした。


 それでもまあ「一気読み必至のノンストップミステリー」という惹句が、まんざら嘘でもないところが、湊の巧さだ。何かあると思わせつつ着地させ、どんでん返しやさらなる深みを用意しておくというストーリー展開の妙を感じる。確かにテレビドラマ用という気はするが、鍵となる「絵本」も新収録されて楽しい。


 主役となる二人が児童施設出身であることから、題名が「境遇」と名づけられたのだろうが、この題名、改めて見直すと面白い熟語だなと思う。「その人が置かれている立場や環境」(明鏡)がその意味であるが、まず「境」がポイントか。「さかい」を表すことから、一定の範囲、場所、状況等を一括りにしている語だ。


 「遇」とは何か。これは「あう」ことだ。そしてその出会いは必然というより偶然に近いということが、漢字を見ていてもわかる。つまり「境遇」とは、境目のある一定の地域等のなかで、様々な事物に出会うことから発している。大漢和辞典に書かれてある語義は実に渋い。「この世で人が置かれている運命の状態


 「運命の状態」はこの物語に当てはめるのには適当だ。出生時に背負った格差、施設に預けられ次へ向かう経緯、その後の変化により強化された環境の違い等々、かつて心を通い合わせた接点は実に強く結ばれたが、すれ違いを見せた。しかし、再びの出発を目指して歩む結末となる読後感は涼やかで、湊作品では珍しい。

あの時、うたった詞を

2015年11月02日 | 雑記帳
 土曜日は、午前午後と閉校記念式典のかけもちだった。午前中は隣校、来年度に勤務校と統合する学校である。かつてお城のあった丘に建てられている。校歌の作詞者はお世話になった国語研の大先輩で、地元の詩人でもあった。「にんげんを創れ ふるさとを創れ にっぽんを創れ」という心に響く詩で締め括られる。


 午後からは山間部の小学校。統合になってまだ11年目。統合前にこの校舎に5年勤めた経験もあり、懐かしさがつのる。この校歌の歌詞も同じ方が作った。一番の後半の詞はこうだ。「みんな夜明けの木になって いのちの花を咲かそうよ ことばの花を咲かそうよ」…ここにも学校を愛する気持ちが溢れていると思う。


 2校の閉校式典で子どもたちの呼びかけを聞きながら、自分も閉校のための群読用の詩を作ったことを思い出した。もちろん、上記の先輩には及びもつかぬが、個人的には気にいっていた。データがあるはずと探してみたらたどりついた。2004年2月の作である。隙間風吹く古い木造校舎であったが愛着もあった。


 題名は「ヒカルイシになれ」。我ながら格好つけたタイトルをつけたものだ。校門を入ったところに大きな石(鳥海山から運んできたと言われている)があったことを素材に「意志」と重ね合わせ、宝石のようなイメージを持たせたかった。少し長いが載せてみる。明日は「文化の日」なので勝手に自分で酔い痴れよう。


ぼくたちと 
ぼくたちにつながる たくさんの人
わたしたちと 
わたしたちと生きる たくさんの人
みんながおもう 
みんなでおもう
      
学校は、いつも待っていてくれた
学校は、いつも微笑んでいてくれた
いつも包んでいてくれた
わたしたちの 手と手 ことばとことば 心と心をつないだ結び目を
様々な形や色をしたものたちは
いつだって あたたかく見守っていてくれた

赤いランドセルの肩に落ちた 桜の花びら
緑の山に届けとばかりにあがる プールの水しぶき
風とかけっこをしたグランドに 根をはった草
雪をはらって入った教室にともる ストーブの火
       
そして、その中にゆっくりと立ち上がるぼくたちの風景
黒板には、いつも誰かの名前が書かれていて
廊下では、はだしの足がしっかり踏みしめられていて
体育館いっぱいに、仲間を呼ぶ声が響きあっていて
教室の窓は、何でもつかめる手で、毎朝開け放たれていて
       
わたしたちは、そのときの小さい身体で 
いったいいくつの夢を描いただろう…
その夢のひとつひとつは
きっとこの校舎の あちらこちらにしみ込んでいる
教室の床も、階段の手すりも、水道の蛇口も…
その夢の記憶で わずかなきらめきを放って 息づいている

さみしい風が吹く前に、
そのきらめきを 心の中に呼び集めよう
百二十九年分の輝きは
強く、硬く、この胸にしまいこまれる
未来へのコンパスを手に入れるために

ヒカルイシになれ 学校 
ヒカルイシになれ ぼくらの学校
ヒカルイシになれ 田代小学校

ほら、空も 山も 風も
今この時、この場所を見つめている

ヒカルイシになれ

仮説実験生活の心得

2015年11月01日 | 読書
 『発想かるた』よりもう少し。

 板倉氏は言うまでもなく、仮説実験授業の祖であり、それに絡んだことわざがいくつもある。
 そして、それらはある意味とても有用な人生訓でもある。


 「予想たてると見えてくる」

 筆者は「なぜ、どうしてと考える習慣」よりも、予想を立てる方が効果的という。
 理由、訳を問うことは、よく知っている人に聞いたり、調べたりが主になるが、それより予想を立て、自分で実験して確かめる、失敗してもその理由がつかめることに意義を置いている。
 生活の全てに応用可とは言えないが、「出だしの論理」として貴重な姿勢である。


 「予想変えるも主体性」

 予想を変えることは恥でも何でもない。
 公表した意見の変更は少しばかり勇気がいるが、周囲にとらわれると本質を見失う。
 変更へのこだわりを捨てることが、自分の進歩につながるという、これももっともな話。


 「疑問は選択肢できけ」

 仮説実験授業の大きな特徴でもあり、解答例があることが、授業への参加を促している面が非常に大きいと思う。
 授業で選択肢を用いると、ともすればクイズ的というような批判をうけることもあるが、「問題の意味が明確」になるという観点は、非常に大きいと思う。
 授業に限らず、人生は選択の連続でなりたつとすれば、肝心な時に漫然と考えるのではなく、いくつかの選択肢を持って思考できることは、とても大事である。
 筆者はこう書いている。

 「選択肢付きの問題提起ができたら、半ば問題を解決したに等しい」


 たぶん選択肢をつくる段階で、覚悟を決めるということか。



 さて、この本をもとに書いてあるとても充実したサイトを見つけました。
 ある学習塾の方が開いているページで、ここの部分は今年書かれています。
 20年以上前の著書なのに、それだけ普遍的な真理が散りばめられているということですね。