すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

人は会うべくして会う

2017年01月21日 | 読書
2017読了5
『なぎさホテル』(伊集院静  小学館文庫)

 このホテルのエピソードは、様々な場に書かれていて大まかには知っていた。それをまとまった形として残した、いわゆる「自伝的随想」である。風体や日常の暮らし方だけで他者を評価したりしない人間…言うには簡単だが、この世にどれほど居ることだろう。この作家は、そういう人々に会うべくして会ったのだ。



 会うべくして会うとは、一つの結果論である。運命的な出会いという言葉もあるが、それとは少し違うような気がする。砂浜に座ってビールを飲んでいた男に声をかけた老人は、一言二言で何かを感じ取ったに違いない。目つきや仕草であったかもしれない。ホテルに招き入れたのは、きっと老人の心が欲したからだ。


 何者かになるための孵化する場として、提供したように思う。一方の男にとって気まぐれであった行動は、誰かに導かれるように読書や思索に没頭する時間に変質していったのではないか。そういう関係の中に、一切姿を見せないのが「打算」である。金銭の話題は何度も出てくるが、どこをとっても周辺事項なのだ。


 あとがきは「いつか帰る場所、時間」と題されている。その場所、時間から遠く離れてある今の自分が、「帰った」と認識できるのは、きっとそこが出発点であり、経験を重ねた心身が距離感を持って見ているからだ。多くの目や手によって見守られていた場所や時間を、時々思い浮かべるのは意味のあることだと思う。

まずしっかり見るのだ

2017年01月20日 | 読書
2017読了4
『バカボンのパパと読む「老子」実践編』(ドリアン助川 角川文庫)

 前著『バカボンのパパと読む「老子」』を、そのとんでもない題名に惹かれて、(というより著者ドリアンのファン)手にとったのは2012年。この組み合わせの妙をその時こんなふうに書いた。「バカボンのパパは、ピントをはずしている人でなく、ずっと遠くにピントを合わしている人なのだ。」この続編も楽しかった。



 そうなのだ(と突然バカボンのパパ口調になった)。儒教、論語の孔子思想は、確かに世の中を背負っていく世代には心身の支えになる。それに反する道教の老子の思想は、人為的な仁義を否定し、礼法を排し自然と歩むことを軸とする。齢を重ねてくると、なんとなくそちらに惹かれるのだ、と素直に言ってしまおう。


 生き方とは「ピント」をどこに合わせるかで決まる。別に遠くに合わせることが正しいというわけではない。自分の価値観をどんなふうに定めるか、である。「老子」の第一章に込められていることは、無常観といった要素も非常に強いが、その本質ではないか。視野に入らない世界も取り込み、受け入れる度量がある。

 道の道う可きは、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。
 (道が語りうるなら、それは恒常の道ではない。名が名付けうるのものなら、それは恒常の名ではない。名のないところから天地が現れたのであり、名があって万物は存在し得た。)


 「故に」と続けられる文章で、ものに対する欲望と本質について語られる。いうなれば「目に見えない本質」をどうとらえるか、それが「道(TAO)」そのものだという気がしてくる。しかし結局、人間は「名づけ」から解放されない。言葉を軽んじることではないが、まず現象をしっかり見ろと強調していると思った。

「トランプ」を応援する雑誌

2017年01月19日 | 雑記帳
 宅配してもらっている雑誌の表紙に、こんな愉快な言葉が載っていた。



 もちろんカタログハウス『通販生活』の立ち位置からすると、かの国の大統領のことを揶揄していることには違いない。

 そして、肝心の記事は「トランプ(カード)」そのものの販売で、テーブルマジックセットとなっていた。
 
 保護主義に走る新大統領が見せるのは、マジックなのか、という皮肉も込められていたりして…。

 マジックとは人々の驚きを誘うものだが、芸としては通常それが幸せに結びつくものだろう。

 大統領が見せるマジックに、人々は驚きのあとどういう感情を抱くのか。
 そして、どんな結末になるというのか…考えれば考えるほど、「トランプ」という名の象徴性を感じてしまう。

 なお、私の「トランプ」評(笑)は、11月に書いていました。



 愉快な雑誌は、今季号の「落合恵子の深呼吸対談」の相手に小泉純一郎元総理を選んだ。

 この方がその座にあったときの施政に関する評価はともかく、現在は「反原発」という立場を貫いていることでのゲストになったようだ。
 相変わらずの小泉節のように思える。期待はしたいが、やはり現役を退いた人の発言力の衰退はどうしても感じてしまう。
 権威はあるにしろ、力を発揮するにはまた別問題。オバマさんの最終演説もさみしく聞こえる。

感じ方の更新が迫られている

2017年01月18日 | 雑記帳
 あなたが感じる美しさ、豊かさは今も変わっていませんか。

 今回の季刊誌『考える人』から、もう一つ引用して考えたい。

 写真家の都築響一が「足し算の美学」という文章を書いている。
 こう記されている。

 デジタルは「足し算の美学」だと、最近つくづく思う。




 都築は編集者としての顔も持ち、雑誌編集や写真掲載など印刷媒体の仕事をアナログと呼んで、それは「引き算の美学」であることを説明している。

 確かに俳句や歌詞づくりを持ち出すまでもなく、この国の文化は「選んで」「削って」「絞り込んで」といった類の価値を優先してきたことは間違いないし、限定された空間の中で理想を追求することが常だった。

 しかし、デジタルそしてネット空間の登場によって、ある意味では限定から解放され、文章であっても「まとめるとかよりも、見たもの聞いたことをなるべくたくさん伝えたい」という状況が生まれている。

 それはある視点から言えば「ゴミ情報」とされる場合もあるが、伝えることに関して明らかにスタイルが変わってきたことを、認めざるを得ないのではないか。

 もちろん、そのことが新しい美しさ、豊かさだと決めつけるわけではない。
 時間の有限性という壁の前には、足し算の無限性は考えられないし、質か量かという絶対的な二者択一は何時の場合も不毛だ。

 ただ、デジタルと付き合っていかざるを得ない明日を踏まえ、私たちが目を背けてはいけない事実、そしてそれは感じ方の更新さえも迫っていることを自覚していこうと思う。


 都築は、次のように文章を締めくくっていた。

 研ぎ澄まされた「引き算の美学」だけではなく、言葉やイメージを無限に重ねることで空間や時間を埋めていく「足し算の美学」が生み出す豊饒さ


 いずれを選択するにしても、またバランスのとり方に重きを置くにしても、「伝える」者は、自らのスタイルに意識的になり、美学を確固たるものにしたい。

現実と言葉を洗い直す

2017年01月17日 | 読書
2017読了3
 『定義集』(大江健三郎 朝日文庫)

 解説の落合恵子によると「上等で上品な大江さんの言葉」は、私には正直理解しがたい箇所が多かった。いわゆる教養がないことと同義だろうが、語彙をうまく消化しきれなかった。ただ、問いかける向きにはシンパシーを感じるし、一言にぐっと重みを感ずるのは、抑えた口調ゆえか。特に冒頭の一篇は心に残る。


 それは「注意深いまなざしと好奇心」と題され、障害を持つ長男との日課である歩行訓練の時のエピソードである。路上で倒れた長男の介助にあたっているとき、通りかかった壮年婦人と高校生らしい少女の対応を書いている。壮年婦人は手を出そうとして拒否され憤慨し立ち去り、少女はある距離を置いて見ている。


 障害者とその家族に対して、「(こちらが受け入れられないほど)積極的な善意を示し」た婦人と、離れた場所からケータイをちらつかせじっと「注意深くこちらを見ている」女子高校生の、どちらの対応がより望ましいか。「人間らしさ」という点でいえば、一般的には前者の方が評価されるかもしれない。が、しかし…。



 不幸な人間に、問いかける、手を差し伸べることが、人間らしい「資質」であることは間違いない。しかし、穿った見方をすれば「不幸な人間への好奇心だけ盛んな社会」という面も確かにあり、そこで著者は「あの少女の注意深くかつ節度ある振る舞いに、生活になじんだ新しい人間らしさを見出す」と書いている。


 「定義集」という名付けは、いわば目に見える現実とそこに現れる言葉とを洗い直していることだ。正確には読み取れなかったが、個々の題名を目にしただけで、問われている気がした。三つだけメモしておく。「書くという『生き方の習慣』」「余裕のある真面目さが必要となる」そして「自力で定義することを企てる」

去年は、サルも考えていた

2017年01月16日 | 教育ノート
 細かく降り続く雪のなか、近所の兄弟二人がランドセルを背負い

 我が家の前を通り過ぎて行った。


 今日から三学期が始まるのだなあ…


 ふと、去年自分の干支でもある申年の始業式に話したことを思い出した。

 初任の若い先生の顔写真を利用させてもらいながら語ったことだ。


 原稿を探して読んだら、なかなか良いではないかと自画自賛(笑)。

 激励の意味を込めてアップしてみる。


・・・・2016.1.13 原稿 

 今日から三学期です。そして新しい年が始まりました。

 「えと」といって、それぞれの年には、12の動物が割り当てられていることを皆さん知っているでしょう。
 今年は「申」年。この中で、申年生まれの人はいるでしょうか。

 さて、こよみのサルはこんな書き方をしますが、ふつうはこんなふうに書きますね。
(「申」と「猿」を提示します)
 では、サルの写真を…、秋田にある大森山動物園では、この冬でも動物園を開くそうで、今年のポスターが、この前新聞にのっていました。(写真をプロジェクターで映します)



 人間に一番近い動物と言われるサル、とても似ているところが多いそうなんですが、違いはなんだろう?と考えてみました。
 サルの代表・・・・人間の代表・・・・
 (写真をプロジェクターで映します)

 みなさんはどう思いますか。

 先生は、こんなふうに考えてみました。

 例えば、ある道に一本のバナナが落ちていたとします。
 これを見つけたとき、サルはずはやくぱっと来て、バナナを取って、食べるでしょうね。

 しかし、人間は、そんなふうにするでしょうか。
 このバナナは何だろう。本当にバナナか。なんで落ちているんだろう。汚くはないのか・・・・と様々なことを思う。そして、考えます。

 「ことば・文字」をつかって、ふだん生活しているから、しっかりと考えることができるんです。
 サルにも、サルの言葉があって、伝えることはできるそうですが、きっとバナナを見たサルの頭の中は「あっ、バナナ」「食べたい」それしかないんだよね。

 そこで、さっきのポスター。上に「考えるサル」とあるけれど、先生は本当かな、と思ってしまったのでした。


 さて、みなさんはこの漢字を知っていますね。
 (「」という字を映します)
 もう一年生もならったでしょう。

 「正しい」…間違っていない、よいこと、という意味ですが、この漢字のでき方を紹介します。

 これは、一画目と、下の四画に分かれます。
 「一」という字と「止まる」という字ですね。
 (色分けして、提示します)
 成り立ちは、「一」が昔のお城、お城の塀、壁などを表していて、そのつながりから「めあて」というふうに考えられるそうです。
 「止まる」という漢字は、足の裏の形からできたものです。
 だから、進むという意味になっていくようです。
 昔、中国で戦争をしているときに、軍隊がお城を目指して進んで、お城を囲んでいるへいのところで、止まって、どう攻めるか、考えているようなイメージです。

 だから、この漢字は、こんなふうに考えることができそうです。

 「ちょっと」「止まって」「考えよう」。そうすれば、正しい行動ができる。
 (文章を少しずつプロジェクターに提示します)

 正しい行動は、西馬音内小学校の目標「ぜんしん」につながります。

 三学期も、「ぜんしん」できるように先生方といっしょにがんばっていきましょう。

・・・・・・・

四字熟語の一長一短

2017年01月15日 | 雑記帳
 恥ずかしながら結果発表。99問中84の正答。×だった15問の内訳は、完全にわからない(聞いたことがない)熟語が5、ど忘れが5、漢字の間違いが5だった。他はともかく、完全×は「広大無辺」「内憂外患」「「外柔内剛」「一得一失」「有為転変」「片言隻語」「有為~」は辞書になく、最後の熟語はどう読むか迷った。


 「へんごんせきご」と読む。「隻辞」「隻句」という言い方もするようだ。辞典では「一言半句」(ちょっとした短い言葉)の類語として載っていて、実際使われた文章も見たことがない。こんな難易度が高い熟語を出す必要があるのか!と自分の知らない言い訳ではなく、選抜試験問題というものの本質を考えたりする。


 うっかりミスは性格や現況を知るうえで、貴重なのかもしれない。「□□応答」は、当たり前だが「質疑応答」。ところが私は「即時応答」とした。笑える間違いではないが、スピード化に毒されている証拠か。「粉□砕□」は「粉骨砕身」。それを読みは同じでも「粉骨砕」としてしまった。頑張り砕けるのは心だったか。



 よく取り上げられる「笑える間違い」。一番有名なのは「」の穴あき問題を「焼肉定食」としたことか。最近の傑作は「」が「品川方面」という返答。いずれにしろ、漢字の造語力の強さだ。某保険会社が募集している創作四字熟語も面白い企画である。従来の熟語をパクリながら世相を表している。


 四字熟語の広まりに関する批判もある。「文語であるという意識が希薄になり、四字熟語の骨ばった字面の手触りと、音韻法則の独自性のみが面白がられるようになった」と別役実は指摘している。つまり、込められた意味の正確さよりも意味以外の要素が強い傾向だ。使いこなすには難敵という自覚が必要のようだ。

四字熟語の合う体型(笑)

2017年01月14日 | 雑記帳
 雑誌記事を見て久々にヘエェェと思った。情報源はWikipediaだと書いていたので、そこを開いて再びヘエェだった。「四字熟語」のことである。まず、現在のように独立した?意味合いで使われ始めたのは85年以降だと言うのである。それまでは故事成語の範疇にあるような扱いであった。こんなに最近だったのか。



 教職についたのが70年代末。漢字指導は当時自分のテーマの一つだった。「熟語」で国語研の研究授業を引き受けたこともある。そう言えば、そのときも四字熟語は扱ったが、二字から三字、四字、それ以上という流れだった気がする。四字熟語がぐっと存在感を増したのは、かの貴乃花の大関昇進時の口上だという。


 当時の貴花田が使ったのは「不撓不屈」だった。横綱昇進時の「不惜身命」(ふしゃくしんみょう)は、意味も知らなかったから新鮮に感じた。力士の口上は注目度が高いので覚えている。もちろん、全ての昇進力士が同様に使用するわけではない。しかしイメージとしてどっしりとした体型には、四字熟語がよく似合う。


 さて、国語科指導に四字熟語を使った有名な実践がある。「四字熟語作文」である。既成の四字熟語を使ってもいいが、自分の名前も含め、造語性を利用して様々な意味を作り出し、話を作っていく楽しい活動である。高学年だとかなりノッてくる。例えば「○○○○(氏名) 頭脳明晰 成績優秀 単身上京 東大入学…」と。


 辞書に親しめるし、国語への関心を高めるいい活動だな…などと少し昔の思い出に浸っていたら、たまたま取った朝刊の「中学自習室」に四字熟語の穴あき問題が…なんと偶然、ボケないように挑戦せよという暗示か。全部でなぜか99問。一問目は「悪□苦□」楽勝です。「悪戦苦闘」か、悪い予感がする。結果は次回で(笑)。

あなたの情報が吸い取られる

2017年01月13日 | 読書
Volume35

 「あなたがその本について知る以上に、本があなたを知ることになるのです。紙の本ではこうしたことは起きませんが、電子書籍に関しては人と本の関係が変化していくことを認識しておく必要があるでしょう。」


 歴史学者ユバァル・ノア・ハラリが、「ホモ・サピエンスと言葉」と題されたインタビューで、締め括りとして語った。
 キンドルつまりアマゾンが読者の行動データを集めていることを例として出している。

 「本」と特定しなくても、ネットにおけるデジタル情報は全てそうした面を持っていることに気づいている人は多い。

 典型的なのはネット通販。
 自分の購入履歴はもちろん、閲覧履歴が画面に反映されていることに辟易しながらも、だらだらとそれに目を落としている者は、どれほどの数に上るだろう。
 もちろん、自分もその一人と認める。



 自分が情報を得ようとしたときに、それ以上に「自分の情報」が吸い取られていくということに無関心ではないと思うが、飼い馴らされている現状も強いように感じる。

 かつて東浩紀が述べた「総記録化社会」は確実に進行し、「人工知能とビッグデータ」に支配されていく世の中…。
 様々な問いをネットに語る便利さと同時に、その意味は深く考えてみなければならない。

 同時にゆとりを持って、その技術の進歩をからかってみるように醒めた視点もほしい。

 先日トーク番組「人志松本のすべらんなあ」で、バカリズムが語った、アマゾンを使っていろいろ試して遊んでいる話(億単位の高額な物品をカートに入れてみる)は、技術を面白がっているように見えて、興味深かった。

 肩の力の抜け加減も大事なことだ。

言葉の力を取り込むとき

2017年01月11日 | 読書
Volume34

 「人類全てが決めてきたようなそんな言葉の印象は確かに強く、そしてその言葉に飲まれて、レッテルを貼られたように、言葉に操られてしまうとき、言葉というものは圧倒的な暴力でしかないだろう。でも、それでもそうしたものをかいくぐって、その人がその人の見ている生活・人生を通して、言葉にその人だけの姿を見出した時、私は言葉がうつくしいものだと改めて思うのです。」


 若き詩人最果タヒの文章。

 「言葉の力」は、公的な場では肯定的に使われることが多いと思うが、現実には「暴力」であったり「強制力」であったりすることがある。

 それも、世界全体を覆うような影響を与える言葉から、ごく身近な家族や友人の中で交わされる言葉まで、どんな場でもあり得る。

 今日もまた誰かがある言葉に打ちのめされ、涙を流している。
 それは意図的に向けられることも多いが、無意識のうちに発している場合もあるだろう。



 人がそのことを自覚し、一歩慎重になろうとするならば、いくつかの手がある。

 例えば、読む、書くという行為の、滞在時間の長さは十分に役立てることが可能だろう。

 
 自分の「生活・人生」が、読書や書く作業とあざなえるような時間を持てたときに、言葉が「うつくしいもの」として内部に取り込まれていくような感覚を持てるのだと思う。